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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 : カンボジア

[受け売り 現代史] のこと
お断りしておきます。論文を書こうとしている訳ではありません。また、このblogを読んでいただいている方々に何かをご教示しようなどという思い上がった考えもありません。
私がたまたま市民カレッジを受講し、それを機会に知ったことや調べたことを切り貼りして、後日振り返る時の参考にしようというメモ程度のものです。勝手な思い込み・・という部分があるかも知れません。事実と異なる部分がありましたら、どうぞご指摘ください。

今回の「現代史」の講座は昨日の「タイ」で終わりました。 もうず~と前のことのように記憶も薄くなった「カンボジア」をやっつけてしまいます。

インドシナ半島の中央に位置するカンボジアは、タイ、ベトナム、ラオスと隣接しています。アンコール・ワットを始めとした、アンコール王朝の栄華をしのばせる数々の貴重な遺跡群は世界遺産としても知られています。
f0020352_19491787.jpgメコン川と東南アジア最大の湖であるトンレサップ湖の自然の恵みに支えられていますので、近年ではカンボジアへ訪れる観光客の増加に伴い、遺跡の街シェムリアップにはホテルが建ち並び、高級志向のリゾートタイプのホテルも充実しているようです。
このように今のカンボジアは比較的落ち着いてきていますが、歴史的には苦難の道を辿っています。
 1953年、カンボジアはフランス統治の時代を経て独立したものの、隣国のベトナム戦争やクーデターなどに見舞われ、なかなか国内の情勢は落ち着きませんでした。さらに、1975年にはポル・ポト政権が成立し、内戦が激化。
その後、国連が紛争の解決に乗り出し、1993年に新生カンボジア王国が誕生して現在に至っています。
箇条書きにしてみますと
・カンボジアの独立「カンボジア王国」時代・・・・・・・・・・・・1953~70年・・・・シアヌーク
・「クメール共和国」(米国の傀儡政権)時代・・・・・・・・・・・1970~75年・・・・ロン・ノル
・「民主カンプチア」(クメール・ルージュの恐怖)時代・・・・1975~79年・・・ポル・ポト
・「カンプチア人民共和国」(ベトナム型社会主義)時代・・・1979~90年・・・ヘン・サムリン
・「新生カンボジア王国」(1991年パリ和平協定後の)時代・・・1993~・・・・フン・セン
(この辺の経過は後述します)

今回のカンボジアの整理にあたって、何をメイン(の話題)にしようか アンコール・ワットの遺跡か、ポル・ポト政権か・・・と考えながら地図を眺めていて、そのほぼ真ん中に位置する大きな湖が気になりました。それが「トンレサップ湖」でしたので、どんな湖なのか少しだけ調べてみました。
f0020352_1927164.jpgインドシナ半島の地図を開き、カンボジアの国を眺めますと目を引くのはカンボジアの中央に広がる東南アジア最大の湖で、「トンレサップ湖」といいます。なかなか興味深い湖です。・・・写真は「カンボジア政府観光局」のHPから借用しました。
5 月から10 月の雨季には面積16千k㎡と東京湾(1.3千k㎡)の12 倍の規模となるのですが、11 月から4月の乾季には2千k㎡~3千k㎡にまで縮小してしまいます。
この湖には、400種を超える魚類の他、数多くの哺乳類や爬虫類が生息していて、特に、魚貝類はカンボジア人にとって、貴重なタンパク源となっています。
更に、特記すべきことは、地図でも分かるように湖から流れる河はプノンペンでメコン川と合流します。雨季にはこのメコン川の水流が逆流しトンレサップ湖に押し寄せてきますが、この広大な湖が洪水の調整機能を果たしているのだそうです。乾季には一気に水量が減って、後には滋養に富んだ泥土を置いていくということになります。
従って、トンレサップ湖は、カンボジアの人々の食生活を支えている重要な湖といえます。
水上生活を営んでいる人々が住む水路を通 ってミニクルーズを楽しむこともできるようです。まるで海ではないかと思ってしまうような広大さです。f0020352_19291051.jpg
例えば、チョンクニアス(地図には記載されていませんがシアムリアップの直ぐ下の黒い点で表されているのがそれです)、トンレサップ湖の北端の集落で、シアムリアップ(アンコール・ワット遺跡に隣接する観光拠点都市)とトンレサップ湖とを結ぶ船舶接岸地で、漁業者、貨物、燃料、旅客、旅行者が利用します。
ほとんどの住民は、ハウスボートか、木造の簡易な家に住み、水位変化に応じて移動しています。
チョンクニアスでは、貧困の減少などを目指して、年間を通じて利用できる水路、港湾を整備し、その土砂を利用して洪水に強い土地を造成し水上生活者用の移住地として整備する計画が進められています。

殺伐とした内戦等の経過を書き並べておきますが、いつものように「私のメモ」としてです。




インドシナ半島においては、ベトナムは大国でした。
隣のカンボジアはたびたびベトナムの支配を受けるなど、いろいろな影響を受けてきました。 特に、ベトナム戦争中は、北ベトナムが「解放戦線」(南ベトナム民族解放戦線)を支援するため、ホーチミン・ルート(軍事物資を運ぶルート)を使ったのですが、このルートが、カンボジアの領内を通っていました。       
当時のカンボジアの国家元首だったシアヌーク殿下は、中立的な政策をとりながらも、北ベトナムや解放戦線寄りの態度を取っていました。アメリカは、この政策が腹立たしく思っていました。
なぜならば、南ベトナムでアメリカ軍に追われた解放戦線がカンボジアに逃げ込むと手を出せなかったからです。

1970年、シアヌーク殿下がモスクワ訪問中に、ロン・ノル首相がクーデターを起こしました。
(アメリカがそそのかしたと言われる)新政権はアメリカと共同でカンボジア領内にいる北ベトナム軍や解放戦線を攻撃。反ロン・ノルの「カンプチア民族統一戦線」が結成されます。反ロン・ノルのゲリラ活動は、シアヌーク殿下の人気もあって農民の支持を得て国内に勢力を伸ばします。
このとき活動の中心になったのが、ポル・ポトが指導するカンボジア共産党と、それを支援する北ベトナムだったのです。
 カンボジアは、ベトナム戦争のとばっちりを受けたことになります。このカンボジアの内戦では多数の市民(40万人ともいわれている)が死亡し、100万人を超える難民が首都プノンペンに流れ込み、首都の人口は200万人に膨れ上がったといわれています。  ベトナムからアメリカ軍が撤退した後、北ベトナム軍はカンボジアで、反ロン・ノルの戦いを進めるゲリラ部隊を支援します。

1975年、「カンプチア民族統一戦線」(ポル・ポトが指揮する共産党の軍隊)は、プノンペンに突入しロン・ノル政権は崩壊します。(ベトナムの)サイゴン陥落の2週間前のことで、カンボジアと南ベトナムは、ほぼ同時にそれぞれの共産党の支配下に入ったことになります。
「これで内戦が終わる」と喜んだ市民は、ポル・ポトの軍隊を歓迎したのだが、翌日からとんでもない事態となりました。
翌日、プノンペン市民200万人は、一人残らず市内から追い出されました。例外は一切認められなかったといいます。(ポル・ポトらにとって、都市の住民は敵でした。自分たちが農村で戦ったのに対して、戦場を逃げ出して都市に逃げ込んだことが許せない・・という考えかたです。)
200万人の市民を農村へと追いやることによって、新たな農業労働者を生み出すと考えたのです。

この日から、カンボジア国民は、二つに区別されました。一つは、ポル・ポト軍支配下の農村に住んでいた農民は「旧住民」として国民扱いされました。
一方、都市に住んでいた市民は「新住民」とされ、一切の権利を剥奪されました。そして「新住民」の抹殺が始まります。「(お前たちを)生かしておいても何の得にもならない。」「失っても何の損失にもならない」という考え方らしかったです。(この頃、シアヌーク殿下は幽閉されていました)                                   
 ポル・ポトは、「あらゆる生産手段を共有し、生産されたものは平等に分配される社会」を作ろうとしました。貨幣の廃止・宗教禁止・学校も病院も廃止です。そして最大の特徴は「知識人敵視」です。中学校を出ているだけで、知識人として抹殺されました。
(実は、講義で一本のビデオが紹介されました。「キリング・フィールド」(殺戮の大地)というのですが、当時の知識人狩の様子が克明に描写されていました。15分ほどの時間で一部を見せてもらったのですが)

農業に無知な人間が農業政策を推し進めたため、米の生産は激減し、豊だったカンボジアは、大規模な飢饉が広がっていきました。ポル・ポトは、反ロン・ノルのゲリラ活動中は、北ベトナムの支援を受けていましたが、政権をとると、反ベトナムの方針を打ち出します。      
かってのカンボジアはクメール王朝(アンコール・ワットなどを作り出した)が衰退した後、たびたびベトナムの侵略を受けていました。   また、フランスがインドシナ半島を支配していたときは、カンボジアなどを直接支配することなく間接支配していました。その結果、植民地支配の不満はベトナムに向けられるという図式になっていたのです。ポル・ポトは、この反ベトナムの意識を利用して何かにつけベトナムを悪者にします。 これにベトナムが反撃します。

1978年12月、ベトナム軍はカンボジアに侵攻します。カンボジアからのたびたびの攻撃に反撃したのです。侵攻から2週間で、カンボジアのポル・ポト政権は崩壊します。           カンボジアに侵攻したベトナム軍が目にしたものはこの世の地獄絵だったと言われます。全土に死臭が漂い、国内のあらゆる場所が埋葬の場所となり、地面を掘ると白骨化した遺体がいくらでも出てきます。前述の映画「キリング・フィールト」(殺戮の大地)では、この様子を再現しているそうです。

北ベトナム軍が南ベトナムのサイゴンに突入した1975年、相前後してカンボジアでも、ポル・ポト率いるカンボジア共産党の軍隊が首都プノンペンに突入し、共産政権を樹立しました。それから3年間に、カンボジアは殺戮の大地となったのです。
国連が「カンボジア統治機構」を作り、この組織のもとでカンボジア国内での自由選挙を実施し、新しい国家指導者を選んで、行政機関を整備します。             
 国連の下で総選挙が行われ、カンボジアには平和が訪れました。ポル・ポトは、1998年4月ジャングルの中で病死したそうです。

カンボジアには、いま大量の地雷が残っています。未だ地雷の犠牲者が出ているといいます。この点からから考えると、イントシナの戦争は終わっていないのかもしれません。

なぜ人間はこれほどまでに殺戮を繰り返すのだろうか・・・との疑問を残して。

なお、付記しておきますが
ポル・ポトの殺戮に関しては、そのような事実はなかった・・・という意見もあります。
本稿では一般的には「このように言われている」という意見を参考にしました。
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by m-morio | 2008-03-14 19:40 | 市民カレッジ | Comments(0)