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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 ラテンアメリカ 1

’11.03.11発生したマクニチュード9.0という未曾有の大地震は、津波を引き起こし、更には原発事故まで置き土産にした。
死者・行方不明者の数は2万人を超えるといい、あまりにも甚大な被害に言葉を失った。
被災された方々は途方にくれている。
不便な避難所生活を強いられ、物資もなかなか行き渡らない、
医療体制も十分とはいえない。
そんな中でも、被災した子ども達が後片付けの力仕事に協力している様を見るにつけ一日も早い復興を願わずにはいられないが、復興に向かって進もうとするも原発が邪魔をする。
目に見えない強力な放射能を発している現状は世界的な協力体制が待たれる。

そんな状況の中、2011年春の「現代史」の講座は、大地震発生の前日にスタートした。
テーマは「ラテンアメリカ」である。
『「南」である「南アメリカ」』 を統一テーマとして、南アメリカを中心の講座だった。

 北米(いわゆる、アメリカ合衆国)との違いなどについては、それぞれの項目で随時触れることにするが、1492年のコロンブスによるカリブ海域到達から始まったヨーロッパ人による西半球の植民地化は、まずスペインやポルトガルによってラテンアメリカから始まった。

この流れが北米に及ぶのは17世紀に入ってからで、主としてイギリスとフランスがスペインなどに対抗する形で進められていく。

本稿を整理するにあたり、特に南アメリカに限定せず、「ラテンアメリカ」として取り上げていくことにする。

 少し前置きを・・・・・

▽「ラテンアメリカ」「南米」と聞くと何を思い浮かべるであろうか。
 おりしも、ブラジルではカーニバルの真最中であったが、こんな時期でもあり報道で取り上げられたのは少なかった。
ブラジルは、BRICsと言われてロシア・インド・中国とともに経済成長著しい。その原動力の裏側にあるものは何んだろうか。
一方、アルゼンチンは勢いがない。
アルゼンチンといえばタンゴ。そしてご存知の方も多いだろう、ミュージカル映画「エビータ」は、33歳という若さで、白血病で亡くなったペロン大統領夫人を題材にしていて興味深い。
ペルーの大統領選挙はわが国の統一選挙と同日に行われる。

・・・・と列挙すると「ラテンアメリカ」もなかなか興味深い。

▽では、「ラテンアメリカ」と呼ばれる地域は、何処のことをいうのだろうか。
「ラテン系民族の国家であるスペインとポルトガルの植民地になったアメリカ大陸の地域」
もっと具体的には
「中南米とカリブ海地域」
更に
「現在のアメリカ合衆国とカナダ以外の地域」

・・・・・と、その表現は様々である。

いずれにしても、今回は、「アメリカ大陸からカナダとアメリカ合衆国を除いた地域」を対象とする。

▽地図をみてみよう。
今回は、日本を中央に置いた地図は参考にしないほうがいい。
いわゆる“欧州を中心とした地図”をみると、ラテンアメリカとヨーロッパ諸国との位置関係を理解しやすい。
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我々が見慣れている(日本で作っている)地図の場合、右側(東側)にアメリカ大陸、左側(西側)に欧州やアフリカ大陸が位置していて、両大陸は極端に離れた位置関係にあるように錯覚する。
「アメリカ大陸」と「アフリカ大陸」は近い。
今後の話を進めるうえで、このことを念頭に置いておくことが肝心。
注)赤線・・・・・コロンブスの航路
  青線・・・・・イギリスからの移民航路





1 大航海時代
 コロンブスは、東方見聞録などの書物から学んで、アジア大陸の東部にあるとされる未知の土地「インディアス」をめざす航海を計画した。
1492年8月3日、スペイン王室の援助を受けたコロンブスは3隻の帆船で、新たな“富”を目指して西回り航海へと出航した。
コロンブスは、「地球は丸い」とする学説に基づき、大西洋を西に進めばアジアに到達できると考えていた。
行けども、行けども島影が見えず、半ば諦めかけた10月2日、現在のカリブ海近辺に到達し、未知の島に上陸した。これが現在のサン・サルバドルなどとされている。

その後コロンブスは、キューバ島からイスパニョーラ島に渡る。現在、ハイチとドミニカ共和国がある島である。
コロンブスの航海によってヨーロッパ人の世界観は大きく変わり、1498年5月に、ポルトガルのパスコ・ダ・ガマは、インドのカリカッタに到達したことと相まって、ここに、スペイン・ポルトガルの植民地獲得の争いが始まったといえる。
 なお、この15世紀から16世紀の日本は、
室町時代から安土桃山時代のころで、1543年 ポルトガル人が種子島に来島し(鉄砲の伝来)、1549年 ザビエルが来日し、キリスト教を伝えている。

2 世界を二分したスペインとポルトガル
15世紀末から16世紀末にかけてスペインとポルトガルが未知の太洋に乗り出していった。
コロンブスの新大陸到達を機に。
しかし、最初に本格的に大西洋に挑戦したのはポルトガルであった。
これに対してスペインの海外進展は著しく遅れた。(国内が騒がしく落ち着かなかった)
以後、スペインとポルトガルは競って新大陸進出に野心を燃やし、発見した陸地の帰属をめぐって争いを繰り返した。
そこで1494年、両国は「トルデシリャス条約」を結び、現在の西経45度付近を境に、西をスペインの進出範囲、東をポルトガルとした。
この条約は1506年、ローマ教皇に承認された。
つまり、世界をスペインとポルトガルで分割することをローマ教皇が認めたのである。当時、いかに両国が力を持っていたかがうかがえる。
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注)ブラジルがポルトガルの領域になっていることに注目。
ブラジルはポルトガル語。その他の南米の大半がスペイン語。

3 先住民文化の滅亡
 黄金と富を求めて新大陸にやってきたヨーロッパ人たちは、驚くほどの早さでアメリカ大陸に拡散し、征服していった。
 コロンブスが出会ったアメリカ大陸の先住民は、“モンゴロイド”と呼ばれる人々であった。
シベリアとアラスカを隔てていたベーリング海峡が陸続きだった時代があった。  
モンゴロイドは、今から1万7000年から1万3000年ほど前の氷河期に、マンモスを追ってシベリアからアラスカへ歩いて渡ってきた。そして、氷河期が終わるとさらに南下し、約9000年かけて南米大陸の最南端まで広がっていった。                       
その子孫がそれぞれの場所で狩猟採集文化や農耕文化を築いた。
ヨーロッパ人がアメリカにやって来た15世紀ごろ、既に彼らは「アステカ」「インカ」といった独自の文明を築いていた。
しかし、新大陸へのヨーロッパ人の到来は、先住民にとっては文明の破壊を意味した。
1521年、スペイン艦隊の指揮官コルテスがアステカ王国を征服し、1533年には、同じくスペインのピサロがインカ帝国を征服した。
注)マヤ・インカ・アステカ文明については、2007年に放送された NHKスペシャル: 「失われた文明」 (インカ、マヤ、アステカ)に詳しい。
ヨーロッパ人は、狩猟採集で生活する民族はもちろんのこと、既存の帝国をも圧倒的に優位な武力によって征服(小銃や大砲と、こん棒や石槍との戦いであった)し、住民を奴隷として酷使し、あわせてヨーロッパ人が持ち込んだ疫病(天然痘、はしか、百日咳など)は猛烈な勢いで先住民の命を奪っていった。
先住民の人口は激減していくのである。
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 このように先住民の人口が減少したことによって、新たな環境が出現した。
16世紀後半から17世紀に発達するブラジルやカリブ海域の砂糖生産地帯(砂糖プランテーション)では、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が人口の大多数を占めるようになり、人口構成に劇的な変化をもたらした。
先住民が姿を消した広大な地域に、新しい世界が形成され、ヨーロッパ(スペインやポルトガル中心の)世界とアフリカ大陸から連れてこられた黒人奴隷がもたらしたアフリカ世界とが新大陸の土壌の上で成育した。
今日のラテンアメリカと呼ばれる世界である。
(続く)
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by m-morio | 2011-04-04 18:56 | 市民カレッジ | Comments(0)