受け売り 現代史 : 香港
面積・・東京都の約半分
人口・・700万人弱
略史・・1842年:南京条約により香港島が英国領土となる。
1860年:北京条約により九竜半島の先端が英国領土となる。
1898年:英国は更に中国との租借条約により235の島を含む新界の99ヵ年にわたる租借を確保。
1982年9月以来行われてきた中英交渉が1984年9月妥結し、双方の首相により、1997年7月1日をもって香港の全領域を中国に一括返還する旨の共同声明に署名され、1985年5月発効。
1990年4月中国全国人民代表大会にて「香港特別行政区基本法」を可決、成立。
1997年7月1日、中国に返還。
2007年7月で香港返還から10周年となり中国本土との関係は大きく変わりつつある。
香港と呼ばれる地域は、香港島と九竜半島、それにランタオ島などの中小の島々で構成され、総面積は東京都の半分。
宝石箱のような夜景が有名な香港だが、なぜ、かつての「不毛の島」がここまで「香しい港」になったのであろうか。
イギリスの植民地となり、そして中国に返還されたその歴史と現状を振り返ってみる。
写真:九竜から見る香港島のパノラマ
△アヘン戦争勃発の背景
17世紀から18世紀にかけて最盛期を迎えた清朝も18世紀後半には、政治も乱れ、氾濫も起き、衰退のきざしが見えてきた。
その頃清朝を悩ませたもう一つの大問題が「アヘン」の問題であった。
アヘンは、ケシの未熟な果実の外皮を傷つけ、分泌する乳液を採取して乾燥させて作る麻薬であるが、薬用としても知られ、台湾ではマラリアの特効薬として用いられていたので、オランタ人によって台湾から清朝に伝わると、タバコのように吸引する風習が広まった。
18世紀には、華南でアヘン吸引者が増えると密売人の活動が活発となり、アヘンの密貿易が盛んとなった。特に、インド産アヘンの密輸入が急増し、たちまち全国的に流行するようになった。
清朝は、18世紀中ごろからは、外国貿易を広州一港に限定していた。このころ、広州での対中国貿易をほぼ独占していたのがイギリスであった。当時のイギリスでは紅茶を飲む習慣が広まり、茶の需要が急増していたので、イギリス東インド会社は大量の茶を中国から輸入した。そして毛織物やインド産の綿織物を輸出したがその額はわずかであったため、対中国貿易はイギリスの大幅な輸入超過となり、イギリスはその差額を大量の銀で支払っていた。
そこでイギリス東インド会社は、このような不利な中国貿易を打開するために「アヘン」に目をつけたのだった。東インド会社は、インドの農民にケシを栽培させてアヘンを作り、これを清朝に輸出するアヘン貿易に進出するようになった。
以後、イギリスは、中国の茶をイギリス本国へ、イギリスの綿織物をインドへ、インド産のアヘンを中国にという「三角貿易」をおこない、中国のアヘン流行=アヘン輸入額の増大とともに莫大な利益をあげるようになった。つまるところ、茶の代金をアヘンで支払う格好になった。
△アヘン戦争とイギリスによる香港島支配
この間、イギリスでは産業革命が進展し、自由貿易を求める機運が高まり、貿易港を広州一港に限定したり、それを「公行」(コホン)(広州での外国貿易を独占していた特許商人の組合)が独占する清朝の貿易制限に対する不満が強まっていった。
一方、大量のアヘンが流れ込んだことで、アヘン中毒の患者が激増した清朝では、当時の清朝の広東省担当大臣は、1839年、大量のアヘンを押収し、香港の近くで廃棄処分にした。
これに怒ったイギリスのアヘン商人は本国の議会を動かし中国への派兵を決めさせ、「アヘン戦争」が始まった。1841年のことである。
考えるとおかしな話である。アヘンを売りつけて中毒患者を増やしておきながら、そのアヘンを処分されたからといって逆ギレするとは・・・。
イギリス軍は、香港島に上陸すると、圧倒的な力で清朝を撃破し、ついには上海まで占領した。
結果として、1842年8月「南京条約」を締結し、香港島がイギリスに譲り渡された。
1860年には、「北京条約」で九竜半島南部も割譲させる。
さらに1898年には、九竜半島の中部から北部地域(新界地区)を99年間租借する協定を結んだ。「香港境界拡張協約」である。こうして香港はイギリスの植民地となった。
△難民の流入
こうした過程を経て、さびれた小村は、イギリスが自由貿易港として整備し、貿易には原則として関税をかけなかったので大きく発展することになった。
中国大陸にありながらイギリスの植民地である香港という特殊性から、大陸で何かことが起こるたびに、この香港には大勢の難民が流れ込み、人口が増え続けていった。
例えば、国民党と共産党の抗争で国民党が敗れると、国民党員や家族の多くは台湾に逃げこんだのだが、一部は香港に逃げている。
また、新生中国は、毛沢東の大躍進政策や文化大革命によって混乱が続いたが、そのたびに香港には難民が流れ込んでいる。
このように経済的に発展する香港は、難民にとって共産主義の地から「自由の地へ」の逃避地でもあった。
△香港と天安門事件
香港が中国に編入されても基本的には現状は変わらず、言論の自由も保障され、一国二制度という案に香港の人々は安堵の気持ちでいたのだが、その人たちを恐怖に陥れる事態が発生した。天安門事件である。
1989年4月、北京をはじめ中国各地で民主化を求める学生集会やデモが始まると、香港でもこれに同調する動きが起こった。大勢の市民が学生を支持した。その香港市民にとって6月4日の軍による武力行使は、恐怖であった。中国政府に対し抗議した。
「今日の北京は、明日の香港だ」がスローガンだった。即ち、「自分たちは、このような非民主的な国の一部になってしまうのか」という恐れだった。経済界に与えた影響も大きかった。株式市場は暴落、銀行の取り付け騒ぎ、市民の海外移住の動きなどである。
この事件は、香港返還にとって大きな障害となったが、その後も返還に伴う制度改革が進んでいった。
△1997.07.01 「返還」なのか 「回収」なのか
香港はイギリスの植民地だったが、その内容は二つに分かれる。
即ち、永久に割譲を受けた香港島・九竜半島と、99年間の租借地である新界地区である。
よって、理屈としては「返還」するにしても「租借地」だけでいいはすであった。
また、99年間の租借権は、協約当時は“半永久的に”の意味合いからそうしたものであろうし、
イギリスとしも期限の1997年の期限が切れても香港を維持しようとしたはずである。
一方、地理的あるいは生活実態から考えてみると、割譲地区はその後背地と新界に食料と水を依存していたこと、また、割譲地区だけがイギリスに残るとすれば新界地区の住民が香港などに殺到することが予想され、とてもそれだけの住民を受け入れる余裕が無かったのである。
結局は、割譲地区と租借地区を一体として考えなければならなかったのである。
1982年からはじまった具体的な返還交渉においては、鄧小平は「一括返還」(「返還」なのか「回収」なのか考え方の差はあるとしても)に拘り、あの”鉄の女”サッチャー首相の首を縦に振らせたのである。
1997年6月30日午後11時40分返還式典が始まり、7月1日の午前零時、ユニオンジャックが下ろされ、五星紅旗と香港特別行政区旗が掲揚された。
△これからの香港
社会主義国家中国が、資本主義の香港をどのように受け入れるのか。多くの人が注目していたところであるが、その結果は「一国二制度」というものであった。
この「社会主義国の中の資本主義」という考え方は、世界を大いに驚かせた。
今でこそ、中国は「社会主義市場経済」を標榜しているが、当時としては新鮮な発想として捉えられた。
返還にあたって、中国政府は軍事と外交を除く自治権を香港に付与した。不安を持ちつつも、香港人による高度な自治を保証する「一国二制度」が始まった。
変換後の香港経済は、アジア金融危機、IT危機、SARS(新型肺炎)などで低迷したが、中国本土から香港への個人旅行の解禁や香港に対する貿易優遇策といった中国政府の後押しで回復。香港の発展は今や中国抜きには語れないほど緊密化した。
一方、「真の民主主義は達成されていない」と言われる。香港のトップの行政官や立法会議員の選挙で、香港の憲法にあたる香港基本法で認められた完全な直接選挙が実現していないことへの不満は市民に根強い。大半の香港市民は、自分ことを「中国国民」ではなく、「香港の中国人」と呼ぶ。民主主義が実現しなければ、植民地時代と変わりがない・・
というのが一般市民の心情でもある。
返還後10年が経った。
07.07.05付け北海道新聞社説を引用しておく。
当初は自由な経済活動が制限されるとの見方があったが、アジア有数の国際金融センターとして発展を続けている。
高層ビルが立ち並ぶまちには五星紅旗がはためき、「百万ドルの夜景」はさらに輝きを増したかにみえる。
半面、香港市民の民主化要求が中国政府によって黙殺されてきたのも事実だろう。
返還にあたって制定された基本法(憲法)に基づく普通選挙は実施されず、返還十周年の式典の際には七万人の市民が抗議デモを行った。
特別行政区となった香港は、資本主義と社会主義が共存する「一国二制度」が五十年間保証された。台湾統一をにらんで当時の最高実力者・鄧小平が提唱したものだ。
政治的な民主化が進展しなければ「一国二制度」そのものが揺らぎかねない。中国政府は民主化を求める香港市民の声にしっかりと耳を傾けてもらいたい。 (中略)
香港経済はアジア経済危機の影響で一九九八年にはマイナス成長に落ち込んだ。これに二○○三年の新型肺炎SARSの流行が追い打ちをかけた。
しかし立ち直りをみせ、実質域内経済成長率は○四年に8・6%を記録し、以後は三年連続で6%以上の高成長を維持している。
中国と香港が経済緊密化協定(CEPA)を締結したことも大きい。
香港証券取引所には中国企業の上場が相次ぎ、今では証券取引所の時価総額の過半数を中国銘柄が占める。
中国本土の大都市からの個人旅行が解禁となり、中国人観光客は昨年千三百万人と、全体の半数を超えた。
祝賀式典に訪れた胡錦濤国家主席が「香港は世界で最も発展する活力を持つ」と称賛したように、経済的には確かに成功を収めた。
一方で呉邦国・全人代常務委員長が「香港の自治権は中央(北京)にある」とけん制し、民主派勢力が主導権を握ることを警戒してきた。
言論統制も強化されつつある。香港メディアはこれまで中国本土で報道されない事実を伝え、貴重な役割を果たしてきたが、最近は批判的な記事を控える傾向にあるようだ。
また現在は、香港のトップの行政長官や立法会(議会)議員を選ぶ選挙は、中国政府の意向を反映しやすい間接制で行われている。こうした状況をいつまでも続けるのでは、香港市民の納得は得られまい。
「一国二制度」の行方を国際社会が注視していることを中国は忘れてはならない。
[受け売り 現代史] のこと
論文を書こうとしている訳ではありません。また、このblogを読んでいただいている方々に何かをご教示しようなどという思い上がった考えもありません。
私がたまたま市民カレッジを受講し、それを機会に知ったことや調べたことを切り貼りして、後日振り返る時の参考にしようというメモ程度のものです。勝手な思い込み・・という部分があるかも知れません。事実と異なる部分がありましたら、どうぞご指摘ください。
by m-morio
| 2008-06-28 10:31
| 市民カレッジ