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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 : ベトナム 2

前回の最後にベトナムの経済成長に触れましたが、書き残したことがありましたので・・・

国際経済では、先進諸国に追いつく勢いで急成長を遂げている国々があります。
これらの国名の頭文字をとって、いろいろな呼び名が登場してきています。
まず有名なのが 「BRICs(ブリクス)」で、ブラジル、ロシア、インド、中国のことです。
次に、「VISTA(ビスタ)」で、ベトナム、インドネシア、南アフリカ、トルコ、アルゼンチンです。
ベトナムは勤勉な国民性が好感を持たれ、加えて人件費が低いこともあって海外からの投資も増えています。
人件費が低いといわれ続けてきた中国も、ここにきて徐々に上昇していて、ベトナムに移転してくる企業も出ているのだそうです。

こんな話もあります。
中国に進出している韓国企業の経営環境が人件費急騰などで急速に悪化している。韓国商工会議所が会員企業350社を対象に行った調査によると、約3割が中国からの撤退を検討あるいは準備と回答した。韓国企業が多い山東省では正式な清算手続きを踏まずに「夜逃げ」するケースも増えている。
 2月に行われた同調査によれば、進出企業の約86%が「今後中国の企業環境は悪化する」と回答した。昨年3月の調査で「悪化する」としたのは約33%。過去1年間で悲観的な見方が急速に広がった。
 この背景には中国の労働契約法施行などによる人件費上昇のほか、税制などで外国企業への優遇措置がなくなったことなどが指摘されている。特に対応策が遅れている中小企業の経営悪化が顕著だという。(時事)

こうした状況からも「ベトナム」は目が離せない国といえるかも知れません。
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さて、今日の本題です。
手元に3冊の本があります。古い本です。背表紙などは色あせています。古本屋に引き取ってもらおうとも考えた時期もありましたが、恐らく引き取りは断られるだろうと思い手元に残しておいたものです。f0020352_98826.jpg
「サイゴンから来た妻と娘」「バンコクの妻と娘」「パリへ行った妻と娘」です。記憶では4冊のシリーズものだったような気がしています。その1冊が欠けていることが ず~っと気にはなっていました。今回、改めて本をめくってみて これなのかなっ といのが載っていました。
「サイゴンのいちばん長い日」 いま手に入るのだろうか・・・。
「サイゴンから来た妻と娘」は、1978年3月に書かれていますので丁度30年前です。
今は文庫本になっているらしい。

戦火のサイゴンで、日本人記者と子連れでしっかり者のベトナム女性が結婚した。アジア人同士の文化のギャツプが惹き起こす夫婦親子の種々な問題をユーモラスに描いています。
著者は、当時サンケイ新聞社記者で、71~75年サイゴン特派員を勤めた 近藤紘一氏です。

パラパラとめくってみますと、あのサイゴン陥落の様子がかなり生々しく描写されていました。
少しピックアップしてみますので、興味がありましたらご覧ください。





テレックス・センターを出て、ホテルの方に歩き出したとき、妙な爆音を耳にした。
鈍く押さえつけたような音だった。 「エンジン・トラブルかな?」 
足を停め、空を見上げたとたん、いきなり町中が対空砲火音に包まれた。  
一機のA37戦闘爆撃機が、市役所の尖塔をかすめ、家並みの向こうへ飛び去るのが見えた。
 機体を斜めにすべらせるようにして、二機目が続く。三機目は、大統領官邸の上あたりで急に方向を転じ、そのまま私たちの方へ突っ込んできた。
街路はハチの巣をつついたような騒ぎに包まれた。悲鳴、怒号、狂ったようなクラクションの響き・・・・・。
人も車もなだれを打って逃げまどう。自転車やモーターバイクがぶつかり合って転倒し、道路に投げ出された人々は、そのまま後も見ずに建物や街路樹のかげに身を隠した。

「サイゴンから来た妻と娘」の書き出しです。1975年4月28日 のサイゴンで・・・

(中略)

「クーデターじゃない。総攻撃の前触れらしいぞ」
私は階段づたいに七階に上がった。食堂を横切り、テラスに出て思わず息をのんだ。すぐ目の先、サイゴン河対岸に、幾筋もの黒煙や白煙が立ちのぼっている。その煙を縫うようにして、何機ものヘリコプターや輸送機が乱舞していた。四方八方から自動小銃や機関銃の乱射音が聞こえた。海軍基地のすぐ向こうの町はずれのあたりから、ひときわ間近な轟音が伝わり、見るまに真っ白な煙の桂が空を覆った。上空を逃げまどっていたヘリコプターの一機が、ローターをはじき飛ばされ、煙の中に墜落していくのが見えた。
一時間ほどで騒ぎは静まった。遠くではまだ断続的に二次爆発の音が響いていたが、町の銃声はほとんどやんだ。ロビーに降りると、何人かの記者がフロントの電話にしがみついていた。軍情報部や空港の応答はいぜん混乱しているようだった。
だが、事態はもう明白に思えた。クーデターにしろ、北ベトナム・革命政府軍総攻撃の前触れにしろ、とにかく町は一瞬にしてあの騒ぎだ。
もう何が起こっても、サイゴン側には、それに対処する機能や余裕は一斤も無い・・・・・。

 私は部屋に戻り、そのままタイプライターの前に腰を下ろした。
<4月28日 夕 サイゴン発・・・・・>
《サイゴンはいま、音をたてて崩壊しつつある。つい二ヵ月、いや一ヵ月前まではっきりと存在し、機能していた一つの国が、いま地図から姿を消そうとしている。信じられないことだ……》


(中略)
 
1975年4月30日。
南ベトナム最後の朝を、私は、サイゴン河畔の日本大使館で迎えた。
北ベトナム軍は、前日未明ノタンソンニュット空港砲撃から約30時間の猶予を、ヘリコプターで脱出をはかる米人らに与えた。
パニック、としか呼びようのない30時間だった。町中に、敗走兵や、スーツケース、合財袋をぶら下げた脱出志望者があふれた。それを押しわけて家財道具を満載した自家用車やモーターバイクが走り去った。米大使館は、ヘリコプターで沖の米戦艦にたどりつこうとするベトナム人の大群衆に取り巻かれた。
追いすがる人々を残し、最後のヘリは30日午前7時、大使館屋上から離れた。f0020352_9131186.jpg

サイゴン河畔の遊歩道路は、まだ何万人という人で埋めつくされていた。停泊中の貨物船の甲板によしのぼるもの、先を争って殴り合う中年男、小舟でやみくもに漕ぎ出して行く家族もあった。砲弾の中を100キロも離れた河口まで下るつもりなのか。
文字通り、町中が水際に追いつめられた感じだった。

8時頃、一時静まっていた郊外の砲音がにわかに高まり始めた。
「いよいよ総攻撃開始らしいぞ」
記者仲間が緊張した顔で部屋に戻ってきた。
ついさっきまでは、地鳴りか遠雷のように響いていた砲音が、もう一発一発はっきり聞き取れる。それも四方八方から迫ってくる感じだった。
北ベトナム軍先遣隊がすでに空港を制圧し、敷地続きの参謀本部の残存部隊と交戦中との情報も町にいるベトナム人記者から電話でもたらされた。
午前十時二十分、ズォン・バン・ミン大統領は、ラジオを通じて無条件降伏を宣言し、自軍に武装解除を命じた。 北ベトナム軍は降伏を受け入れなかった。戦車を先頭に進撃を続け、やがて四方の街道からサイゴンになだれ込んだ。
突然、街路も河畔も奇妙な静けさに包まれたように思えた。
「来た! 来たぞ!」
館内の誰かが、叫んだ。
私は窓際にかけよった。
目の下、わずか十数メートルのところに、もう武装兵士らがきていた。身をかがめ、AKライフルを構えて、剌すような目を周囲に配りながら、影のように壁づたいに進んでくる。
通りの向こう側にも、十数人の分隊が三つ四つ、いや、あとからあとからくる。どこからこんなに素早く、そして大量にわき出してきたのか・・・。
オリーブ色の平たいヘルメットに、同じ色のダブダブの戦闘服。皆、サンダル履きだが、ドス黒く日焼けし、驚くほど若く、精悍に見えた。その鋭い目つきが同じに見え、一人一人の顔の区別もつかないほどだった。
十二時三十分、サイゴン中心部は、完全に北ベトナム軍の軍事制圧下に置かれた。
南ベトナムは、物理的にこの世から姿を消した。



更に、「ボート・ピープル」の人々の様子について・・・・。

沖繩県八重山群島・与那国島は、東京から約二四〇〇キロ、沖繩本島からも小型飛行機を乗りついで約一時間半の、日本最西南端の離島だ。世帯数六百余り。住民の多くは、夏場は洽岸でカジキマグロを迫い、漁期が終ると砂糖キビ畑で汗を流す。

八十六人のベトナム難民が漂着したのは九月四日(一九七七年)の未明だった。
島の西端、久部良集落の住民が、防波堤の向こうの浜でタキ火をかこんで坐り込んでいた一行を見つけた。

この後、一行のリーダー格の「グエン・バン・タン博士」という小柄でがっしりした四十歳がらみの皮膚科のお医者さんの話は、共産主義下の悲惨で、人権を無視した状況を切々と訴えます。
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by m-morio | 2008-03-08 09:26 | 市民カレッジ | Comments(0)