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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 : アフガニスタン・パキスタン・イラン・イラク Part1

毎日の新聞紙上に頻繁に登場する国々を挙げると、日本との係わりではアメリカを筆頭に、中国、韓国、ロシアなどが多い。
一方、政情が不安定で何らかの紛争や問題を抱えている国々には、アフガニスタン、パキスタン、ウクライナ、イラン、イラク、北朝鮮などがある。

3月に入って、「現代史」の講座が始まった。
今回は、四つの国が取り上げられる。
アフガニスタン、パキスタン、イランそしてイラクである。
いわゆる、中東における問題の国々である。
いつもならば、これらの国々を個別に、他国とは切り離して現状を解説してもらっている。

しかし、これらの国々の場合、単独では論じられないほど互いに複雑に絡み合っている。
いや、四カ国だけでなく、これらの国に“アメリカ”が絡んでくるから更に事は複雑である。
従って、今月はこれらの四カ国とアメリカとの関係を交えた現状を中心に紐解いていくことになった。

現状、そして若干の歴史的な背景にも遡るので本稿も少々長くなる。
相変わらず、講義と新聞のスクラップ、報道番組での解説、参考書などあちこちから勝手につまみ食いをさせていただいて、私なりに配列したものである。
まさに、「受け売り」であることをご了解願いたい。(今更、お断りすることもないのだが・・・)

“アメリカ”が・・・と書いたが、これまでに“アメリカ”が単独で取り上げられたことはなかった。
次回(6月の予定)では、いよいよこの“アメリカ”が俎上にあがる。
事前の参考書として「好戦の共和国 アメリカ ~戦争の記憶をたどる~」(岩波新書)が紹介された。
6月までに読むようにとのことなのだろう。

題名が面白い。
アメリカはまさに“好戦”の国なのかもしれない。
南北戦争以来、近年のイラン、イラク、ベトナム、アフガニスタンなど、常に軍隊を海外へと派遣している国である。
その辺のことは後日に譲るとしてまずアフガニスタンから取り掛かっていこう。




◇はじめに
 各国の特徴としては
アフガニスタン・・・市民は“国家”を意識できず、民族・部族の利益を優先する
パキスタン・・・・・・インドとの因縁の対立が背景にあり、インドと正面から対峙した場合の背面対策 としてアフガニスタンに接近する
イラン・・・・・・・・・・ペルシャ以来、幾多の盛衰があったが“国家”としてのまとまりがある
イラク・・・・・・・・・・治安がほぼ安定し、米国ほかの駐留軍14万人強は徐々に撤退の方向に動き出した

 一方、各国の共通点としては
・イスラム教徒が大勢を占める
・歴史的には、欧米に支配された経験を持つ(植民地としての期間が長い)
・政情が不安定で、民族問題を抱える
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アメリカにおける同時多発テロで世界の注目を浴びたアフガニスタンでは、東西冷戦の狭間でソ連の侵攻以来21年間にわたって内戦が続いた。

ソ連軍の撤退後は、世界から忘れられていた。その間、難民は膨大な数に膨れ上がり、オサム・ビンラディンによるテロのネットワークの拠点となってしまった。
そのアフガニスタンが今再び世界に注目されている。オバマ政権がアメリカ軍の増派を決定したからである。1万7千人だという。当初、3万人とぶち上げたが取り敢えずということか。混沌とした政情、破綻した経済、何の希望を持てない市民、アフガニスタンは将来に、何を求めているのであろうか。

◇アフガニスタンという国
f0020352_13465152.jpgアフガニスタンは、西アジアに位置し、日本とほぼ同じ緯度である。(首都カブールは大阪と同じ緯度)面積は、日本の約1.7倍、人口は1億6千万人(2007年外務省HPより)で、世界の人口第6位である。内陸の山岳国家で、カブールの標高は1800m.もある。寒暖の差が大きく、雨もめったに降らない。南部は広大な砂漠地帯。産業の中心は遊牧(ヤギ、羊)。生活は厳しく、平均寿命は45歳ほどという。
 19世紀、インドを植民地としていたイギリスは、たびたび北西にその勢力圏を広げようとしてアフガニスタンに攻め込んだ。
一方、ロシア帝国も、南下政策をとっていたので西アジアで、イギリスとロシア帝国が勢力争いをした。
1839年から42年にかけての「第一次アフガニスタン戦争」(イギリスとの)では、イギリス軍とインド人傭兵の部隊が、アフガニスタンの首都カブールを占拠した。
しかし、アフガニスタンの民衆蜂起によって42年に1万2000人の兵力は全滅し、生き残ったのは121人だったという。
イギリスは更に1878年にもアフガニスタンに侵攻する。これが「第二次アフガニスタン戦争」である。この戦争でアフガニスタンはイギリスの保護領となるが、国内での暴動が頻発し、イギリスは1880年に撤退している。
 その後、1893年から95年にかけて、イギリスとロシア帝国が、アフガニスタンの国境を勝手に決めてしまった。お互いが都合のいいようにその勢力圏をきめたのである。
特にアフガニスタンとイギリス領インド(後に、パキスタンとなる地域)の国境線の線引きは後に多大な影響を及ぼす結果となるのである。
なぜならば、「パシュトウン人」が住む地域の真ん中に勝手に線を引いたがために、パシュトウン人の住む地域がパキスタンとアフガニスタン分割されてしまったのである。しかし、住んでいるパシュトウン人の知らない間に引かれた線引きのため、パシュトウン人はこの国境を勝手に往来しているのである。その後、アフガニスタンは、第3次アフガニスタン戦争を経て1919年独立する。

注)  アフガニスタンとは「アフガン人の国」の意味である。(「ウズベキスタン」がウズベク人の住む国であるように)多民族国家でもある。その中でも山岳地帯に住む最大勢力が「パシュトウン人」で、国境線の線引きで分割された結果、アフガニスタンとパキスタンに数百万人ずつ居住する。
地形的には、険しいヒンドゥ―クシ山脈(国土の北部を東西に走る)やその支脈で国土が分断されており、地域社会に分散して居住する民族・部族は国への帰属意識は薄い。アフガニスタンの民族・部族が自らの利害を優先させるという意識を捨てることができるか、政府と足並みをそろえることができるか、その辺りが安定した国家への大前提になりそうである。

◇ソ連軍によるアフガニスタン侵攻
 第二次世界大戦後に始まった“東西冷戦”は、アメリカ陣営とソ連陣営の勢力拡大ゲームだった。アフガニスタンもこの勢力争いに巻き込まれた。特に、ソ連陣営は積極的で、ソ連国境から首都カブールまでのハイウエー建設などの援助を行い、アフガニスタンを自国の衛星国と考えるようになる。
そのアフガニスタンで、1973年、軍事クーデターが起き、これを機に王制を廃止し、アフガニスタン共和国が誕生した。ところが、ダウド新大統領はソ連寄りの政党人民民主党(実態は共産党)を弾圧する。怒ったソ連は人民民主党を応援。78年4月、人民民主党がクーデターを起こし新たに権力を握る。

今度は、政権内部で対立が発生し、(アメリカ留学の経験がある)アミンが権力を掌握する。ソ連共産党はこれに危機感を持つ。アメリカ寄りになるのではないかと疑いだしたのだ。
そこで、ソ連は武力で親ソ政権の樹立を目指した。これが「ソ連によるアフガニスタン侵攻」である。
ソ連軍は、直ちにアミンを殺害し、傀儡政権を樹立。
 ソ連軍の侵攻に驚いたアメリカのカーター大統領は、80年1月、対ソ経済制裁を発表し、ソ連向けの穀物輸出を禁止。さらに、この年の7月に予定されていたモスクワ・オリンピックのボイコットに発展した。日本もその呼びかけに応じてボイコットしたのは周知の通り。

◇内戦
 ソ連侵攻で、アフガニスタン政府軍は大混乱した。政府軍はこれまでソ連に支援されてきた軍隊なので、ソ連軍に歯向かうわけにもいかないとする部隊もあれば、外国からの侵略と考えて抵抗する部隊もあった。さらに、政府軍から抜け出してゲリラ活動に踏み切る部隊も次々に出てきた。こうして、「政府軍の一部とソ連軍」対「反政府ゲリラ」という構図での内戦が始まった。
アフガニスタンは、イスラム教の国である。国民の殆どがイスラム教徒。内戦は「共産主義者」対「イスラム教徒」という構図になっていく。イスラム教徒にとっては、「イスラム教を守る聖戦」の意味合いを持った。多くの若者が、ソ連軍と戦うゲリラに身を投じた。

さらに、アラブ各国から若者が応援に駆けつけた。
その考えは・・・・
「神を信じない共産主義者」であるソ連のアフガニスタン侵攻は、「イスラムの土地」への侵略であり、これと戦うのは、イスラム教徒にとっては“聖戦”である。

このゲリラを支援したのがアメリカだ。いわゆる、“敵の敵は味方”という理屈で、冷戦でソ連と対立する立場のアメリカとしてはだまってはいられなかった。

隣国パキスタンも同じイスラム教の国として、ゲリラを支援する。
この時、アメリカは大量の最新式武器をパキスタン経由で送り込んだ。

注)この武器は、パキスタン軍によって横取りされたり、闇市に流れたりして、やがてはアフガニスタンに駆けつけたアラブ各国の過激派が自国に持ち帰ることになる。

 アメリカから巨額の資金を得たパキスタン軍は、この資金でアフガニスタンゲリラの養成に努め、アフガニスタン国内へのパキスタンの影響力を強めていった。
 ソ連軍の士気は低下する。大義名分の無い戦い、ソ連という自国を守るのではないこともその要因。その後、アフガニスタンにおけるソ連軍の苦戦振りがソ連国内に知れ渡り反戦ムードが高まり、ソ連共産党書記長ゴルバチョフは全面撤退を決断、89年2月15日、ソ連軍はアフガニスタンから撤退を完了した。
10年にもわたる戦争で、11万人の兵士を送り込み、兵士の死者1.5万人を越える大損害を受けた。多額の資金を投入した。ただてさえ経済的に疲弊していたソ連経済は悪化の一途を辿ることになり、ソ連崩壊の引き金となった。

                                                               つづく
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by m-morio | 2009-03-15 13:55 | 市民カレッジ | Comments(0)