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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 東ヨーロッパ ③

初回に、東ヨーロッパの国々に関するスクラップがほとんどない・・・と書いた。
これ、間違いだった。
講義のレジメを見て、そうだ・・・そんなことがあった。
あの事故は記憶に新しいからどこかにあるはず・・・・・
私のスクラップは、その殆どがPCに入っている。
世界の動きに関するものは国別に仕分けしていることが多い。
以下に触れる「ポーランド政府専用機墜落事故」に関しては、その墜落場所がロシアだったこともあって「ロシア」に紛れこんでいた。(ポーランドという分類を設けていなかったことも要因)
そんなことで、ポーランドについて、これらの報道スクラップや講義のレジメなどを基にして少し整理してみることにする。

▼ポーランド

まず略史を・・・
・966年・・ピアスト王朝成立(建国)  
・1386年・・リトアニア・ポーランド王国 建国
(リトアニア公とポーランド女王の結婚で成立。ドイツ騎士団領(=バルト海岸に成立)に対抗することを目的に建国)
・1410年・・タンネンベルクの戦いで、ドイツ騎士団を破り、バルト海・黒海にまたがる大国家となる
・17世紀・・ウクライナ地方をロシアに、北部をスウェーデンに奪われる
・1733~35年・・ポーランド継承戦争が起こり、仏・露・墺(オーストリア)が介入して国力疲弊
・1772年・・第1回ポーランド分割
・1793年・・第2回ポーランド分割
・1795年・・第3回ポーランド分割により国家消滅
(1914年、第一次世界大戦始まる)
・1918年・・独立回復
(1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立)
・1939年・・ナチス・ドイツによるポーランド侵攻
        ソ連軍によるポーランド侵攻
(第二次世界大戦始まる)
・1947年・・第二次大戦終了後、社会主義政権誕生
・1980年・・独立自主管理労組「連帯」結成・・共産党からの独立
・1981年・・戒厳令
・1989年・・体制転換・・非社会主義政権の成立
・1999年・・北大西洋条約機構(NATO)加盟
・2004年・・欧州連合(EU)加盟
        経済的には、EU内での最貧国





▼カティンの森事件(1940年)受け売り 現代史 東ヨーロッパ ③_f0020352_12545684.jpg
(カティンは、ロシアの西部のスモレンスク近郊のドニエブル河畔にある森。「カチン」とも表記される。)

 2010年のポーランド政府専用機墜落事故の裏側を理解するには、まず、この事件を承知しておかなければならない。
第二次世界大戦初期にソ連軍の捕虜となったボーランド人将校が大量に虐殺された事件。
ソ連が捕虜にしたポーランド人将校は約1万5000人、その大部分がドイツの対ソ攻撃以前の1940年3月に行方不明となった。
ソ連西部地区を占領したドイツ軍は43年4月、カティンの森で4000名以上のポーランド人将校の遺体を発見したと発表、領土問題をめぐって緊張の度を高めていたソ連とポーランド亡命政府の関係を決裂に導いた。
ソ連は一切のかかわりを否定し、現場を再占領したのち独自の調査を行なって、ナチス・ドイツの仕業と断定した。
以後、ソ連とポーランドの共産党政権は一貫してこの立場を堅持したが、当時からソ連側の犯行であることを示す証拠は多かった。

犠牲者の45%が職業軍人、他の多くは予備役で召集された弁護士、医師、大学教授など当時のポーランド社会の中心的人々であったため、事件はポーランド人の対ソ感情を著しく悪化させた。
ペレストロイカの進展とともにソ連でも歴史の見直しを求める声が高まり、90年4月、当時のゴルバチョフ大統領は、事件にソ連の秘密警察が関わっていたことを認め、ポーランド側に謝罪した。
ソ連邦解体後の92年10月、エリツィンロシア大統領は、ポーランド人将校虐殺を命じた1940年5月の共産党政治局の決定とスターリンの署名を公表した。

だか、ソ連邦崩壊後、ロシアでは、ポーランドが虐殺を政治的に利用しているとの不信感を抱き、一部メディアがナチス犯行説を紹介するなど、ポーランドとの間でわだかまりが残っていた。

▼ポーランド政府専用機墜落事故(2010年)
 2010年4月10日ポーランドのカチンスキ大統領夫妻と同国要人らロシアへの公式訪問団が乗ったワルシャワ発政府専用機が、ロシア西部スモレンスク空港への着陸に失敗、墜落。
乗客乗員96人全員が死亡。
事故は、ポーランド政治に深刻な影響を及ぼした。
大統領は、第二次世界大戦中に旧ソ連がポーランド軍将校ら捕虜をスモレンスク郊外で虐殺した「カティンの森」事件70年を記念し、ポーランド側が主催する追悼式に出席する予定だった。

実は、この事故の3日前、ポーランドのトゥスク首相とロシアのプーチン首相が両国合同の記念式典を開催していたが、一貫してロシアとは敵対姿勢をとってきたカチンスキ大統領はそれに招かれなかったため、独自の式典を開催しようとしたのであった。

▼変動する国境線
①ポーランド分割(1772年~1795年)
 14世紀末のポーランドは、隣国のリトアニアと連合を形成し、その後ハンガリーをも支配した。
リトアニアは現在バルト三国の一つとしての小国であるが、当時のリトアニアは、大国としてソ連やウクライナを支配していた時代もある。
16世紀後半には、ポーランドは、このリトアニアを吸収し、その勢力を増していった。当時のポーランドは、ロシアを脅かすほどの大国だったのである。
しかし、この時代以降17世紀半ばからは、国運が傾き、相次ぎ外敵の侵略にあうことになる。         
その一例が、ポーランド分割である。
ロシアは、プロイセン(ドイツ帝国創立の核心をなしたドイツ北東部の地方)とともに、宗教的理由をたてに、ポーランドに対し、軍事力を背景に干渉を行なった。
カトリック信仰の国ポーランドにおいて、少数派の正教(ロシア)と新教(プロイセン)の住民が差別されているというのが、その口実であった。受け売り 現代史 東ヨーロッパ ③_f0020352_1234542.jpg
こうして、ロシアとプロイセン、さらにはオーストリアをも加えて、三者で1772年に第一回のポーランド分割を行なった。結果、ポーランドは領土の三分の一、人口の半分を失った。
第二回の分割は、1793年にロシアの主導で行なわれた。ポーランドでは、最初の分割後、国家再建の機運が盛り上がりロシアの欧州進出を懸念するプロセインと対露同盟を結び、新憲法が採択された。
こんな気運を嫌気したロシアは、残りのポーランド領土に侵攻すると、プロセインの態度が豹変、再び両国の間で、残りの領土の分割が行なわれた。
さらに1795年、三国による第三回目の分割が行なわれ、ポーランドは第一次世界大戦が終わるまで、100年余りの間欧州の地図からその姿を消すことになったのである
復活は、第一次世界大戦後のことである。

②ソ連の侵攻(1939年)
 第一次世界大戦の結果、復活したポーランドは、独立早々またもロシアと衝突する。
紛争の直接の原因は領土問題だった。
独立後のポーランドとロシアの国境は、英国が提案して線引きされた。
しかし、ポーランド側は、これを不満とし、分割前のリトアニアとの連合時代の強大なポーランドの復活を求めた。
1920年、ポーランド軍はロシアに進軍するも、ロシアの反撃にあい、逆にロシアに侵攻されるはめとなり、独立早々またも国の存亡の危機に直面する。
その後、ポーランドの反撃が功を奏し難局を脱し、東方200キロ=現、ウクライナを含む広大な領土を獲得することになった。
広大な領土を失ったロシアは失地回復への執念に燃え、チャンスをうかがうことになった。
注)ロシアは、1922年ソ連邦を成立させた。
第二次世界大戦後、ソ連はこの失った領土の大半を奪回し、変わりにポーランドは西方のドイツから領土を獲得したことによって、ポーランドの国土は、西に大きく移動させられることになった。受け売り 現代史 東ヨーロッパ ③_f0020352_12332352.jpg
この領土喪失は、今日も、ポーランド人の対ソ連感情に微妙な影を落としている。
このほかにポーランドとソ連の関係でわだかまりを残しているのが、前述の「カティンの森」事件である。
 最近の欧州やロシアのメディアによると、同事件に言及した墜落現場の事故犠牲者追悼碑をロシア側が撤去したことが今年(2011年)になって発覚し、ポーランドが反発。
両国関係の古傷が再び影を落としているという。 追悼碑はポーランドが制作。「ソ連による大量虐殺」の追悼式に向かう際の事故犠牲者を悼むとポーランド語で刻まれていた。
しかしカティンの森の地元、ロシア西部スモレンスクの当局者は両国言語で虐殺に触れない石碑に交換したと伝えている。

この辺りにも両国間のなかなか拭い去れないシコリをうかがわせる。

参考図書:
「中欧の復活」・・ベルリンの壁 のあとに・・加藤 雅彦著 NHKブックス
by m-morio | 2011-10-16 12:48 | 市民カレッジ

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