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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 : ベトナム

[受け売り 現代史] のこと
お断りしておきます。論文を書こうとしている訳ではありません。また、このblogを読んでいただいている方々に何かをご教示しようなどという思い上がった考えもありません。
私がたまたま市民カレッジを受講し、それを機会に知ったことや調べたことを切り貼りして、後日振り返る時の参考にしようというメモ程度のものです。勝手な思い込み・・という部分があるかも知れません。事実と異なる部分がありましたら、どうぞご指摘ください。

カレッジでの講座でカンボジア、ベトナムの順で聴講しました。
カンボジアについてはもう1週間以上経過しています。この二カ国について整理しようとするとき、まず頭に浮かぶのは争いです。
片や「ポル・ポト」であり、一方はあのアメリカが撤退を余儀なくされた「ベトナム戦争」です。
この観点からしますと、扱う順序は私の感覚ではベトナムが先のような気がしますのでここまで引き伸ばしてきました。

カンボジアはインド文化の影響を大きく受け、アンコール・ワットやアンコール・トムに代表される世界遺産が遺されていますし、ベトナムも中国の文化を受け継いでいる側面もあります。
スペースの都合もありますので今回は、殺伐とした“争い”について整理しておきます。

世界中では未だに民族間、あるいは国家との間に摩擦が生じています。ある国ではそれが民族同士の対立であったり、またある国では宗教を巡る対立であったりします。
この両国の場合は、現在も何がしかの問題を抱えてはいますが取り敢えず過去の歴史(戦争が中心になりますが)を整理してみます。
前回は、孫の“たっくん”にお手伝いしてもらいましたが、話題が殺伐としていますので“たっくん”には改めて登場してもらうことにします。
では、「ベトナム」から・・・・・。
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かって日本軍が支配したこともあったベトナムは、今や観光スポットになっています。講義の帰途通った旅行会社の店頭に「ベトナム」の大きな文字も見受けました。

広く険しい山岳地帯を抱え、狭く細長い海岸沿いの平野持ち、メコン川の河口付近には肥沃な土地(メコンデルタ)が広がり、写真で見る限り一面の緑に覆われ米作の国を彷彿させます。
人口8400万人、その8割が仏教徒です。

戦争のことは後で触れますが、確かに戦いでは勝利したベトナムですが、南北ベトナムが統一され「ベトナム社会主義共和国」は、その後急速な社会主義化政策を推し進めます。
その結果、「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民を出し、数万人にも及ぶベトナム人が、小さな舟で自分たちの国から脱出しました。
武力で推し進めた統一の結果がこれだったということです。

急速な社会主義経済化を進めたベトナムは、長く混乱が続き、経済は停滞しました。
これを打開するため、「ドイ・モイ」(刷新)と呼ばれる経済の自由化を進めています。経済の一部を資本主義化しているということでしょうか。最近の中国に似ているような感じもします。
争いではアメリカに勝ったベトナムですが、経済では、アメリカを見習いながら豊さを追い求めています。

経済面を数字で追って見ますと、
1989年頃よりドイ・モイの成果が上がり始め、1995~1996年には9%台の高い経済成長を続けました。
しかし、1997年に入り、成長率の鈍化、外国直接投資が急減し、また、輸出面でも周辺諸国との競争激化に晒され、1999年の成長率は4.8%に低下しています。
2000年の成長率は6.7%、以後も8%前後の成長率を達成するも、慢性的貿易赤字、未成熟な投資環境等、懸念材料も依然残っているようです。
近年ベトナムは一層の市場経済化と国際経済への統合を押し進め、2007年1月11日、WTO正式加盟を果たしています。(外務省HPを参照)

この後は、ベトナム戦争の経過を年表式に残しておきます。あくまでも、私のメモです。

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1940  9  : フランスがドイツに敗れたのを機に、日本はベトナムに進駐。日本が実質的に           支配。

1941  5  : ホー・チ・ミンの指導下で、独立を求めて「ベトナム独立同盟会」(ベトミン)を結           成。

1945  9 2: 太平洋戦争が終わり、日本軍が引き揚げた後、ベトミンは「ベトナム民主共和国」の独立を宣言。    フランスが再びベトナムを支配しようと動き出す。

1946 12 : ベトミンとフランス軍の衝突=「インドシナ戦争」(7年半続く)        「ベトミン」=インドシナ共産党が指導し、「ソ連」と「中国」が支援。          「フランス」=アメリカが応援。理由は、「もしインドシナ半島が共産党に倒れれば、東南アジアの諸国もドミノ式に共産化することを懸念した」
ベトナムは、フランス軍が支配する「南部」と、ベトミンが支配する「北部」とに色分けされつつあった。

1954  5 : フランス軍 降伏

1954  7 : 「ジュネーブ協定」=和平会談で休戦 
ベトナムを「北緯17度線」を境に南北に分割。
「北」には、既に「ベトナム民主共和国」が確立し、ホー・チーミン首相のもと、社会主義の道を進む。

1955 10 : 「南」=「ベトナム共和国」が成立し、アメリカが支援する大統領の政権が成立
「ジュネーブ協定」では、南北の境界(幅10キロの非武装地帯)は国境ではなく、協定成立の2年後に、南北ベトナム全体で統一占拠を実施して統一国家を作る事になっていたが、アメリカと南ベトナムがこれを「拒否」した。ところがアメリカが支援した「南ベトナム」政府は、大統領の独裁政権で腐敗した政権に国民が反発し国民を敵に回すことになった。

1960 12 : 「南ベトナム民族解放戦線」(解放戦線)が結成され、アメリカの撤退と平和・中 立の政府を求めた。解放戦線は、農村地帯でのゲリラ活動を基本に組織を拡大。
この当時のアメリカは「南ベトナム国内で活動する解放戦線は、北ベトナムの軍隊だとみなしていた。 即ち、南ベトナム政府が、民主主義から遠い存在になり、国民からいかに嫌われていたかまでは、考えが及ばなかった。

1964  7 : 「トンキン湾事件」が発生。

1965 : 南ベトナム軍を援助する立場だった「アメリカ軍」は、南ベトナム軍に代わって、最前線で「解放戦線」と直接対決することになった。

1965  2 : アメリカは北ベトナム爆撃(北爆)を続行。3次にわたる大攻撃はいずれも失  敗。北爆は68年10月まで続く。北ベトナムでは、北爆をきっかけに、南で戦う「解放戦線」への支援を強化することになる。

1968  130: 「テト攻勢」=解放戦線と北ベトナム軍が、ベトナム全土で一斉に大攻勢をか ける。首都サイゴンでは、アメリカ大使館が占拠され、アメリカ軍が大使館を攻撃するという様子がテレビで放送されアメリカ国民は強いショツクを受ける。
北ベトナムとの共同作戦とはいえ、主要な戦いはすべて解放戦線が担当したので、解放戦線は大打撃を受けた。主要メンバー、経験豊富なメンバーを失ってからは、北ベトナムの正規軍が主導権を握る。そして、北ベトナム軍による「南ベトナム解放」の後、解放戦線は表舞台から姿を消した。

1968 3 16: 「ソンミ村の集団虐殺」=老人や婦女子ばかりの無抵抗の農民160人を虐殺
この事件の報道は、写真入りで公開され、アメリカ国内では「わがアメリカ軍は、ベトナムに何をしに行っているのか」という声が湧き起こる。ベトナム戦争への疑問が、アメリカ国内で大きく広がる。

1969 7 : 「ベトナム化」=南ベトナム政府軍が先頭の主役となり、アメリカ軍は、輸送や補給などを担当しながら徐々に撤退させるというもの。

1972 8 : アメリカ軍最後の地上戦闘部隊が、南ベトナムから撤退。

1973 8 : 同空軍と警備部隊も引き揚げ、すべてを南ベトナム政府軍にバトンタッチした。

1975 3 : 北ベトナム政府軍の前面攻撃で南ベトナム政府軍は総崩れとなる。

1975 4 30: 大統領官邸に北ベトナム政府軍が突入。政府高官は降伏。南ベトナムという 国は消滅した。

1976 6 : 南北ベトナムの統一→「ベトナム社会主義共和国」  ベトナムは、その後「カンボジア」に侵攻。この「カンボジア」を支援したのが「中国」
   
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by m-morio | 2008-03-07 10:09 | 市民カレッジ | Comments(0)