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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 : アメリカ Part6

冷戦が始まった
 第二次世界大戦中の1945年2月、ソ連の黒海沿いの保養地ヤルタにルーズベルト大統領(アメリカ)、チャーチル首相(イギリス)、スターリン首相(ソ連)の三人が集まった。
いわゆる「ヤルタ会談」である。
この時点で、ドイツの敗北がほぼ決定的となったため、戦後のヨーロッパのあり方について意見を交わした。
ドイツの占領から解放されたヨーロッパ諸国で、暫定政権を作り、自由選挙を行い、国民を代表する政府を作るため三国が協力することを決めた。

ところが、スターリンは、戦後、この約束を無視した。
ソ連が占領したのは、ポーランド・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・チェコスロバキアであった。
スターリンは、ソ連占領下の国々を、ソ連の衛星国にし、これらの国々は、西側諸国との交流を絶ち、出入国も自由にできなくなった。言論の自由も認められなかったので、国内の様子が西側からはまったく分からなくなったのである。
これが、チャーチルが言う「鉄のカーテン」だった。受け売り 現代史 : アメリカ Part6_f0020352_9124085.jpg・・地図上のチォコスロバキアは、1993年に「チェコ」と「スロバキア」に分離、独立している。
 これに対してアメリカは、「ソ連に対して協調路線を求めるよりも、長期間忍耐強くソ連を封じ込めることで、ソ連体制が内部崩壊するのを待つ」という対応をとった。これが、アメリカによる「封じ込め政策」である。(1947年)
これ以来、アメリカは世界のあらゆる場所で、ソ連に代表される共産主義運動と対決する姿勢をとる。
まさに「冷戦」の始まりであった。
西ヨーロッパがアメリカグループ=資本主義国、東ヨーロッパがソ連圏=社会主義国になった。こうしたことから冷戦を「東西冷戦」と呼ぶようになった。





ドイツの分割 
ここで敗戦国ドイツの様子を見ながら東西の対立を整理してみる。
第二次世界大戦でヨーロッパ大陸の広大な領土を侵略・征服したドイツは、結局、東からソ連、西からアメリカ・イギリス・フランスに攻められた。ドイツは、西部戦線(アメリカ・イギリス、フランスとの戦場)と東部戦線(ソ連との戦場)で無条件降伏した。(ヒットラーはソ連に包囲されたベルリンで1945年4月自ら命を絶った。)

この結果、ドイツ東部はソ連に、西部はアメリカ、イギリス、フランスによって占領された。
占領地域では、それぞれの占領軍が、独自の占領方針を進める。
どこの国に占領されたかによって、その地域の運命が大きく変わったのである。
注)この点、同じ敗戦国である日本が、ほぼアメリカの単独占領に近かったのとは大きく異なる。

 ドイツが四カ国によって分割占領されたが、「ベルリン」は、地理的にはソ連占領地域に入っていたが、“首都”であったことを理由に、四カ国による共同管理となった。
受け売り 現代史 : アメリカ Part6_f0020352_9142690.jpg

すなわち、ベルリンの内部も、東側はソ連、西側はアメリカ、イギリス、フランスに分割占領されたのである。
分割占領された“首都“全体をどこが支配するか。アメリカなど三カ国とソ連はことごとく対立した。
ベルリン市民による選挙で選ばれた市長は西側だけの市長となった。ソ連が認めなかったためである。
 ベルリンばかりでなく、戦後のドイツをどうするかを巡ってもソ連と西側諸国とは対立した。戦争で混乱したドイツ経済をどう立て直すかを考えていた西側諸国に対し、ソ連は(スターリンは)戦争で多大な出費を余儀なくされたのだから、ドイツからは取れるものは何でもとるという方針だった。現に、ドイツ占領地域にあったドイツの工場から、大量の機械設備がソ連に運び込まれたのである。

ベルリンを巡っての東西の対立は一向に収まらず、ついには、ソ連は“西側ベルリンを封鎖する”という暴挙に出た。
前述のように、ベルリンはソ連占領地区にある。さらに東ベルリンもソ連占領地区だから、西ベルリンだけが、ソ連占領地区の中にぽっかりと浮かぶ“陸の孤島”になった。(1948年)
ソ連占領地区にあったとはいえ、西ベルリンには西ドイツ地区から鉄道が通っていたし、高速道路アウトバーンも使うことができたが、ソ連は、これらをすべて通行止めにした。
さらには、ソ連占領地区からの電力、石炭、食糧などの供給も停止するという“兵糧攻め”が始まった。

これに対して西側は猛烈に反発した。その後11ヶ月にわたって、アメリカ空軍による物資の大空輸作戦が展開された。ピーク時には輸送機を1分おきに飛ばしたとも言われている。
ソ連の目論見は失敗し、1949年5月封鎖を解除した。
このベルリン封鎖によって西ベルリン市民、ドイツ西側占領地区の人々の反ソ連・反共産主義感情は決定的になった。

こうした経緯から、西側諸国は統一ドイツ建設をあきらめ、「西側」のドイツは「ドイツ連邦共和国」として独立。対抗して、「東側」は「ドイツ民主共和党」として独立した。
1949年9月、10月のことである。

ベルリンの壁建設 
1961年8月13日早朝、ベルリンを東西に隔てる「ベルリンの壁」が突如建設された。
“東側の人々が西側に逃げないようにする“ためだった。
東西に分断されたドイツのうち、西ドイツは、アメリカからの援助もあって、順調に発展し、言論の自由も保障された。
一方、東ドイツは、ソ連が戦後の賠償として工場の施設を根こそぎ持ち去ったこともあって再建は一からのスタートだった。言論の自由もなく暗く沈んだ雰囲気に包まれていた。
東西ドイツの国境には、鉄条網や地雷が設置され、東ドイツの人々が西側へ行くことは容易なことではなかった。しかし、東ドイツ国内にあるベルリンに入ることは簡単だったので、東ベルリンから西ベルリンへと人々が殺到することになった。
分断後、358万人もの人が東ドイツから西ドイツへと逃げ出したといわれる。(1961年)この中には、医師、科学者、技術者などの知識人が多く、いわゆる“頭脳流出“であった。これを阻止するための”壁“の建設であった。
この“壁”は、東西ドイツの国境に建設されたのではなく、東ドイツの中の“陸の孤島”といわれた「ベルリン」の中を東西に分断するものだった。
“冷戦”の象徴といわれるのがこの“ベルリンの壁”である。

ベルリンの壁崩壊
 1989年11月9日深夜、ドイツのベルリンの壁が崩壊した。
東ドイツの大勢の若者が「壁」によじ登り歓喜の声を上げた。長く続いた冷戦の象徴が崩壊したのである。
注)勿論、物理的に壁が一瞬にして消滅しまったという意味合いではない。観念的な表現であることをお断りしておく。
 同年12月3日、マルタ島での米ソ首脳(ブッシュ・・父・・とゴルバチョフ)会談で、東西冷戦の終結を宣言し、その結果、1990年10月には東ドイツが消滅する形で東西ドイツの統一が実現した。

第二次世界大戦後の「冷戦」は、東西ドイツの分割のみならず、中国と台湾の対立、朝鮮戦争、ベトナム戦争という悲劇を生んだ。
「冷戦」というのは、軍力の衝突が「熱い戦争」であるのに対して、軍力が直接ぶつかる戦争でないのが「冷たい戦争」という意味だった。
しかし、実際には米ソの直接対決が無かっただけであって、アジア各地ではその代理戦争が繰り広げられていたのである。
注)朝鮮戦争に関しては「北朝鮮」、ベトナム戦争は「ベトナム」 「ベトナム2」 を参考にしていただきたい。

 講座の最終回に、講師が一冊の雑誌を持参された。
TIME というアメリカの雑誌の最近号である。その表紙に 「20Years ago、The World Changed」とあった。
「20年前、世界は変わった」とでも訳すのであろうか。
20年前=1989年、まさに“ベルリンの壁の崩壊”を指しているのだが、そればかりではない。
その年、中国では、あの天安門事件が起こった。
1989年6月4日、民主化を求める学生や市民を軍が武力で鎮圧した事件で、世界に大きな衝撃を与えた。
日本では、1989年1月7日昭和天皇崩御。年号は「平成」に改まった。同年12月29日には日経平均株価が38、915円まで上がりバブルの絶頂期であった。しかし、Changeした。バブルは崩壊し長期間にわたる不景気の始まりでもあった。

・・・・などを想起させる。

さてさて・・・北米大陸への移民からベルリンの壁崩壊=冷戦の終結まで長々と辿ってきた。
そろそろまとめに入らなければとは思うのだが、その後の20年間もアメリカの“戦い”は続く。
個別の戦争の経緯などはこの紙面では省略し、これまでの主だった戦争を年表式に羅列してみる。
1775年~ 独立戦争    ‘83年終結
(1776年独立宣言)
1861年~ 南北戦争    ‘65年終結
1914年~ 第一次世界大戦  ‘18年ドイツ、連合軍と休戦協定
1939年~ 第二次世界大戦  ‘45年ドイツ、連合軍に無条件降伏
1950年~ 朝鮮戦争    ‘53年板門店で休戦協定
1965年~ ベトナム戦争(アメリカが参戦。北爆開始)‘75年サイゴン陥落。
1991年~ 湾岸戦争     アメリカを中心とする連合軍の攻撃でイラク敗北。
2001年~ アフガン戦争   アメリカ同時多発テロが契機。オサマ・ビンラディンの身柄引渡しを拒否したアフガニスタンに対 し、アメリカが攻撃を開始。タリバン政権が崩壊。
2003年~ イラク戦争    米英軍の攻撃によりフセイン政権崩壊

 アメリカの数々の戦争の歴史の中で、朝鮮戦争の結末は勝利と呼ぶにはほど遠かったし、ベトナム戦争は建国以来、初めての敗戦を、しかも東南アジアの小国を相手に喫した。
アメリカの戦争の大儀として、常に「自由と民主主義」を唱えた。
それぞれの戦争に「大儀」があった。独立のため、奴隷制度廃止、民主主義の維持などなどであった。
しかし、その「大儀」もアフガン戦争やイラク戦争では大きくぶれている。

 一方、独立戦争と南北戦争を除くと殆どの戦争がアメリカ国外が戦場となっている。荒廃し、難民が作り出されるのは戦場となった国々である。傷つくのは、いつも当該国の国民と言えるのかもしれない。
今、イラクは復興に向けていろいろな面での立て直しが進んでいる。
こんな ”クラッシュ” アンド ”ビルト” の繰り返しはいつまで続くのであろうか。
アメリカのことばかりではないのだが。。。

今も、イラン、北朝鮮、アフガニスタン、パキスタンなどにおけるテロ活動や核兵器がからんだ諸問題が揚げられる。 

”世界平和”という言葉がむなしく響いて聞こえるのは私だけなのだろうか。
by m-morio | 2009-07-02 09:32 | 市民カレッジ

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