あけましておめでとうございます
今年も穏やかな新年を迎えることができました
体調は年齢相応と申し上げておきます
突然ですが、年末に喪中の知らせのはがきが届きます。
昨年も10数通のハガキを頂戴しました。
12月中旬に元同僚お二人の訃報が届きました。
‘17年の賀状の準備をしている真っ最中にです。
奇しくもお二方は11月中旬に他界されたとのことでこのタイミングになったのでしょう。
この知らせはショックでした。
これまでも職場を共にした方の訃報は何度も受けてはいましたが、足軽並みの下っ端時代の上司だったこともあって案外平静に受け止めることができたのですが、今回は状況が少し違います。
企業戦士として苦楽を共にしてきた仲間でした。
振り返ってみるとお一人の方の(前年の)賀状に「病気にやられた」と添え書きをされていたことを思い出しました。
離れた地域に居を構えているのでなかなか顔を合わせる機会がなく時が過ぎ、最後にお会いしたのは、数十年前、千葉でのゴルフが最後だったように思い出しています。
心よりご冥福をお祈りいたします。
▽さて本題です。
今年もたくさんの賀状を頂戴しました。
ざっと眺めると、一頃多かった“元気ですか”の一言だけの添え書きが少なくなったような気がします。少し踏み込んだコメントが多くなったということでしょう。
一方、相変わらず決まり文句のみが印刷されたのも散見されます。
沢山の賀状を出す多忙な方にとっては、やむを得ないのだろうと最近思うようになりました。
“元気ですか”の陰には「私は元気ですよ」との気持ちがこもっている、 また決まり文句の賀状にしても、(例え義理で書いているのだという背景があるのだとしても)忘れないで出してくれたことに謝意を表すべきなのかもしれない。
喜寿に達した今、このように思うことができる寛容さ?が身についてきたのかなあと感じる次第です。
因みに
‘17年の私の賀状は
日々是平穏
朝起きて
食べて
散歩して
昼寝して
こんな気儘な日々を過ごしております
冒頭の言葉です。「朝起きて」は不要かなあ・・とも思ったのですが、私の年になりますと、朝目覚めること、布団の中で手足の動きを実感することは、元気な一日が始まる「証」なのです。
さらに
最近の関心事や家内の陶芸のことなどを載せ、親しい方々には
一人一人にコメントを追記するのですが、これを自筆で書くのはスペース的に難しいのでこれもパソコン処理にしています。
自分で撮った写真と家内の陶芸作品の写真を載せるものですから・・・・
従って、手書きのコメントはごく限られた人に限定されています。
これが良いのかどうかはわかりません。自分のわがままです。
恐らく今後もこのやり方でいくのでしょう。
長年賀状のやり取りをさせていただいていた先輩の中に少し気になる方々がいらっしゃる。
ここ1~2年賀状が届かないのです。
単に、長年の疎遠で年一回の賀状で繋がっていた関係ですから、自然に途絶えるのはやむを得ないと思っているのですが気になります。
今、その数5名ほど。今年も届かない(今日現在)。
病気などでその気力失せているのだろうか・・などと推測しながらも、では電話をするなりの方法で家族に問い合わせるという度胸もない。
兎に角、家族との接点がない。その気になればできないことではないのですが、御年やこれまでの付き合いの状況等を考えると、そこまでして・・・・と躊躇するのです。
ひょっとしたら亡くなっているということもあり得るのです。
そうした場合は、遺族からの知らせが無い限り知りえないので、1~2年は律儀に一方通行の賀状を発することになるのです。
ここで得た教訓!
「私が賀状を書くことができない状況になったり、
万一のことがあったら」
その旨をタイミングを見計らって友人諸氏に連絡をしてもらうように家族に伝言しておくことです。
久々に更新しましたら、随分様子が変わっています。
文字の大きさが意図したように反映されません。
操作方法がまだが分かりません。
読みにくくてごめんなさい。