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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 東ヨーロッパ ⑥(完)

▼ハンガリーにおけるソ連共産党の独裁体制f0020352_13502720.gif
 ハンガリーの戦後史は、スターリン体制に飲み込まれていく過程とそれに抵抗を続けた人々の歴史であった。
ハンガリーで共産党が独裁体制を確立していく過程は4つのステージに分けられる。

第1ステージ:
 1944年ハンガリーの東半分をソ連が占領してから1945年11月第一回国民議会の選挙が実施されるまで。

共産党は、選挙で第1党になるべく土地の改革や大企業の国有化などの政策面で国民の支持を得ようとする。
しかし、国民は、ナチスの支配から解放してくれたソ連とそれに裏打ちされた共産党の力を認めながらも、国の政権を担う党として共産党に投票した人は少なかった。

第2ステージ:
 1945年の総選挙で共産党が小農業者党に大敗してから1947年8月の第二回総選挙まで。
共産党が、第1党の小農業者党をつぶして権力を奪う課程。

1945年4月、ソ連軍はハンガリーからナチス勢力を追放した。ハンガリーの人々は、ソ連軍の侵攻はナチスからの解放と受け止めていた。
政府が真っ先に手をつけたのが、大地主の土地を貧農や農業労働者に分け与えるという「土地改革」だった。ただ、一部の人々が不安に思ったのは、この施策は共産党が推し進めたことであった。
ソ連軍に対する恐怖心は常に人々の心に留まっていた。なにしろハンガリーはそれまで枢軸国側に属していたのであり、ソ連と戦って数多くのハンガリー人が死んでいた。
ナチス・ドイツからの解放とはいえ、ハンガリー人にとってソ連軍は占領軍であった。

1945年11月、ハンガリーではじめての自由投票による総選挙が実施された。
共産党は、これまでの農地改革や労働者の地位向上といった成果によって、民衆の支持を得られるだろうと考えていた。共産党の最大のライバルは小農業者党だった。国民の大半を占める農民に支持された小農業者党は一大勢力であった。選挙の結果は小農業者党の大勝利だった。小農業者党は単独で内閣を組織できる議席を獲得した。
しかし、小農業者党は単独で内閣をつくれなかった。共産党が連立政権にすることを強く要求したのである。
小農業者党と共産党との間で激しい対立と政治駆け引きが繰り広げられた。
敗戦国であったハンガリーには、ソ連軍が占領軍として駐留し睨みをきかしていた。
共産党は、ソ連駐留軍の支持と掌握した警察権力を使ったありとあらゆる謀略によって、小農業者党を壊滅状態にした。

第3ステージ:
 1947年8月から1949年の第三回総選挙まで。

この選挙はもう自由選挙とはいえなかった。ライバル小農業者党を追い落とし、第1党の座を確保した共産党は、残りの政党を廃止し、弱体化させていく。これまで共同歩調をとってきた社会民主党を吸収し、共産党独裁体制が完成する。
その後、ハンガリーでは自由な投票による選挙は行われなかった。1949年の選挙は、候補者の統一名簿を共産党がつくり、国民はそれを追認するだけのものになってしまった。

第4ステージ:
 その後スターリンが死ぬまで(1953年)。

共産党の内部でさらに独裁が進み、異分子を粛清して、個人独裁が完成する過程。

まさにソ連でスターリンが敷いた恐怖体制がハンガリーでも完成する。
自由選挙が行われたのは、1990年、43年ぶりであった。この選挙で、共産党そのものが解体した。その後継者たちは党の名前をかえて社会党をつくったが、それも5番目の勢力に転落し、野党に下った。



▽1956年の「ハンガリー動乱」1956年10月23日、
この動乱は、共産党の独裁体制とそれを支えてきたソ連に反対して起こった民衆蜂起だった。
民衆は、ソ連軍の撤退、複数政党制による自由選挙、言論の自由、労働ノルマの廃止、経済に対する共産党支配の撤廃などの要求を掲げた。
10月24日、
ハンガリーに駐留するソ連軍がブタペスト市内に入った。戦車80両、兵士11万人といわれた。一方、ハンガリー軍部隊の一部は、政府の「蜂起した民衆を鎮圧せよ」という命令を拒み、民衆側に合流した。
10月25日、
動乱が始まって二日後、共産党は民衆の力に押され、かつて追放した改革派のナジ・イムレを首相に就任させた。
28日には、
ソ連軍はブタペストから周辺の駐屯地へと撤退を開始した。
30日、
ソ連軍の撤退が完了した日、民衆は再び動いた。民衆は、ナジ・イムレが打ち出した方針に満足せず、共産党のブタペスト本部を襲撃した。要求は、ソ連からの完全な独立と一党独裁体制の変革だった。
ナジ・イムレ首相は、ソ連軍がブタペスト周辺に迫っている現実を指摘し、労働者が支持しない政府ならソ連軍に潰されてしまうのだ・・・と労働者を説得した。
民衆も納得し、11月5日から工場は操業を再開することになっていた。
ナジ・イムレ首相は、民衆の強い要求を受けて、共産党第一党独裁体制の放棄とハンガリー全土からのソ連軍の完全撤退を約束した。
すでに国境近くまで押し寄せていたソ連軍の脅威を感じながらの決断だった。
ハンガリーはソ連から離れて独自の道を歩むと。。。。。
11月4日、
再びソ連軍がブタペストはじめハンガリー全土に侵入した。
2500両の戦車と15万人の兵士だといわれる。
ナジ・イムレ政権は崩壊。首相はじめ閣僚たちはソ連軍に連れ去られた。
一方、民衆の抵抗はハンガリー全土でその後1ヶ月続いた。
この戦闘で、少なくとも1万数千人の死傷者が出、およそ25万人の人々が難民となって祖国を逃れていった。

鎮圧のあと、ハンガリーに訪れたのは粛清の嵐だった。

1958年、ハンガリー動乱から1年半後、ソ連軍にとらえられ行方不明だったナジ・イムレら当時の政府要人の裁判がブタペストで開かれた。彼らはそれまでルーマニアで軟禁されていた。
ナジ・イムレは有罪判決を受け、処刑された。
後に名誉が回復されたのは1989年6月、裁判から31年後のことであった。

結果として、民衆の要求はソ連軍の戦車によって徹底的に押しつぶされたが、人々の心の奥底には実現しかけた民主化への願いが生き続けたようである。

長い33年間もの粛清のあと、1989年ハンガリーで民主化の動きが起こったとき、これを支えたのは、1956年からスターリン体制と戦い続けた人々だった。(見方によっては、1945年から戦い続けた人々とも言えるのだが。。。)

▼民主化への動き
ハンガリーの民主化は歴史の再評価がきっかけになった。
共産党の独裁政治とソ連軍の支配に対する民衆が蜂起したハンガリー動乱は、33年間「反革命」とされてきた。全ての国民がそう呼ぶように“強要”されてきた。反抗する人々は諸々の不利益を受けることになったのだ。
ところが、1989年1月、共産党の実力者が
「1956年のハンガリー動乱は、いままで言われてきたような反革命ではなく、独裁体制に対する民衆の蜂起であった」
と発言したのである。
これを機に、民主化が急速に促進していくことになる。
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 2011年4月、「ハンガリー共和国」から「ハンガリー」への国名変更を含むハンガリー基本法(新憲法)が国会で可決された(2012年1月1日発効予定)。
現在、国会は新憲法によって制定が必要とされる重要法案(3分の2以上の賛成が必要とされる32の法案、国会議員選挙法、地方自治体法、教育法等)を審議している。

ユーロ導入の時期について政府の公式見解はないが、2012年1月1日施行の新憲法には、ハンガリーの公式通貨を「フォリント」とする旨明文化されるため、将来ユーロを導入する際には、憲法改正が必要となる。
主要産業は、機械工業、化学・製薬工業、農業、畜産業で、経済成長率 1.2%、物価上昇率 4.9%、失業率11.2%(いずれも2010年)という現状では、ギリシャへの財政援助の負担も軽くない。
はたしてユーロ圏加盟が得策なのか難問を抱えている。
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by m-morio | 2011-12-13 13:53 | 市民カレッジ | Comments(0)