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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史: シンガポール

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1 概要
まず、“国”の概要を整理しておきます。
位置はマレー半島の南端に隣接するシンガポール島と周辺の島々を領土とする“都市国家”で、正式には「シンガポール共和国」です。
すなわち、“シンガポール”という“都市”それ自体が政治的に独立し一個の国家を形成しています。
面積・・・・・・・淡路島とほぼ同じくらい
人口・・・・・・・450万人
中華系:75%、マレー系:14%、インド系:9%
首都・・・・・・・シンガポール
略史:
1959年・・・・英国より自治権を獲得しシンガポール自治州となる
1963年・・・・マレーシア連邦成立に伴い、その一州として参加
1965年・・・・マレーシアより分離して、シンガポール共和国として独立






2 シンガポールの建設とラッフルズ
ラッフルズとは?
資料によりますと次のように書かれています。
イギリスの植民地政治家・・・国際都市シンガポールの父
14歳で東インド会社の事務員として就職。猛勉強を続け、数々の成果を挙げ、中継貿易港の建設地を確保するためシンガポールに上陸し、この島を譲り受けた。その後、シンガポールの都市建設と運営に中心的役割を果たし、先見性のある政策でシンガポールを世界貿易の中心地のひとつとして繁栄する基礎を築いた。
そして東南アジアにおけるイギリス植民地帝国の基礎をすえた。
早くからシンガポールに目を付け東インド会社の一員として、イギリスの利益になるためにはどうしたらいいのか・・という観点から研究、実践を行った人物です。

シンガポールには英国風の地名や通り名が残っているのは、こうした背景があるからでしょう。ラッフルズは、秩序や規律を維持するため、シンガポールの川の自然地形を利用しつつ、居住者の職業にも配慮し、また短期滞在の商人と貿易商を区別し、それぞれの民族の指導者ごとに住宅の敷地を定めていきます。
官庁地区、ヨーロッパ人居住区、インド人、華僑の居住区を設置するといった具合です。この計画の基本的な部分は今でもそのまま残っているのだそうです。
このように当初のシンガポールは秩序立った計画に基づいた街でしたが、その後の繁栄に伴い移民が増加し、街は無秩序となっていきます。
特に華僑と呼ばれる中国人の増加が激しく、当初隣接していたインド人居住区を飲み込んでしまい彼らを他の地区へと追いやる結果になります。
1959年に英国から自治を獲得した頃、シンガポールの市街地には人口の4分の3が集中し、スラムを形成する状態でした。

3 独立後の都市計画
受け売り 現代史: シンガポール_f0020352_1418215.jpg1965年にマレーシア連邦から独立すると、シンガポールは小さいながらも1つの国として国際競争にさらされることになりました。そうなると社会資本の整備が国家の急務となります。
「住宅開発庁」が都心再開発事業の中心となり、都市中心部に形成されていたスラムを撤去し、土地の有効活用のため都心部の低層・密集住宅を取り壊して新しいビルに建て変えました。都心部の生活環境は格段に改善されていきます。

しかし、ここで問題になったのが急速な環境変化に住民が対応できなかったことです。
市街地のスラムが撤去され、国民のほぼ9割が公共住宅に住むようになった結果、高齢者が高層アパートの生活に馴染めなかったり、華僑やマレー人がそれぞれの伝統的な住居での生活を懐かしむという声が挙がったことです。
といっても政府は同一人種・同一言語の集団形成を排除したため、かつての同郷者の地域集中や、人種別の居住区は崩壊し、新しい“シンガポール人”の地域社会が出現していくのです。

4 華僑の動向
華僑即ち海外に居住する中国人は、現在世界の広範囲にわたって活躍していますが、そのなかでも東南アジアにおける華僑が、人口数においても現地の社会活動においても特に重要な存在になっています。
1819年英国の基地となったシンガポールは、それまでは無住に近い島でしたが英国の東南アジア進出でこの島は自由港とされたため中国人が大挙して移住してきて、まさに“東南アジア華僑の一大センター”の様相を呈するようになりました。
彼らは当初はヨーロッパ人の下で補足的な役割を果たしていました。
しかし、東南アジアにおける華僑発展の歴史を見てみますと、最初は個人的な通商活動から始まって、しだいに各地でその時代の需要に適切に対処し重要な社会的役割を果たすようになっていきます。
1950年代以降、各国の華僑たちは大きく変貌していきます。
即ち、大多数の中国系住民は居住地の国籍あるいは永住権を取得し、時代の推移とともに、居住地で生まれた二世、三世は言語、文化あるいは政治意識などの面において、中国とのつながりが日増しに薄くなり、一方、一部の人を除きその居住国への帰属感を高めています。その大多数は、すでに東南アジアの仮住まいの「華僑」ではなく、居住国の一員として位置づけられています。
したがって、従来の「華僑」の名称もそぐわなくなり、「華人」というのが事実に即しているのです。

さて、中国色などを払拭した“新シンガポール人”による今後と将来は?
シンガポール政府は、「土地は究極的に国家に帰属する」として、政府が強力な土地収用の権限を有しています。
住宅政策にもみられたように、政府は“新シンガポール人”=シンガポーリアンの創作に取り組んでいます。さまざまな民族が集まる国だからこそ、シンガポール国家としての共通の認識、帰属意識の育成が必要なのでしょう。

5 ASEANの一員として
シンガポールは淡路島程度の大きさの小国ですが、急激に成長してきたアセアン諸国の中でも、活力に満ちた国のひとつであると言えます。
ここを訪れる人々は、美しく緑の多い街並み、活気にあふれる市街、整備されたインフラに驚嘆の声を上げるといいます。(行ったことがありませんので、話として聞いた程度のことです)
「豊で安全・快適ではあるが、何か決定的な魅力に欠けている。安全で清潔で多様な商品が取り揃えられている小ぎれいなコンビニエンスストアのようにみえる」
と評する人もいます。
 この経済的繁栄が築かれたのは、マレーシアから独立した1965年以降、わずかに数十年間のことです。
目立った天然資源も持たず、国内のみで自立できるに足りるだけの市場も持ち得ず、食糧や水すらも外国に頼らざるを得ないこの国が、世界に名だたる先進工業国家の仲間入りを果たしうるに十分な経済力を持つように至った背景には、シンガポール政府の強力な外資導入政策と経済発展を国の根幹に据えた国家づくりがあったといわれています。
by m-morio | 2008-06-18 14:21 | 市民カレッジ

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