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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

パレスチナ問題 ・・・ユダヤとアラブ

世界地図をいくら探しても「パレスチナ」という文字は見つかりません。
地中海の東側にパレスチナという土地があったはず・・・。
でも、そこには「イスラエル」という国名が載っています。           →現在の イスラエル ですf0020352_15183980.jpg


1948年にイスラエルが誕生するまで、この地域はシリアの南部として「パレスチナ地方」と呼ばれていました。
この地域に現在のような国境線が引かれたのは、第一次世界大戦以降のことです。
これらの国境線は、殆どの場合ヨーロッパの大国が、支配権をはっきりさせるために引いたもので、そこに住んでいる人たちが、自分達の意思で引いたものではありません。
パレスチナとよばれていたこの地の人たちは、パレスチナ人というよりも、もっと広い意味で、アラブ人という範疇に入れられています。
比較的平穏だったこの地方に、迫害を受けたユダヤ人が逃げてきました。

19世紀後半になるとヨーロッパの大国が、植民地化しようと各地に触手を伸ばし初めます。
フランスがアルジェリアを(1830年)、チュニジアを(1881年)、イギリスはエジプトを(1882年)占領しています。
このころパレスチナは、オスマン帝国の支配下にありましたが、そこをイギリス、フランスが虎視眈々と狙っていたのです。
パレスチナ人の悲劇は、このようなヨーロッパの大国の植民地政策のなかで徐々に進行していくのです。
1880年代の初めからロシアではユダヤ人虐殺(ポグロムと呼ばれ、その大虐殺などはナチスのそれと五十歩百歩だったようです)が行われ、ユダヤ人の一部はこのパレスチナへ送り込まれ入植地を作っていきます。
送り込まれたユダヤ人たちは、現地でパレスチナ人を雇って農園を広げ植民地化という大国の目的を達しながら、現地住民を低賃金で働かせ、搾取していったのです。

ユダヤ人の虐殺については、歴史をさかのぼるとドイツによる大虐殺(ホロコースト)がありました。でもこの虐殺はヨーロッパにおけるユダヤ人迫害史の晩期のことで、それ以前からヨーロッパ人による長い迫害の歴史がありました。
キリスト教徒にとってユダヤ人とは、キリストをローマに引渡し十字架にかけさせた"許せない民"だったのです。
ユダヤ人は、紀元70年、ローマ軍によって国を奪われ、世界中に離散(ディアスポラ)していきました。
しかし、すべてのユダヤ人がパレスチナの地を出て行ったわけではなく、ローマの支配下にあっても、この地に残った者も多く他の宗教とも共存していました。

少し余談になりますが、
なぜここまでユダヤ人は迫害を受けたのでしょう。
一つには前述のようにキリストが十字架に掛けられるキッカケを作ったということがあります。
一方、ユダヤ教は極めて排他的で一神教を貫き他の宗教を認めないというその閉鎖性があります。
キリスト教徒にとっては、相容れない慣習であって、社会の邪魔者と見るようになっていきます。
また、ユダヤ人は、キリスト教徒が嫌う金貸しを業としていたという側面がありますが、これとて好き好んで業としていたというよりも他の職業に就けないのでやむを得ず・・という事情によるものともいえます。
またかれらは土地をもちませんから放浪の生活を余儀なくされましたので、持ち運びが便利なお金は都合が良かったのかもしれません。
でも、財をなしながらも社会の底辺で虐げられてきました。

これから少し歴史の推移をみていきますが、
誤解を恐れずに 一言で 表現するならば パレスチナ問題は ユダヤとアラブの抗争 と言えるかもしれません。

               下表はイスラエルと隣接する国々の人口や宗教をまとめたものです。
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■お断りしておきますが、この日記は論文を書いている訳ではありません。
年寄りがたまたま市民カレッジを受講し、それを機会に知ったことを後日振り返る時の参考に記録しておくという程度のものです。
いつもお願いしていますが、勝手な思い込み・・という部分があるかも知れません。
事実と異なる部分がありましたら、どうぞご指導ください。
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by m-morio | 2006-08-14 11:29 | 市民カレッジ | Comments(0)