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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

二冊の本③・・・事件の概要

◇事件の概要
 明治24年5月11日。二冊の本③・・・事件の概要_f0020352_19403868.jpg
京都に入った皇太子一行は、琵琶湖と大津方面の遊覧を終えて、京都へ戻ろうとしていた。
皇太子一行を歓迎し、見物しようという人の波は道路の両端を埋め尽くし、その中を人力車が列を作って進み、人々は頭をさげ、警備の巡査は挙手の礼をする。
皇太子は周囲の店に視線を走らせながら車に体を揺らせていた。このとき皇太子は歓迎の午餐で少しお酒を飲まれていたようで、かすかに目元と頬が赤く染まっていたという。

そして「事件」が起こった。
皇太子の車が下小唐崎町に差し掛かったとき、挙手の手を下ろした巡査が、突然サーベルを引き抜き、進む人力車の右側に走り寄った。
刀身が陽光を反射してひらめき、その刃先が、山高帽をかぶった皇太子の頭に打ち下ろされた。皇太子は前を向いたままで、人力車の梶棒をとっていた車夫も気づかず、気付いたのは、車の右側後部を押していた車夫であった。この車夫は後押しを止めて巡査に駆け寄り、巡査のわき腹を強く突いた。巡査はよろめいたが、再びサーベルを振り上げて皇太子に近づいた。
そのとき初めて皇太子は巡査の方に顔を向けた。巡査は無帽の皇太子の頭にふたたびサーベルをたたきつけた。皇太子は、巡査とは反対側に飛び降り、頭を両手で押さえ前方へと走った。巡査はサーベルを手に追っていく。

この出来事を初めから目にしていたのは、皇太子の後方の人力車に乗っていたジョージ親王であった。ジョージ親王が巡査を追って走り、追いついて手にしていた竹杖で巡査の後頭部を叩いた。それと同時に車夫が巡査の腰にしがみつき、勢いよく後ろへ引いた。巡査は倒れ、サーベルが手から離れて路上に投げ出された。車夫は、そのサーベルを拾うと、倒れた巡査の背部に振り下ろし、さらに二太刀目を浴びせかけた。
上司の「殺してはならぬ」の叫びにそれ以上斬り付けることは無かった。
頭をかかえた皇太子は数名の随員に囲まれて立っている。
犯人は 「元藤堂和泉守の藩士」津田三蔵 であった。ロシア公使シェーヴィチには「昔の侍」と説明された。

皇太子は、接待役の有栖川宮に「エト・ニチェヴォ(何でもない)」といい、「このようなことがあっても、日本人民の好意に対する私の喜びの感情には変わりはない」と言った。
また、治療中にロシア正教司祭のニコライが見舞いに参上した際、
皇太子に「日本人が殿下を歓迎することは実に至れり尽くせりでありましたのに、一人の暴漢によってこのようなことになりましたのは、まことに残念でなりません」
と言ったのに対して、
皇太子は「日本国民が誠意を持って暖かく迎え入れてくれたことには、心から感謝している。
暴漢に襲われはしたが、それで日本人の好意を忘れたわけではない。幸いにも、私のキズは浅いので、一日も早く全快して、東京へ赴きたい。大聖堂も落成したと聞いているので、参拝するのを楽しみにしている」と言った。

 皇太子が旅行を中断して帰国するのではないかという心配は事件発生当初から天皇をはじめ政府関係者が最も懸念していたことであった。
この件に関しては、度々ロシア王室に皇太子の容態を報告するとともに、お詫びをしてきたところであり、皇帝からの電報でも旅行を継続することは差し支えないとの感触を得ていたところであった。
皇太子本人も途中帰国の意思は全く無く、傷が治り次第予定の旅を続ける意思を明らかにしていた。
一時中断していた東京での歓迎準備が再開されていた。
しかし、神戸にいる皇太子から天皇に送られた電報は、天皇とその周辺の者に大きな衝撃を与えるものであった。

「ロシア皇帝が日本を離れるように電報で命令してきたので、それに従って三日後の5月19日にロシアのウラジオストックに向けて出発する」
というものであった。

 日本を去るにあたって、
ロシア側から「わが皇帝は、日本が出来る限りの努力をしてくれたので、この事件についての賠償は一切要求しない」との申し出があった。
更に、日本がロシアに派遣をしようという謝罪使についても、皇帝は「その必要もなかろう」との言葉があった旨が伝えられた。

皇太子との別れにあたってひと悶着があった。
天皇がお別れの午餐を差し上げたいので、神戸の宮内省御用邸にお越しいただきたいとの連絡をしたところ、皇太子は快諾するも、侍医が強硬に反対し、両者の間で激しいやりとりがあった。理由は「傷が未だ癒えていない」ということであったと言われるが、実際は警備上の心配があってのことであったろう。
これを聞いた天皇は、午餐への招きが皇太子と侍医との争いになっていることを気遣い、この招待を取り消すよう指示した。

ところが話はこれで終わらなかった。
皇太子から「医師の命令で、陛下のご好意にあふれるお招きに応ずることが出来ません。しかし、このまま陛下にお別れのご挨拶もせず日本を去るのは、誠に心残りです。ついては、わが艦でご都合のよい時間に午餐を差し上げたい」との趣旨の電報が送られてきたのである。

側近たちは大慌てであった。
天皇が外国の軍艦に赴くことなど前例がない。ましてや、決して友好関係にあるとは言いがたいロシアの軍艦である。
天皇が乗艦したまま、急に錨をあげて出港するかもしれない・・・
天皇をロシアに連れて行き、とんでもない返還の条件を突きつけてくるかも・・・
それに、天皇は、毒見をした食物のみ口にする定めになっている・・・
ロシアの軍艦に天皇が乗艦することは極めて危険であるということで意見は一致した。
ところが、天皇は一言「ロシア軍艦に行って皇太子殿下をお見舞いし、午餐を共にする」と言った。
午餐は何事も無く和やかな雰囲気の中で終えた。
皇太子は、侍従長を通して日本国民に対して別れの言葉を送った。

天皇をはじめ日本国民が慰問の電報、手紙を寄せ、物品を贈呈してくれたことに深く感動し、感謝する・・・との趣旨であった。
by m-morio | 2008-12-04 10:30 |

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