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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 東ヨーロッパ ④

「チェコ」という国といえば・・・
私の年代の方は、「チェコスロバキア」じぁないの?・・・と思われる方が少なくないのではなかろうか。
若い人たちは、違うよ! チェコとスロバキアは別の国ジャン・・というだろう。

この両国は私にとっては、なじみが薄い国です。
スロバキアについては、既に若干ですが触れたので、今回は「チェコ」を訪れてみたいのですが・・・・
といっても、頭に浮かぶのは 首都が プラハ ということぐらい。

「ブラハ」→オバマ大統領の「プラハの演説」→「プラハの春」を連想する程度のこと。

そこで、講義で配布された資料などを参考にして隙間を埋めることにする。

チェコスロバキアの略史

1918年10月 チェコスロバキア国がオーストリアーハンガリー帝国から独立
1918年11月 チェコスロバキア共和国に改称
1939年 3月 スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に
1945年 4月 チェコスロバキア共和国再建
1945年 6月 ルテニア地方をソ連へ割譲(現在はウクライナ領)
1960年 7月 チェコスロバキア社会主義共和国に改称
1990年 3月 チェコスロバキア連邦共和国(チェコースロバキア連邦共和国)に改称
1990年 4月 チェコ及びスロバキア連邦共和国に改称
1993年 1月 チェコ共和国とスロバキア共和国に分離し、消滅

即ち、チェコスロバキア→チェコスロバキア共和国→(消滅)→チェコスロバキア共和国→ チェコスロバキア社会主義共和国→チェコスロバキア連邦共和国→チェコおよびスロバキア連邦共和国 に分離
という過程を経ている。

▼「プラハの春」

チェコスロバキアにおいては、1948年のクーデター後、20年間、共産党の一党独裁が続いた。
東欧諸国の中でも、チェコスロバキアは「社会主義の優等生」といわれ、ソ連に最も忠実な国であった。
1960年代に入ると、社会主義経済の歪が噴出しだした。
経済の低迷状態に加え、自由を圧殺してきた共産党の独裁体制に対し、国民の不満は次第に高まっていった。
第一書記と大統領を兼務したノヴォトニーは、強大な権力を使って、不満の押さえ込みに躍起になっていた。
ノヴォトニーの独裁政治に対する疑問が党員の間に広がり、改革派が台頭していく。

1968年1月、アレクサンデル・ドゥプチェクが改革派の期待を担ってチェコスロバキア共産党第一書記に就任する。
ドゥプチェク第一書記は、思い切った改革に踏み切った。
まず実行したのが言論・報道の自由だ。検閲制度は廃止され、マスコミは一斉に自由な活動を始め、人々は、はじめて政治の動きを知ることとなった。
改革は、これに留まらず共産党役員の改選・軍の人事異動など矢継ぎ早に実行された。
春の訪れとともに人々が手にした「自由」だった。
チェコスロバキアでおきたこの変化はいつしか「プラハの春」と呼ばれるようになった。

1968年6月20日、ソ連軍を中心にしたワルシャワ条約機構軍の演習が、突然チェコスロバキア国内で開始された。
人々は、ソ連のこの行動をチェコスロバキアの改革に対する威嚇と受け止めた。
ワルシャワ条約機構軍の演習から一週間後、69人の市民たちが「二千語宣言」と呼ばれる意見広告を新聞に発表した。
改革を守るために市民たちが独自に起こした活動だった。

宣言は

「最近、わが国の改革に外国勢力が介入してくるかもしれないという不安が生じている。われわれは武器をもってでも政府を擁護する。この社会主義体制を人間的なものにしようという改革は最後まで押し進めねばならない。」

・・・・・と訴えていた。

この宣言には、大学教授・映画監督・軍人・共産党員・工場労働者などさまざまな人々が名を連ねていた。
オリンピックのゴールドメダリスト、体操のヴェラ・チャスラフスカもその一人だった。

この「二千語宣言」は更にソ連を刺激した。
ソ連は、この宣言を「反革命への誘いだ」と決め付け、ソ連の新聞「プラウダ」などで批判。
これに対し、チェコスロバキアのマスコミは「二千語宣言」を支持し、ソ連に対抗した。
ソ連は、チェコスロバキアを威嚇しながら自由化にブレーキをかけようとしたが、チェコスロバキア側の態度は固く、両国の首脳会談も失敗に終わった。

1968年8月20日、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアの国境を越えた。
翌21日、ソ連軍用機がプラハに着陸、ソ連軍戦車がプラハになだれ込んだ。
チェルニク首相やドゥプチェクら党幹部は逮捕された。
その後、スヴォボダ大統領ら代表団がモスクワを訪問、ソ連側の要求する「正常化」協定に調印させられた。
こうして「プラハの春」は、軍事力の下でむなしく散ったのである。

ドゥプチェクが目指したものは、チェコスロバキア独自の社会主義の道であった。
それは「人間の顔をした社会主義」ともいわれた。
しかし、ソ連指導者には、東の陣営を崩壊させる危険な「反革命」として映ったのである。

ドゥプチェクは、1969年4月、第一書記を解任され、70年1月駐トルコ大使へと左遷させられ、その6ヵ月後に本国に召還され党籍をはく奪されて追放の身となった。
1989年東欧自由化の嵐のなか、「ビロード革命」で新しい連邦議会議長に選ばれたが、92年11月71歳で世を去った。

ソ連は、チェコスロバキアが「プラハの春」で得た成果を一つ一つつぶし、もとの体制に戻す過程を「正常化」と呼んだ。
ドゥプチェクが失脚したあと「正常化」は、異常なまでの執拗さで社会の隅々まで徹底された。
また暗い時代がチェコスロバキアにやってきた。
以後、静かで冷たい粛清が続いた。

例えば、前掲の体操のチャスラフスカは、多くの人々が「二千語宣言」の署名を撤回していったが、頑として署名撤回を受けつけなかった。
その結果、ついにはスポーツ界からの追放、失職が待っていた。f0020352_15245438.jpg
注)この署名に名を連ねた人に、エミール・ザトペックがいた。ロンドンオリンピック(1948年)の10000m、ヘルシンキオリンピック(1952年)の5000m・10000m・マラソンで金メダルを獲得した。
この長距離三冠の記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。
顔をしかめ、喘ぎながら走るスタイルから『人間機関車』と称された。
ザトペックは、署名を撤回したといわれているが、当時の政治状況を推し量ると、その行為は批判去るべきことではないだろう。

彼女が再び国民の前にその姿を現したのは、1989年11月、民主化革命=ビロード革命(流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロードの生地にたとえて名付けられた)の過程でであった。
20年間の空白であった。
以後、国民的人気を背景に、新政権の要職にも就き、スポーツ界の指導者として活躍することになる。

余談だが、チャスラフスカさんが、先日来日した。
日本で開催された「体操の世界選手権」の観戦もあったらしいが、東日本大震災の被災地復興支援イベントもあったらしい。
彼女は、チェコの五輪委員会会長も務めたが、90年代終わりになると表舞台からその姿を消した。
個人的な事情から心を病み、治療を続けていたのだとか。
現在は、笑顔を絶やさずハキハキと話をしている。

これまでの69年間を振り返って、日本語で 「山あり、谷あり」 と語ったという。
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by m-morio | 2011-10-22 15:29 | 市民カレッジ | Comments(0)