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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

「受け売り・・現代史Ⅴ」 東ティモール

06.10.05 市民カレッジ 講義を基に・・・・・。

「東ティモール民主共和国」は、面積は岩手県とほぼ同じ大きさで人口92万人程度の国です。言語は、テトゥン語およびポルトガル語、宗教はキリスト教(大半がカトリック)が99%です。
                                             地図をご参照。f0020352_12284480.gif
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例によって、国旗も。。。
2002年5月20日に独立を宣言した際に、インドネシアからの独立運動に使用したフレテリンの旗をそのまま国旗として制定したもの。黒は植民地時代の暗黒を、黄色の部分は国家独立のための戦いを、赤は民族闘争で流された貴重な血の犠牲を、白色は平和を、星の形は未来への希望を象徴しているといいます。

歴史を追ってみますと、                                           16世紀前半  ポルトガルが東ティモールに白檀を求めて来航。
17世紀半ば  オランダ、西ティモールを占領。
1701年     ポルトガル、ティモール全島を領有。
1859年     ポルトガルとオランダの間でそれぞれ東西ティモールを分割。
1942年     日本軍、ティモール全島を領有。
1945年     第2次世界大戦終了後、ポルトガルによる東ティモールの支配が復活(この年、インドネシア独立。オランダ領だった西ティモールもインドネシアの一部となる)。
1974年     ポルトガル本国でクーデターが発生したのを機に、東ティモールで独立の動きが強まる。
1975年     独立派(フレテリン等)と反独立派の対立激化。フレテリンが東ティモールの独立を宣言した後、インドネシア軍が東ティモールに侵攻し制圧。
1976年     インドネシア政府、東ティモールを第27番目の州として併合を宣言。
1998年     5月スハルト・インドネシア大統領が退陣、ハビビ副大統領が大統領 に就任。インドネシアは、東ティモールの独立容認へ方針転換。
2000年 5月20日 東ティモール民主共和国独立
      9月27日 国連加盟

という経過を辿っていますが、この間紛争が耐えることがありませんでした。
平坦な道を歩んだわけでない東ティモールの独立を概観しますが、
その前にハッキリさせておかなければならないのは、
東ティモール問題というのは
・民族間闘争でもなければ
・宗教の違いによる抗争でもありません。

一言で表現するならば、力による支配との闘いだったといえるかもしれません。
まず、民族のことですが、人種の違いから独立を求めていたわけではありません。人種的には、西ティモールと東ティモールに明確な違いがあるわけではありません。

では、宗教は?
確かにインドネシアはイスラム教東ティモールはカトリックが殆どですが、インドネシアとの宗教の違いを指して宗教的な対立だと強調されることもあります。
しかし、インドネシアには宗教省というのがあってすべての国民を主な5つの宗教から一つを選んで自分の宗教として登録することになっています。
東ティモールの人々の大多数がカトリックを選んだのは、旧宗主国のポルトガルの影響もありますがカトリック教会が東ティモールの人たちをインドネシアによる人権侵害から守る役割を果たしていたことが大きな要因といえます。

次に、力よる支配の様子を・・・

暗黒時代 その1  ポルトガルの支配とティモール島の分割
東ティモールは、インドネシア諸島の東端にあるティモール島の東半分にあります。地理的には島のすぐ南側がオーストラリアです。この東ティモールは、もともと400年にわたって、ポルトガルの植民地でした。どうして、こここがポルトガルの植民地だったのでしょうか。15世紀後半はヨーロッパは「大航海時代」と呼ばれ、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどが次々と海外に進出し新しい航路や大陸を発見し、植民地を築いていきます。東ティモールもこのころポルトガルの植民地になったのです。ポルトガルは、ティモール島に生えていた白檀を求めてやってきました。その後、進出してきたオランダとの植民地争奪戦の結果、ティモール島は東半分がポルトガル領、西半分がオランダ領となり、1904年、両国は条約を結び、ティモールを東西に分ける国境線が確定しました。これらのことは、地元住民の意向に関係なくヨーロッパの国同士が勝手に領土を決めてしまったのです。この際、ポルトガルはこの東ティモールを直接支配するのではなく間接的に支配します。現地を支配する国王を通じて支配したのです。この時代は、税金の取立てなどをめぐって住民の反乱も相次ぎ、そのたびにポルトガルが弾圧するという「最初の暗黒時代」といえるでしょう。

暗黒時代 その2  日本軍の侵攻
1941年太平洋戦争が始まりました。日本軍は、開戦当初東南アジアを南下します。これに危機感を持ったのがオーストラリアでした。オーストラリアはオランダと共同作戦をとり、東ティモールに軍隊を進めたのです。太平洋戦争ではオーストラリアもオランダも敵国だったのです。オーストラリアとしては、もし日本軍がティモール島を占領した場合にはそこを基地として攻め込んでくるのではという心配をしました。1942年、日本軍はインドネシアも東ティモールも、一気に占領してしまいます。東ティモールの支配がポルトガルから日本に移ると、長年のポルトガル支配に対する住民の不満が爆発し、住民によるポルトガル人襲撃事件が相次ぎ、ポルトガルは、日本軍に保護を求める状態になりました。日本軍は、ゲリラ部隊と戦いながら、一方で住民を強制労働を強いました。二万人もの日本軍が駐留したので食料も不足し、住民の中には飢えで死ぬ人も出ました。これが「第二の暗黒時代」でした。

暗黒時代 その3 インドネシアの侵攻
1945年、日本は敗戦。西ティモールを含めたインドネシアはオランダから1949年に完全に独立しましたが、東ティモールは再びポルトガルの支配となりました。しかし、1974年、ポルトガル本国で政変が起こり、400年に及んだポルトガル支配が終了しました。東ティモールはこの機会をとらえて独立に向って動き出します。
一方、西ティモールを領土としているインドネシアは、ポルトガルが引き上げたのを狙って東ティモールを領土に組み込もうと動き出していました。
東ティモールでは独立に向けて
・独立派
・親ポルトガル派
・親インドネシア派の三つの政党ができました。
この中で、ポルトガルの植民地支配に反対してきた人々が結成した「東ティモール独立革命戦線」(フレテリン)は多くの支持を集め、他の政党との抗争も制圧して1975年11月に「東ティモール民主共和国」の独立を宣言します。
ところが、翌月、インドネシア軍が東ティモールに侵攻します。
このとき多数の住民が無差別に殺されました。インドネシアは、ティモール島全体を自国の領土にしてしまったのです。このときの大統領が、独裁者スハルトでした。
この事態を受けて、国連はインドネシア軍の即時撤退を要求する決議をしました。このとき、日本はアメリカとともにインドネシアを支持する立場をとって決議案に反対しました。即ち、インドネシアの侵攻を支持したのです。 その当時の事情は、インドネシアは、原油や液化天然ガスの輸入する国で経済への影響を優先させたのです。1976年、インドネシアは、国連の撤退要求を無視し東ティモールをインドネシア第27番目の州にしたのです。これが「第三の暗黒時代」です。

独立へ向けて
インドネシアの支配が続く中で、フレテリンは山岳地帯に逃げで闘争を続けます。いったんは壊滅状態になりますが、1980年代には復活してきます。
再生させたのが初代大統領になったシャナナ・グスマンでした。
東ティモールの独立運動は、カトリック教会が支援しました。カトリック教会は、ポルトガルがこの地にもたらしたものです。インドネシア全体では90%以上がイスラム教ですが、東ティモールの住民の99%がカトリック教徒です。

サンタクルス事件
1991年11月、東ティモールの首都ディリのサンタクルス墓地で、インドネシア軍による大虐殺が起きました。
インドネシア軍によって殺された地元青年の追悼式が行われていました。葬儀には数千人の人々が集まり、墓地の前には独立を求める横断幕を掲げました。この葬儀に政府軍が発砲するという行動に出たのです。この事件を契機に、世界の目は、インドネシアに対して厳しくなっていきます。

住民投票へ
事態が決定的に動いたのは、1998年5月でした。スハルト大統領が退陣し、後任のハビビ大統領は東ティモールの住民の意見を聞くための「住民投票」を認めるのです。1999年、東ティモールに大幅な自治権を与えるという政府案に対する住民投票が実施されました。結果は、投票率98.6%という高率で、78.5%が自治権を与えるという政府案に反対しました。つまり「自治権を与えられるだけではなく、独立したい」という意思表示をしたのです。  
「住民の圧倒的多数が独立に賛成」という結果が判明すると、独立反対派が、賛成派を襲撃するという暴挙にでます。あらゆる建物、住宅に火をつけ、住民を殺害しました。

国連の傘の下で
この惨状に国連が軍隊を派遣して治安の維持にあたり、インドネシア軍が撤退してやっと独立反対派による襲撃が終わったのです。1999年10月、東ティモールの独立が決まった後、新しい国家建設のため、国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)が設立されました。国づくりを国連が応援したということです。言い換えると、国連の傘の下で新しい国家を作っていくことになったということです。段階を経て2002年4月大統領選挙が行われ、シャナナ・グスマンが初代大統領に就任しました。このような苦難の道を歩んで21世紀最初の国が誕生したのです。

独立はしたけれど
苦難の末、やっと独立はしましたが、東ティモールの前途は多難です。
長い間支配を受けていたため自らが国を治める術も分からないないのです。
インドネシアから派遣されていた学校の先生や警察官が引き揚げてしまい、改めて先生や警察官を育てているのです。そのためには資金が必要なのですが、東ティモールの失業率はなんと80%に近く、仕事についていないから収入がない、よって税金の収入もない、だから公務員の給料も払えないので政府は仕事をできないのです。
とにかくゼロからの出発でした。それでも自分達の国を持つということは東ティモールの人々にとっては「人間の尊厳」に係る問題なのでしょう。
今、世界では多くの闘争が起きています。独立を目指すというものも多いのです、それぞれの根本に根ざすのは正にこの「人間の尊厳」なのでしょう。
独立し、荒廃した国土を再建するうえで東ティモールの建国がうまく進むことは、後に続く国家に希望と勇気をあたえることになると思われます。

最近の動向
政情が悪化しています。グスマン大統領は、混乱の責任はアルカティリ首相にあるとしてその辞任を要求し、市民1万人によるデモも行われ、首相が辞任を拒否するならば大統領が辞任する・・・とまで発言(後で撤回)しました。結果として首相は辞任します。今年の6月のことです。
しかし、治安悪化が続き、国連は平和維持活動(PKO)再開に動き出していますが、元兵士の反乱もあって事態は緊迫しています。
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by m-morio | 2006-11-05 13:06 | 市民カレッジ | Comments(0)