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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 : アフガニスタン・パキスタン・イラン・イラク Part4

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イラク~将来への道~ その1

◇イラクは西アジアに位置し、正式名称は「イラク共和国」。
古くはメソポタミアと呼ばれ、肥沃なチグリス、ユーフラテス川流域を主要部とする農業国であった。
人口2710万人、首都はバクダット。
地図が示すように、北はトルコ、東はイラン、南はクウエートとサウジアラビア、西はシリアとヨルダンに国境を接している。
言語はアラビア語と一部クルド語。
20世紀になり石油資源を背景に工業化が進む。
政治的には、1958年の「イラク革命」で王制から共和制に転換したが政情不安定が続いた。
しかし、その後の70年代後半から比較的安定。

1979年にはサダム・フセインが大統領に就任し、「イラン・イラク戦争(1980~88)」、「湾岸危機・湾岸戦争(1990~91)」を経て長期政権を維持したが、2003年の「イラク戦争」で米英軍の攻撃を受け、フセイン政権は崩壊。
独裁政治の終焉とともに国内は混乱が続き、未だ散発的にテロ行為が続くが、オバマ大統領は再来年までには米軍を完全撤退すると表明した。








◇イラク王国の誕生
 イラクの地域は第一次世界大戦まではオスマントルコの支配下にあった。
そして戦後、オスマントルコの領土を仏国と分け合った英国はイラクの地域を委任統治領として支配下に置いた。
この領土は、大別すると、スンナ派地域、クルド人居住地域、シーア派主流の地域で、英国はこれらの三つの行政州を統合して「イラク」を作った。
しかし、英国が「イラク」として委任統治したのは、地下資源に目をつけていたからであった。
イラクは、いま、石油埋蔵量世界第三位を誇る。(外務省HP 2004年末基準)

 英国の委任統治を経て独立(1932年)し、1958年の軍人によるクーデターで王制を倒し、共和制政権が誕生する。「イラク革命」である。その後、63年にもクーデターが発生し、この頃からあのサダム・フセインが次々と政敵を倒し、権力の階段を上がり始める。
1979年7月フセインは大統領に就任する。

1979年というのは隣国の「イラン革命」の年である。
王制が崩壊し、イラン・イスラム共和国が発足した(1979年4月)。
革命後のイランは厳格なイスラム国家となる。
この”革命のエネルギー”が、イスラム諸国に影響を与えること、即ち”革命の波及”が周辺諸国の脅威となった。
 
 イラクは、イスラム教シーア派が多数派である。
フセイン政権は少数派のスンナ派中心で、シーア派は多数派にもかかわらず常に抑圧されていた。
イランの影響を受けたイラクのシーア派がフセイン体制を崩壊させようとして革命を起こすという可能性をフセインは恐れた。
「イランが革命で混乱しているこの時が攻撃のチャンス」
と考えたフセインは、1980年9月22日イランを攻撃し「イラン・イラク戦争」が始まった。
この戦争では、どちらの国も相手国に決定的な打撃を与えることができず、1988年8月23日停戦した。

 中東地域のアラブ諸国はアラブ民族だが、戦った相手国イランの多数はペルシャ人。
この戦争でイラクは腹に据えかねたことがある。
平たく言えば 
「イランというペルシャ勢力からアラブを守ったのに、他のアラブの国が、イラクのために十分応援をしなかった。」
との不満を持ち、直ぐ隣のクウエートにその矛先を向ける。

 地図で見ると分かるように、イラクはペルシャ湾に面した土地は極めて少ない。
船の通行に便利なペルシャ湾の利用が思うようにならない。
もし、クウエートが手に入ればクウエートの港湾施設が全部使え、ペルシャ湾を有効に活用できるのである。
加えて、クウエートには豊富な石油資源がある。(石油埋蔵量世界第4位)
戦争で経済的にも疲弊したイラクにとっては大いに魅力的な国でもあった。
このクウエートを自国のものにすることによって、イランとの長期にわたる戦争で負った多額の負債(借金)を返すことができるとも考えたようである。
そして、1990年8月イラクはクウエートに侵攻する。
「湾岸危機」である。

これに対し、国連は経済制裁の決議を採択。
さらに、イラク武力行使容認決議も採択する。
この決議は、多国籍軍(米軍主体)によるイラク攻撃に正当性のお墨付きを与えた。
注) 国連軍ではない。米国は、国連の承認は不要として開戦に踏み切った。
 国連軍ならば、戦費は国連の負担になる。多国籍軍の場合、指揮権は米国が握り、費用は参加国負担である。
1991年1月17日 「湾岸戦争」 が始まった。力の差は歴然。わずか100時間で終結し、イラク軍は、クウエートから無条件撤退した。

この戦争では「環境破壊」も話題になった。

イラク軍が撤退する際に、腹いせにクウエートの油井に火を放った。
莫大な量の石油が燃え上がり大気汚染をもたらした。
また、クウエートの石油基地からペルシャ湾に原油を放出し、深刻な汚染をもたらした。
ニュースでは、原油にまみれた海鳥の姿を映し出していたのを思い出す。

◇2002年11月、国連の査察団が、イラクに入り、大量破壊兵器の捜索を開始した。
湾岸戦争後、保有していた大量破壊兵器を破棄すると約束し、その査察が続けられていた。
一旦中止後の再開である。
ブッシュ前大統領は、捜索に協力しないと”攻撃するぞ”と脅しをかけた。
イラン、イラク、北朝鮮の三カ国を「悪の枢軸」と決め付けていた。

注) 大量破壊兵器とは
 すべての核兵器、化学兵器、生物兵器、それらを生産する手段、さらには、150キロの射程を超えるミサイルのこと

米軍がイラクを攻撃したのは2003年3月20日であった。
 「イラク戦争」 である。
二十日余りでバクダット陥落。
同05.01には米国ブッシュ大統領(当時)は、イラク戦争終結を宣言し、フセイン政権は崩壊した。

2004年には、イラク暫定政府へ主権を委譲した。

(つづく)
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by m-morio | 2009-04-13 12:53 | 市民カレッジ | Comments(0)