受け売り 現代史 トルコとアルメニアの国交樹立の行方~その1~
2010・秋の現代史講座は「トルコとその周辺」を統一テーマとして開講された。
その第3回で「トルコ人とアルメニア人」がテーマとなったのでトルコとアルメニアの関係を整理してみることにした。
▼第一次世界大戦中に起きた“虐殺”に関する歴史認識をめぐり、長い間対立を続け国交がなかったトルコとアルメニアが、09年10月10日両国外相が関係正常化の合意文書に署名した。
この式典には、アメリカ国務長官、ロシア外相、EU上級代表らも出席し、両国の調印を歓迎した。
▼13世紀末から20世紀前半まで続いたオスマン帝国は、最盛期には中央アジアから北アフリカまでその領土を広げた。
そのオスマン帝国が崩壊し、それを継承したトルコとアルメニアの対立は、1915年に遡り、アルメニア人は強制的に移住させられ、多くの住民が殺されたと言われている。
では、オスマン帝国を受け継いだトルコ と 旧ソ連崩壊後に独立したアルメニアは、なぜ、100年近く経ったいま、歴史的調印に至ったのだろうか。
その背景と今後の両国関係の行方を整理する。
▼アルメニア(共和国)の概要
日本には馴染みの薄い国。 地図を参照
・1936年・・アルメニア・ソビエト社会主義共和国成立
・1991年・・共和国独立宣言
・面 積・・・日本の1/13 旧ソ連邦の中で最小。
・人 口・・・310万人(2009年)
・首 都・・・エレバン
・民 族・・・アルメニア人が98% (他にクルド人)
流浪の民としても知られ、その点ではユダヤ人に似る。
ユダヤ人が「都会」を目指したのに対し、小さな国土と山がちな地形のために、
遊牧民として国外に活路を求めた。
このため、周辺諸国からは“カフカスのユダヤ”と呼ばれ、憎悪の対象とされた。
なかでもトルコ領内での虐殺が有名で、
多くのアルメニア人が国外に逃亡し離散し、
その数は国内に住むアルメニア人の2~4倍に達したともいわれる。
・宗 教・・・主にキリスト教
この国は、国家としてまた民族としても、世界で最初に公式にキリスト教を
受容した国といわれる。(301年)
▼トルコ対アルメニアの対立の構図
多数のアルメニア人が殺害されたことについて、(1915年~18年、トルコでアルメニア追放運動)
アルメニア側は
「組織的な虐殺」であり、150万人が犠牲になったとしてトルコ側を非難し、謝罪を求めている。
一方、トルコ側は、
反乱を鎮めた際に戦闘によってトルコ人も含めて双方であわせて30万人から50万人が犠牲になったもので、虐殺でなく「戦乱の中で起きた不幸な事件」
と反論し、歴史認識の違いから対立が続いてきた。
トルコにとっては、「触られたくない過去の傷」であり、
アルメニアにとっては、「大国に翻弄されてきた不幸な歴史の象徴」として語り継がれてきた。
それだけに、09年の合意に対するそれぞれの国民の受け止め方も複雑である。
注)この“虐殺”に関しては、 藤野幸雄「悲劇のアルメニア」新潮選書 1991年 をご参照
ここにその一部を転載する。
アルメニア人の追放と虐殺は、どこでも同じ方法で行われた。まず、町か村の男たちは、辻に張り出された広報、または口頭で出頭を命じられる。政府は、情け深いことに、アルメニア人の生命を気づかって、アルメニア人の集合を命ずるのだ、と説明されていた。民衆が集まると、そのまま監獄に放り込むか、あるいは町から連れ出される。町を出てから、人気のないところまで来ると、そこが大量処刑の場になる。銃殺するか、銃剣で突き殺す場合が多い。数日の後、年寄り、女、子供が同じように呼び出され、町から連れ出される。彼らの場合、貴重な弾丸が使われることはすくない。列をなして、あらかじめ決められたルートを、どこまでも歩かされる。ついには、飢え、渇き、炎暑、体力の消耗により死にいたるまで歩かされる。ルートの多くは、焼け付くようなシリアの砂漠に通じていた。「護衛」のトルコ兵にしても、途中で待ち受ける村人、遊牧民にしても、体力の衰えたこの集団から奪えるもの、金と女、を見逃すことはなかった。ついてこられない者は、道端に捨てられた。海に近い町では、労働の現場に行くと称して、男どもを船にのせ、黒海に乗り出し、かなり沖に出たところで、海に投げ捨てた。いずれにせよ、多くの場合、弾丸も、刀剣すら使わずに大量の惨殺を実行したのである。アルメニア人が捨てて出た家は、トラキアから追われて、国内に流れ込んできたトルコ人が住みついたのだといわれている。
その第3回で「トルコ人とアルメニア人」がテーマとなったのでトルコとアルメニアの関係を整理してみることにした。
▼第一次世界大戦中に起きた“虐殺”に関する歴史認識をめぐり、長い間対立を続け国交がなかったトルコとアルメニアが、09年10月10日両国外相が関係正常化の合意文書に署名した。
この式典には、アメリカ国務長官、ロシア外相、EU上級代表らも出席し、両国の調印を歓迎した。
▼13世紀末から20世紀前半まで続いたオスマン帝国は、最盛期には中央アジアから北アフリカまでその領土を広げた。
そのオスマン帝国が崩壊し、それを継承したトルコとアルメニアの対立は、1915年に遡り、アルメニア人は強制的に移住させられ、多くの住民が殺されたと言われている。
では、オスマン帝国を受け継いだトルコ と 旧ソ連崩壊後に独立したアルメニアは、なぜ、100年近く経ったいま、歴史的調印に至ったのだろうか。
その背景と今後の両国関係の行方を整理する。
▼アルメニア(共和国)の概要
日本には馴染みの薄い国。 地図を参照
・1936年・・アルメニア・ソビエト社会主義共和国成立
・1991年・・共和国独立宣言
・面 積・・・日本の1/13 旧ソ連邦の中で最小。
・人 口・・・310万人(2009年)
・首 都・・・エレバン
・民 族・・・アルメニア人が98% (他にクルド人)
流浪の民としても知られ、その点ではユダヤ人に似る。
ユダヤ人が「都会」を目指したのに対し、小さな国土と山がちな地形のために、
遊牧民として国外に活路を求めた。
このため、周辺諸国からは“カフカスのユダヤ”と呼ばれ、憎悪の対象とされた。
なかでもトルコ領内での虐殺が有名で、
多くのアルメニア人が国外に逃亡し離散し、
その数は国内に住むアルメニア人の2~4倍に達したともいわれる。
・宗 教・・・主にキリスト教
この国は、国家としてまた民族としても、世界で最初に公式にキリスト教を
受容した国といわれる。(301年)
▼トルコ対アルメニアの対立の構図
多数のアルメニア人が殺害されたことについて、(1915年~18年、トルコでアルメニア追放運動)
アルメニア側は
「組織的な虐殺」であり、150万人が犠牲になったとしてトルコ側を非難し、謝罪を求めている。
一方、トルコ側は、
反乱を鎮めた際に戦闘によってトルコ人も含めて双方であわせて30万人から50万人が犠牲になったもので、虐殺でなく「戦乱の中で起きた不幸な事件」
と反論し、歴史認識の違いから対立が続いてきた。
トルコにとっては、「触られたくない過去の傷」であり、
アルメニアにとっては、「大国に翻弄されてきた不幸な歴史の象徴」として語り継がれてきた。
それだけに、09年の合意に対するそれぞれの国民の受け止め方も複雑である。
注)この“虐殺”に関しては、 藤野幸雄「悲劇のアルメニア」新潮選書 1991年 をご参照
ここにその一部を転載する。
アルメニア人の追放と虐殺は、どこでも同じ方法で行われた。まず、町か村の男たちは、辻に張り出された広報、または口頭で出頭を命じられる。政府は、情け深いことに、アルメニア人の生命を気づかって、アルメニア人の集合を命ずるのだ、と説明されていた。民衆が集まると、そのまま監獄に放り込むか、あるいは町から連れ出される。町を出てから、人気のないところまで来ると、そこが大量処刑の場になる。銃殺するか、銃剣で突き殺す場合が多い。数日の後、年寄り、女、子供が同じように呼び出され、町から連れ出される。彼らの場合、貴重な弾丸が使われることはすくない。列をなして、あらかじめ決められたルートを、どこまでも歩かされる。ついには、飢え、渇き、炎暑、体力の消耗により死にいたるまで歩かされる。ルートの多くは、焼け付くようなシリアの砂漠に通じていた。「護衛」のトルコ兵にしても、途中で待ち受ける村人、遊牧民にしても、体力の衰えたこの集団から奪えるもの、金と女、を見逃すことはなかった。ついてこられない者は、道端に捨てられた。海に近い町では、労働の現場に行くと称して、男どもを船にのせ、黒海に乗り出し、かなり沖に出たところで、海に投げ捨てた。いずれにせよ、多くの場合、弾丸も、刀剣すら使わずに大量の惨殺を実行したのである。アルメニア人が捨てて出た家は、トラキアから追われて、国内に流れ込んできたトルコ人が住みついたのだといわれている。
by m-morio
| 2010-11-15 13:53
| 市民カレッジ