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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 : アメリカ Part4

◇ 領土の拡大 
1783年、パリ条約で独立を果たしたアメリカ合衆国だが、独立時の領土は大西洋岸からミシシッピー川までだった。それが、急速に領土を拡大していく。
1803年、フランスからルイジアナ西部を買収。(ミシシッピー川からロッキー山脈までの地域)
1818年、イギリス領カナダとの国境線を確定した。
1846年、テキサスを併合(アメリカ・メキシコ戦争) 同年、カリフォルニアの北オレゴンをイギリスより併合。
このように西へ西へと領土を拡大していった。f0020352_18161478.jpg

◇ 南北の対立
 西部開拓が進展し、西部に新たな州が誕生していくなかで、北部諸州と南部諸州の対立が激しくなっていく。
対立の要因は、両地方の産業の違いであった
北部では商工業が発展しつつあった。一方、南部では、奴隷を使った大規模農場経営が産業の中心であった。
工業が発展しつつあった北部の工場経営者にとって、ライバルはイギリスの製品であった。
安くて質の良い綿織物などの工業製品が、イギリスからどんどん輸入されては自分たちの製品が売れない。そこで、イギリスからの輸入品に高い関税をかけて、北部の工業を保護するよう政府に求めた。(アメリカが関税を引き上げれば、イギリスも対抗して引き上げることが予想された) いわゆる、保護貿易。
そんなことになると困るのが南部。南部では、綿花などの農産物をイギリスに輸出していた。イギリスが高い関税を掛けると困るのである。南部は、保護貿易に反対し、自由貿易を主張した。
この貿易をめぐる南北の対立をさらに激しくしたのが西部開拓であった。
フランスやスペインから獲得した新領土は、特定の地域が、人口が増加し一定の条件を満たすと、新たな州に昇格することになっていた。この時に、その新しい州に奴隷制度を認めるかどうかが大きな問題になったのである。
こういった問題については、南北間で妥協するというやり方で収拾してきたがそれも限界になっていく。
 対立は、経済的な理由だけではなかった。
南部での奴隷制度も対立の大きな要因であった。
「独立宣言」の「すべての人は平等につくられ・・・」という言葉とは相容れないのである。
1860年の大統領選挙で、奴隷制度の拡大に反対する共和党のリンカンが当選し、ついに内戦に突入するのである。

◇ 南北戦争(アメリカでは”内戦”というが)
 リンカンが当選すると、奴隷州の南部11州は「アメリカ連合国」を結成し、合衆国からの分離を画策する。
しかし、リンカンは大統領に就任すると南部諸州の離脱を認めず、1861年南北戦争が勃発する。この時点での戦争の目的は、南部の分離独立の阻止だった。
f0020352_18191856.jpgこの時、北部の人口2200万人、南部は950万人(うち350万人は黒人奴隷)。工業の力がある北部が優位のはずが、南部の粘りで苦戦。1862年、初めて黒人兵18万人を採用し、1863年に「奴隷解放宣言」を行った。南北戦争の勝敗を決定付けたのが、1863年の「ゲティスバーグの戦い」。
4万5千人が戦死したといわれる。
1865年、南軍が降伏。両軍死者61万8千人。(参考までに、第二次大戦における合衆国の戦死者は31万8千人といわれる)南北戦争が合衆国にとっていかに大きな事件だったか・・。
以後、合衆国は北部の商工業を基礎に発展していく。

日本とのかかわりを・・・少しだけ
1853年、合衆国海軍ペリー提督が浦賀に現れる
1854年、日米和親条約
1858年、日米修好条約・・・日本の「鎖国」が終わる。
武力を背景に無理やり鎖国から開国させた合衆国も、以後幕末には日本に登場しなくなる。
南北戦争で、それどころでなかったいうことであろう。
それにしても、明治維新の直前まで合衆国では「奴隷制度」があったということは驚きである。
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by m-morio | 2009-06-17 18:21 | 市民カレッジ | Comments(0)