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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 グルジア ~大国ロシアと対峙する小国~

f0020352_1215191.png 7月に開講された現代史の講座で、 「ロシア近隣諸国・・・ソ連崩壊後20年」 を統一テーマとして、
「プーチンのロシア」、「ヤヌコビッチのウクライナ」、「サーカシビリのグルジア」、「カリーモフのウズベキスタ」
が採り上げられました。
ソ連崩壊後、隣接する諸民族が独立を果たし、それぞれの道を歩み始めました。
資源に依存して成長してきたロシア経済にも陰りが見えてきています。
プーチンのロシアの今後はどうなるのか、そして近隣の諸国はロシアとどのように付き合おうとしているのか。現状とこれからの展望を学びました。

 本稿では、その全てを網羅することはできませんが、「グルジア」は、1991年のソ連崩壊後も、民族紛争や民主化革命など、世界の注目を集める問題を惹起し、特に2008年に再燃した「南オセチア紛争」はまだ記憶に新しく、ロシアによる力の外交に世界が注目し、反発もしました。
後、南オセチアはロシアの後ろ盾を得て独立を宣言するも、それを承認しているのはロシアのみに過ぎません。

そんな「グルジア」の歴史を辿ってみることにします。

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1 グルジアという国
1)位置
グルジアは、黒海とカスピ海に挟まれたカフカス(コーカサス)山脈の南側から黒海沿岸に広がる。
カフカス山脈を挟んで北側はロシアと接し、東南部はアゼルバイジャンと、南部はトルコ、アルメニアと国境を接している。
古来より多くの民族が行き交う交通の要衝で、幾度も他民族の支配を受ける。
温暖な気候から、ワイン生産が盛ん。

2)概況
・1991年4月9日にソ連から独立宣言。
・「グルジア」はロシア語に由来し、英語名は「ジョージア」(Georgia)
・面積・・・・・日本の約五分の一
・人口・・・・・435万人
(南オセチアとアブハジアを含む)注)人口を捉えるときに、この両地域を含めるか否かが問われることがある。本稿では、これらの地域がグルジアの実効支配が及ばないとはいえ、ロシアが承認した「独立」を世界が認めていない現実を考慮し、総人口に両地域を含めた計数を採用した。出所:「世界国勢図会」(矢野恒太記念会 編集・発行 2011/12版)
・首都・・・・・トビリシ
・民族・・・・・グルジア系(83.8%)
・言語・・・・・公用語はグルジア語
・宗教・・・・・主としてキリスト教(グルジア正教)
・内政・・・・・2003年のバラ革命を経て、サーカシビリ氏が大統領就任。
2007年11月、大統領と議会の選挙実施時期を巡って政府と野党側が対立、非常事態令を出す事態までに発展。
2008年1月の繰上げ大統領選挙で、サーカシビリ大統領が再選。
国内に、アブハジア、南オセチアの分離主義地域を抱え、両地域には中央政府の実効支配が及んでいない。
・外交・・・・・政権は、親欧米路線を明確に打ち出している。
また、NATO加盟を目指しており、トルコ・アゼルバイジャンとの地域協力にも熱心で、筋金入りの反ロシアを指向。
ロシアとは、アブハジア、南オセチア問題、グルジアのNATO加盟に向けた動き等を背景に緊張感が続いていた。
2008年8月、グルジア軍と南オセチア軍の軍事衝突にロシアが介入したことで、両国間の緊張は武力紛争に発展。EU等の仲介により停戦したものの、その後、ロシアが南オセチアおよびアブハジアの独立を一方的に承認。ロシアとの外交関係は現在も断絶したままである。
・対ロシア歴史観
カフカスの有力民族でありながら19世紀にロシア帝国に併合され、ロシア革命後に独立宣言するも、赤 軍(ソ連の正規軍)の侵攻でソ連に加盟。ロシアを「侵略者」と見なしている。ソ連崩壊後は元ソ連外相のシュワルナゼ氏が指導者としてロシアと距離を置く外交を進めた。
・経済・・・・・主要産業は、茶・柑橘類・たばこ・ぶどう栽培を中心とする農業および畜産業、紅茶・ワインを 中心とする食品加工業など。旧ソ連解体後、一時経済は混乱したが、徐々に安定成長を遂げる。2006年3月に主要貿易国であるロシアがグルジアの主要輸出品であるミネラルウオーターやワインの禁輸措置を取ったとで、関連産業が深刻な打撃を受けたが、その後徐々に販路開拓に成功している。
2008年8月のロシアとの武力衝突およびその後の世界経済危機はグルジア経済に深刻な打撃を及ぼ したが、2010年には6.4%の成長率を達成するまで回復した。
  
・なお、ソ連の支配者スターリンと80年代の外相シュワルナゼ(後にグルジアに招かれ、国家評議会議長 を経て大統領に就任)はともにグルジア人であった。





2 帝政ロシア期のグルジア
 ロシア帝国の版図に編入されて以後、近代を迎える。
1917年、ロシア帝国が崩壊すると、カフカス地方では白軍(白衛軍・・・17年の革命およびその後の内乱に、赤軍に対抗しようとして組織された反革命軍)と赤軍(ロシアの正規軍)、地元勢力、さらにはオスマン帝国やドイツ、イギリスなどが激しい勢力争いを繰り広げ、混乱が広がった。
1918年には、「グルジア民主共和国」が成立するも、1921年に、赤軍の侵攻により併合される。
グルジア民主共和国は、国境を定める過程で、近隣との戦闘を経験した。
その際、ロシア文化やグルジア文化の影響を強く受けながらも、自らの民族意識を発展させたアブハズ人やオセット人の住む地域は戦場と化した。
これがソ連崩壊後の民族間不和に大きな禍根を残すことになったといわれている。

3 ソ連下のグルジア
 1922年、グルジアの政治改革をめぐってソ連指導部内に政治論争が起こった。
いわゆる「グルジア問題」である。
論点の一つは、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンをザカフカース共和国に併合するというモスクワの決定に対し、単独でソ連の一員としての地位を要求するグルジア側の指導者は、この動きに強硬に反対した。
グルジア人が、ソ連に対して急速に不信感を強めて行ったのが、1956年3月の民衆集会・運動が軍により流血を伴う弾圧を受けた事件であり、1989年4月の独立回復要求集会へのソ連軍による弾圧を受けた事件(共に「トビリシ事件」といわれる)であった。
このトビリシ事件は、グルジアにおける民族主義の方向を決定づけただけではなく、ソ連崩壊後の激しい民族間対立の幕開けとなったのである。

4 実効支配の及ばない地域を持つグルジア
 グルジア国内には、現ロシア国境に接して南オセチア(自治州)とアブハジア(自治共和国)という地域がある。どちらもグルジアからの独立を求めており、グルジアの実効支配が及んでいない。
オセチアは、1920年代前半に南北オセチアに分割され、ソ連に吸収された後、ソ連崩壊時に、北オセチアは北オセチア共和国としてロシアを構成する一つとなり、南オセチアはグルジアの自治州となった。

南オセチアには、
イラン系の民族で、キリスト教徒であるオセット人が多く住んでおり、同じオセット人が多く住む北オセチアへの併合を求める声もある。住民の多くはロシア国籍とパスポートを持っているロシア国民でもある。1989年には、南オセチアの独立を認めないグルジアとの間で紛争に発展し、1992年、南オセチアは、国家独立法を採択した。その後、停戦合意(ソチ合意)が行なわれ、この合意に基づき、南オセチアに、ロシア、グルジアおよびオセチアの平和維持部隊の派兵が決まった。

アブハジアには、
アブハズ人が多く住んでいる。2008年の南オセチアでの軍事衝突が起こった際、アブハジアは、南オセチアとの相互援助合意に従い「断固とした措置」を講ずることを決定し、アブハジア内のグルジア支配地域であるコドリ渓谷奪還の構えをみせた。戦火は南オセチアを越え、アブハジアにもおよんだ。

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上記の写真は、歴代大統領。左から、ガムサフルディア・シュワルナゼ・サーカシビリ

5 ガムサフルディア(初代大統領)のグルジア
 1985年、ゴルバチョフがソ連の指導者に就任すると、ペレストロイカを掛け声とする改革運動が繰り広げられた。
グルジアにおいては、上記の「トビリシ事件」によってソ連体制への反発は一層強まった。
この頃、愛国運動の先頭にたったのが、筋金入りの反ソ連活動を行なっていたガムサフルディアであった。1989年の事件から半年後に行なわれた初めての自由選挙で、自らが率いる円卓会議が勝利を収め、ガムサフルディアは独立への道を突き進み、1991年4月、グルジアは”独立の回復”を宣言し、翌5月に初代大統領に選出された。
しかし、体制内における不協和音が幹部の離反を招いた。その頃、ソ連もこの年8月にゴルバチョフに対するクーデターが発生し、その終焉を迎えつつあった。
1991年12月21日、ソ連解体とCIS発足が決定するが、まさに時を同じくして反ガムサフルディア派により大統領官邸が襲撃(軍事クーデター)され、ソ連打倒にその人生を捧げたガムサフルディアは、ソ連崩壊とともに権力の座から追われた。
このトビリシの内戦により、グルジアは事実上無政府状態になり、全土が混乱の渦の中に置かれた。

6 シュワルナゼ(第二代大統領)のグルジア
 以上のように、グルジアはソ連崩壊と同時に国内の権力闘争と民族問題が一気に噴出した。
クーデターでガムサフルディアを追放した軍事評議会は、1992年、グルジア出身のシュワルナゼ(ゴルバチョフ政権の外務大臣)を国家評議会議長として招聘した。
シュワルナゼは、ロシアの大統領におさまったエリツィンとの太いパイプを活かし、ロシアとの協調に舵を切った。
アブハジアや南オセチアにおける分離派政権の支配地域を除けば、グルジア全土の治安はほぼ回復させたシュワルナゼは、1995年に新憲法制定にこぎつけ、同年11月に第二代大統領に就任した。
しかし、相次いだ戦争と政府内の腐敗もあって、経済は極端に落ち込んだ。
ロシア自体も経済的にも混乱している状況下で、シュワルナゼが頼るのは西欧しか残されていなかった。
グルジアの国民は、ソ連時代から反ロシア(反ソ連)的な思考と、西欧への憧れを持っていた。
こうした国民の願望と、西欧の援助によって、急速に西欧に傾斜していった。
1995年、欧州評議会に加盟。2000年、世界貿易機構(WTO)に加盟。CIS安全保障条約から脱退。
北大西洋条約機構(NATO)への加盟の希望を表明。
1999年、ロシア軍基地のグルジアからの撤退が決まり、カスピ海原油を地中海に運ぶパイプラインの経由地としてグルジアが入った提案が選定されるなど、軍事とエネルギーという二本柱は外交の勝利であり、シュワルナゼ政権の絶頂期でもあった。

順調に推移しているかにみえるシュワルナゼ政権も、経済面では有効な手を打てず、国民の生活は苦しかった。
大きな転機は、1999年秋、第二次チェチェン戦争の勃発により、ロシア軍は独立派をグルジア国境との山岳地帯に追い詰めた。ロシアは、グルジア領内でチェチェン系村落が位置するパンキシ渓谷に独立派ゲリラをかくまっているとして、グルジアに対して執拗に軍事協力を求めるようになった。
ロシアは「査証制度」(2011年)というカードも切った。親西欧路線のグルジアとはいえ、経済的にはエネルギー供給のほか自国国民の出稼ぎなどでロシアに大きく依存しており、ピザの取得の義務化は国民に更なる負担(経済的・心理的)を強いた。
一方、この協定はアブハジアと南オセチアの住民には適用されず、両地域の住民にはロシアの市民権すら与えられていった。
ロシアでは、KGB出身のプーチンが登場し、シュワルナゼはロシアとの関係構築もままならなかった。
分離地域の問題も厳しさを増していった。
1998年にはアブハジアで軍事衝突がおこり、グルジア系住民が難民化した。
1999年にはグルジア系住民不在の中で独立を問う国民投票が行なわれ、圧倒的多数で独立を選択した。
2001年には南オセチアでは、新指導者が選出され、独立問題は解決済みとの強硬姿勢を示した。
シュワルナゼの権力も徐々に衰えが見え始めていた。

チェチェン紛争は、国内政局にも影を落とした。2000年に再選された直後から、高齢のシュワルナゼ後継をめぐる争いが顕在化していた。
政府内からも司法大臣を務めていたサーカシビリがシュワルナゼ批判の方向に舵を切った。
そもそも国民の不満の第一は経済失政だった。2001年には国事態が債務不履行となり、国内のインフラは劣化の一途をたどり、ロシア大統領プーチンの独断的采配はエリツイン時代とは程遠いものだった。
第二次チェチェン戦争でのシュワルナゼの曖昧な態度はロシアとの関係を修復不可能にした。
国際情勢に翻弄され、一貫性のない政治対応に、社会の不満は「新しい政治」を渇望し、その期待に応えたのがサーカシビリであった。

7 サーカシビリ(第三代大統領)のグルジア・・・バラ革命・・・
苦境のシュワルナゼ政権に対して、米国(ブッシュ大統領)は公正な選挙と若い世代への交代を促し、ロシアは、もっと露骨に、グルジアのパイプラインなどの権益の買収に走ったのである。
こうした動きはグルジアの愛国心を刺激し、抗議運動も起こり、2003年11月には総選挙が予定されていた。しかし、政局は混沌としシュワルナゼの与党内はまとまらず、サーカシビリの野党も意思統一できないまま選挙が実施された。
しかし、この選挙結果に対して与党側に不正があったとして紛糾。トビリシ他主要都市で大規模な反政府デモが始まった。
野党の抗議にもかかわらず、シュワルナゼは新議会を開会しようとしたが、野党の妨害を受けシュワルナゼは国家非常事態宣言を発し、シュワルナゼ・サーカシビリ会談を経て、シュワルナゼの大統領辞任が発表され、40年近く君臨したグルジア政界から退場したのである。
この政権交代をもって「バラ革命」と呼ばれる。(野党支持者がバラを持って行動したことから)

最高裁判所は先の議会選挙を無効と宣言し、2004年1月4日、大統領選挙が実施されサーカシビリが圧勝、同25日に新大統領に就任した。
サーカシビリ政権は矢継ぎ早に各種の改革を断行し、さらには、アチャラ自治共和国のグルジア中央政府への事実上の統合は革命後の最大の成果といわれた。
しかし、その後の政権運営は、激しい権力闘争などの中でもがき続けることになる。

前任のシュワルナゼが、対外政策でバランス維持に腐心したのに対して、サーカシビリ政権は米国への傾斜を明確にした。米国の強い後押しを受け改革を進めるグルジア政権の国際評価は一時急上昇するも、国防費が突出して増加(イラク派兵など)は欧州の国々から危惧の念で受け止められた。
憲法改正による行政の権限強化やマスコミへの監視圧力の強化などたびたび国際社会から危惧されている。
(とりわけテレビ局を、与野党を問わず私物のように扱う状況は、現在も変わっていないという)

しかし、国内における紛争は絶えない。アブハジアの問題であり、南オセチアの問題である。
これらの地域を後押しするロシアとの関係は悪化の一途を辿っていく。それは経済面にも影響し、ロシアによるグルジアワインの輸入停止とか、グルジアからの出稼ぎ労働者の強制送還などという形で現れてくる。
そうした中、2007年11月、政府を糾弾する抗議デモが続く中、治安部隊が武力鎮圧に乗り出し市民が負傷したことで政府は非常事態を宣言するにいたった。
ここにきて市民革命で誕生したサーカシビリ政権の権威は大きく失墜することになった。
この頃、グルジア側の手詰まり感に対してロシア側の分離勢力への肩入れが目立つようになっていった。

8 グルジア・ロシア紛争
▼2008年軍事衝突の経緯
 サーカシビリ政権は、はNATOへの加盟を目指すなど欧米寄りの路線をとり、これに対し、CIS・独立国家共同体各国をロシア外交の最優先地域と位置づけているロシアとは、こうしたグルジアの動向に加え、以前よりアブハジア、南オセチア問題を巡り、緊張関係にあった。
2008年の軍事衝突はそのグルジアからの分離独立を求める南オセチアとアブハジアの2つの地域を巡って起きた。
グルジア政府が南オセチアを支配下におこうと軍事攻撃したのが発端で、これに対し、ロシアが大規模な軍事介入を行なった。
戦闘は、ロシアの圧倒的勝利に終わり、ロシアは南オセチアとアブハジアを独立国家として承認した。

▼ロシア・・南オセチアの支配強化
 ロシアは、旧ソ連諸国を「近い外国」と呼び、自らの勢力圏と見なしている。また、旧ソ連諸国には大勢のロシア人が住んでおり、当時のメドベージェフ大統領が軍事介入の理由にロシア人の保護をあげていることに、旧ソ連諸国は警戒感を抱いていた。
その後、ロシアはそれぞれの地域に全面的な支援を約束し、ロシア軍の基地が置かれるなど支配の既成事実化が進んでいく。
グルジア側も、CIS・独立国家共同体から正式に脱退し、ロシアとの対立姿勢を鮮明にした。

▼グルジアをめぐる米ロのせめぎあい
 米のブッシュ政権からオバマ政権へと移行したことに伴い、悪化していた米ロ関係は、核軍縮で基本合意するなど関係修復に向かった。
また、NATOの拡大に反対するロシアに配慮し、グルジアのNATO加盟は遠のいたとも言われている。
しかし、こうした事態にもかかわらず、グルジアをめぐる米ロの対立は依然続いている。

▼軍事介入のロシアにとっての功罪
 プラス面としては、グルジアのNATO加盟を当面阻止したことだろう。
ロシアは、長年NATOの拡大に強く反対するもなかなか受け入れられなかったが、この実力行使でやっとロシアの主張に耳を傾けられるようになったと受け止められている。

 他方、ロシアの国のイメージは失墜した。
大国ロシアが小国グルジアのために重要な欧米との関係を悪化させたことは、大きな誤りだったとの認識がロシア国内にも広がったという。
また、軍事侵攻とその後の世界的な金融危機によってロシアから諸外国の投資が逃げ、株価が値下がりするなど経済的にも大きな打撃を受けた。
なお、この地域の独立を承認したのはロシアだけ(中米のニカラグアが承認したとの情報もある)で、世界のどの国も同調しなかった。
ロシアには友達が居ないことが明らかになった・・・・・とさえ陰口をたたかれた。

このように軍事衝突後、ロシアが自らの勢力圏を維持・拡大しようとする冷戦時代の思考から未だ抜け出せないことを物語っているようだ。
影響力を拡大しようとしているものの、米国がこれに対抗、旧ソ連諸国にもロシア離れが広がり、ロシアが求心力を失ってきていることを示している。
しかし、今年、再びプーチン大統領が就任し、国内外に強硬な姿勢を維持しいつつある。
旧ソ連圏内の影響力拡大をめぐる米ロのせめぎ合いは今後も避けられない。

ついでに参考までに、

▽最近のプーチン政権の話題・・・・・国内における強権振り
まず、民主化運動への圧力を強めている。
ロシア下院は、(2012年)7月に、外国から資金を得ている非政府組織(NGO)を政府の監視下に置く法案や、当局への中傷に高額の罰金を科す法案を相次いで可決した。(これらの法案は、上院での審議と大統領の署名を経て施行される見通し。)
ロシアでは、昨年12月の下院選での政権側による不正疑惑をきっかけに民主化運動が活発化。
野党側による大規模な反政府集会が続き、ネット上での当局批判が運動の拡大に拍車をかけた。
ロシアの一部の新聞では、今秋に見込まれる公共料金値上げと、それに合わせた反政府運動の抑制が狙いと分析している。
「民主化運動は弾圧では止められない。この法案は「焚き火にガソリンを注ぐものだ」との声も強い。


さて、堅苦しいことを長々と書き連ねてきました。

ここで少しの余談に触れペンを置くことにすします。

▽グルジアワイン(クレオパトラの涙)
 この地方のブドウ栽培は世界最古の歴史を誇る。
遡ること千年前。丘陵地の湧き水でブドウの原種が育ち、ワインが誕生した。
これがのちにエジプトに渡り、クレオパトラが愛飲することになる。その芳醇な味に感激して落涙したというのだ。このことから良質のグルジア産ワインを”クレオパトラの涙”という。
南オセチア紛争による被害はワインの集積地である中部の都市ゴリ周辺に集中している。
多くの貯蔵庫も襲撃されたという。ロシアは、グルジアに親米政権が誕生してから、その輸入を禁じてきた。
南オセチア紛争が、ワインを目的にしたものではないかと揶揄される理由である。
日本ではこのワインは簡単に手に入る。グルジアワインを見かけたら、紛争の現状にも思いを馳せて欲しい。(08.10.02 北海道新聞のコラム より)

▽「グルジア」という呼称を変えて!
 外務省がグルジアの呼称変更を検討している。
ワシャゼ外相が中曽根弘文外相(ともに、当時)と会談した際に、「グルジア」はロシア語の読み方として不快感を示し、見直しを強く求めたのがきっかけ。
グルジアのアルファベット表記は「GEORGIA」。英語読みにすると「ジョージア」となり、米国の州名と混同されかねない。グルジア語の「サカルトベロ」(SAKARTVELO)という呼び名も候補だが「元の呼称とあまりにも違いすぎて分かりにくい」と、いずれも決め手に欠けるのが実情。
グルジアとロシアは対立関係にあり、グルジア側の事情には理解を示しつつも、”命名”の苦悩は続いている。

国名変更のケースはある。「ビルマ連邦」を「ミャンマー連邦」に、「ジョルダン」を「ヨルダン」に、「ヴィエトナム」を「ベトナム」に、など。
しかし、相手国からの要請に基づく変更は異例のことだとか。
(09.03.22 北海道新聞コラム より)

以上
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by m-morio | 2012-08-15 12:14 | 市民カレッジ | Comments(0)