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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

小説「勝海舟」

立志伝中の人物を題材にした「小説」は数多い。
その種の「小説」においては、ともすれば、主人公は美化して書かれている(ように思われる)。

小説「勝海舟」全6巻を読み終えた。f0020352_12505856.jpg
海舟は、若くして、武術に精をだし、蘭学を学び、日ごろは言いたい放題を口にし、ひんしゅくを買うことも多かった。
海軍論者で、国防は「海軍」が担うべき・・・というのが持論で、その論は将軍に直裁に発するほど。
この海軍奉行を務めた海舟が、めっぽう船に弱く、直ぐに船酔いしてしまうというから皮肉である。
そんな海舟の咸臨丸での渡米には、“船酔い”という苦労も一緒に背負って行った。

「略歴」
文政6年(1823年)、江戸の旗本の家に生まれる。
名は義邦、安芳。通称麟太郎。
蘭学を学び、ペリー来航時は幕府に海防意見書を提出。
海軍伝習のため長崎に派遣された後、遣米使節随行艦の咸臨丸を指揮して渡米。
帰国後、海軍訓練所を設立し、軍艦奉行並となる。
幕府側代表として江戸城明け渡しを実現。
このときの官軍側の交渉相手が西郷隆盛である。
江戸城引渡し後、前将軍慶喜を追って駿府へと移住する。
しかし、海舟の苦労はそれでは終わらない。





◇下級御家人から出世した海舟は“角”(かど)もあったが、人を分け隔てなくおおらかに接した人物であった。
海舟の魅力は、坂本龍馬をすぐに虜にしたという。
土佐藩を脱藩した坂本龍馬と海舟が最初に出会ったのは赤坂の元氷川の海舟の屋敷であった。このとき龍馬は剣術家と一緒に開国論者の海舟を斬るために訪れた。

しかし、海軍の必要性を国際情勢とともにじゅんじゅんと説く海舟に惚れ込み、その場で弟子入りを志願した。
(もっとも、龍馬が海舟を殺しに来たというのは、海舟自身がおおげさに広めた形跡もあるらしい。)
その後、海舟は(元土佐藩の)龍馬を(薩摩藩の)西郷隆盛に預け、時期をみて脱藩の罪を免罪してもらうことに尽力する。

◇小説は海舟に好意的に進むが・・・・・
著者が変わると彼も辛らつに扱われる。
例えば、「くろふね」(佐々木譲著)においては、彼が中島三郎助らとともに長崎海軍伝習所でオランダ人講師から蘭語はもちろん航海術、地理天文学、砲術などなど幾多の学問を学ぶが、海舟は二度、再履修を求められ三期の途中で帰府した落第生だったと”強く”表現する。

また、ある人は、海舟が酒を好まず、酔わずして人を冷評罵倒した陰性の性格であると辛口の評価をする。

対局の扱いは往々にしてある。
第8代将軍吉宗に登用された田沼意次は賄賂政治の最たるものとして悪政の代表のように取り扱われるが、
一方で、池波正太郎の「剣客商売」では、主人公秋山小兵衛・大治郎親子の庇護者として真の理解ある政治家として描かれている。

東京大学の山内昌之教授は
時代に名を遺した人は
「眺めるプリズムの角度が違えば幾重にも像が変容する」と指摘する。
教授は、この言葉に象徴される人物の一人に桜田門外の変の“井伊直弼”を挙げている。

◇海舟は、終生多くの人々の知古を得る。
榎本武揚、福沢諭吉、坂本龍馬、木戸孝允、西郷隆盛、清水次郎長などなどであるが、榎本武揚とは、長崎海軍伝習所で共に学んだ。
榎本武揚がオランダに留学して帰国した際、将軍慶喜への“献上品”として持参した「万国海律全書」(フランス人オルトラン著)を、人を介して献上前に極秘に海舟に一覧させたことがあった。
将軍に献上する品を事前に海舟に閲覧させるなど、通常であれば到底考えられないことだが・・・・・
このときの海舟の喜びようは尋常でなかったという。
海舟と榎本武揚の交友の一端をうかがわせるエピソードである。

後刻、海舟が、海軍奉行より「陸軍総裁」に就任したときに、海軍の副総裁に着任したのが榎本武揚であった。

しかし、江戸城明け渡し後、軍艦引渡しを拒む榎本武揚は旧海軍を率いて脱走する。
海舟は、これを一時は引き戻したが、再度の脱出で榎本武揚は蝦夷地を目指す。

一方、徹底抗戦を唱える旧幕臣たちは彰義隊を結成して上野寛永寺にたてこもり政府軍と対決、壊滅した。
海舟は、天皇の東下にあわせるかのように、わずか70万石となった徳川の藩地駿府(静岡市)へ下っていく。
反政府勢力の牙城会津も倒れ、榎本武揚は蝦夷へ・・・・・。
激動の時代は。。。。。。
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by m-morio | 2010-08-07 12:53 | 井蛙のつぶやき | Comments(0)