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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

井蛙のつぶやき・・2冊の本

「日本の近現代史」を学ぶのに先立って、まず「小説」から・・・
と・・・・・
2冊の本に目を通しました。

1冊は
「落日の宴」~勘定奉行 川路聖謨(かわじ としあきら)~ 吉村 昭 著f0020352_13371153.jpg
本書は書店の店頭には見当たりません。
聞いてみると「絶版」とのことで取り寄せ不可能。
近所の古書店にもない。
図書館にはあるのだが・・・・・
インターネットで探したところやっと入手できました。
1999年に文庫化したもので、相当に日焼けしているとのことを承知で購入。
届いた現物は、なるほど”日焼け”していました。
でも、店晒しが長かっただけのことらしく、痛んでいません。
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幕末、開国を迫るロシア使節プチャーチンやアメリカ使節ハリスなどとの交渉において、一歩も引かず、確固たる信念で対処し、自説を閣僚に進言する。

艦隊を背に威圧してくる使節ら と 鎖国は国法によって決まっていることと頑なに拒否する幕府との間に立っての苦労が面々と描かれている。

軽輩の身から、栄進につぐ栄進で、終には勘定奉行筆頭まで登りつめた川路聖謨の半生である。

欧米の強国に比べ、防衛力がないに等しい日本が、鎖国政策を楯に諸外国の求める開港の要求を拒み続ければ、それらの国々が軍事行動に出て日本は侵略され植民地化することを大いに懸念した。

その川路も、安政5年大老の着いた井伊直弼によって閑職に左遷される。
・・・・・井伊は、川路の機に応じて的確な処理をする才能を、むしろ類まれな”処世術”によるものと考え、忌まわしい人物と思うようになったようである。

直後に、アメリカの使節ハリスによってもたらされた情報
・・・・・イギリス軍が清国を制圧し、大軍をもって日本に押し寄せるという
によって、井伊大老は”勅許”を得ないまま「日米修好条約」を締結することになった。川路は呆然とした。

終始条約に反対した徳川斉昭らは激怒し、斉昭は井伊直弼に直談判するも、逆に隠居を命じられ江戸城内は大揺れに揺れた。
その後、井伊は尊皇攘夷派を弾圧し(安政の大獄)、余波は川路にもおよび、とうとう蟄居を命じられる。
尊皇攘夷派への弾圧はさらに続き、井伊は、桜田門外で水戸藩士に暗殺されるのである。

川路は、井伊について
「安政の大獄という大鉈をふるったことも、開国という大事業を達成するためのものであり、その根底には国を愛する情があったことは疑いの余地がない」
と述べている。

「生麦事件」(薩摩藩島津久光一行が、江戸から薩摩への帰途生麦村で、イギリス人を殺傷した事件)を機に、
(幕府での外交折衝経験豊かな)川路は再び外国奉行に任命され、最後の奉公と意思を固くする。61歳であった。
幕府をめぐる内外の情勢は難問題がかさなり、閣老の意見はみだれにみだれる。

川路は、年齢や体調を理由に「御役御免」を申し出る。

四国(英・仏・米・蘭)連合艦隊下関砲撃事件、長州征伐など内部紛争も絶えないなか、川路は病に倒れ、半身不随の状態となる。

目まぐるしい変化の中、日本の行く末、親族の身の振り方など心労は重なる一方であった。
そして、ついには江戸城が討幕軍の手に落ちるのを悲しみ、半身不随の身を横たえた寝床において、拳銃自殺を遂げこの世を去っている。

聡明さと誠実さで激動の時代を生き抜いた誇り高い幕吏の豊かな人間性を描いた歴史小説。

軽輩の身から開国によって、日本が諸外国の植民地になりかねない激動の時期に、人材登用を第一に、家柄、序列を無視した登用で、開国以後の欧米列国との至難な外交交渉、国内のめまぐるしい混乱を経て、明治維新に滑り込ませることができたのは、これらの優れた幕吏の尽力に負うところが多い。
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とにかくこの著者のこの種の小説はまことに細やかに書かれている。
江戸から下田などへの旅で、駕籠に乗った、降りて健脚にものをいわせて10余里を歩いた・・・など細部まで描写している。
だから、この書物は厚い。文庫で500pageを超えている。


「くろふね」佐々木譲著 本書も文庫でほぼ500page
ペリー率いる4隻の艦隊が浦賀に入港。幕府に開港を迫った。
尻込みする浦賀奉行の代役としてペリーと交渉に当たったのが、同奉行組与力中島三郎助。
日本人として初めて黒船に乗り込んだ三郎助は西洋の新しい技術に触れ、日本を外国に負けない近代国家に導こうとする
激動の幕末において、古い体制を打ち破るために闘った中島三郎助の生涯を描いた歴史小説。

2冊に目を通して何かが変わったわけではない。
眼から鱗が・・・ということでもない。

激動の幕末における、諸外国からの圧力、幕府の及び腰、開国派・攘夷派の抗争などを改めて思い起こすいい機会だった。

開国交渉における”言葉の壁”などは両著者ともあまり細かには触れていないが、川路や中島らの外国人との激論にはすさまじいものがある。
たとえば、川路とロシア・プチャーチンとの交渉には、通訳を介するが、この通訳がオランダ人となると、「日本語・オランダ語・ロシア語」での応酬になる。
双方の”意図が十分伝わっているのか”という疑心暗鬼もあったのではなかろうかと勝手に想像をたくましくした。

歴史は、ともすれば上位の者の意見が述べられ、それでことが決したかのような印象を与えることが多いが、
吉村 昭 は、「軽輩者が、歴史上、重要な役割をした」
と語っていることに注目したい。
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by m-morio | 2010-05-04 13:51 | 井蛙のつぶやき