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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

二冊の本⑥・・・さらに余談を

◇さらに余談を・・
f0020352_11265711.jpg 犯人津田とは対照的に、華やかなスポットライトが当たったのは二人の人力車夫であった。政府から勲章を授与され、年金36円(当時の巡査の初任給が8円であった)をもらい、更にロシアからの年金は莫大な金額(1,000円)で、一時金は2,500円は庶民にとっては想像もできないほどの大金であった。
二人は、ロシア側から一時金などを手渡された際、「心して日常生活をするように」などと多少おせっかいな言葉をかけられていた。では、彼らのその後は・・・・。

一人は、親を郷里から呼び寄せ、子供には学問をさせることにしたのは良しとしても、気持ちが浮き足立って遊興にふけり、妾までかこうという始末であった。さまざまな事業にも手を出したが、日露戦争の勃発もあってロシアからの年金も絶たれた後は落ちぶれ、ついには警察に世話になるような事件も起こし昭和2年に死去している。

 もう一人の車夫であるが、故郷に戻った。大歓迎で迎えられ英雄気分に浸っていた。妻帯し、土地を買い家を建て、読み書きができなかったのでその習得に努めるなど地道な生活態度であった。郡会議員に当選するも、人に騒がれるのを嫌って殆ど議会には出席しなかったという。日露戦争の影響で、周辺の者の態度も変化し、ロシアは敵国であり、そこから年金をもらっているのは国賊であるとまでいわれるようになる。
彼と家族は村八分にされ、大正3年に54歳で死去している。

 皇太子ニコライのその後は・・・
日本を離れてから3年半後の明治27年(1894年)に皇帝アレクサンドル三世が死去し、26歳の皇太子が即位してニコライ二世となった。明治29年5月、モスクワのクレムリン宮殿で戴冠式が行われ、天皇は名代を派遣した。
しかし、日本は清国と戦い勝利し遼東半島、台湾などの割譲を受けるなどその勢いはロシアを刺激し、その国力で圧力をかけ遼東半島の領有に反対し、国力の劣る日本はそれを受けざるを得なかった。ロシアに対する恐怖と憤りは日増しに募り明治37年日本は、ロシア政府に交渉断絶を通告、日露戦争がはじまった。

ロシアが日本に敗れたことで、皇帝の権威は失墜し、専制君主制は崩れ去つたが、皇帝ニコライは依然として専制君主制に強い未練を持ち続けた。
第一次世界大戦がはじまったが、ロシアは軍需品の不足に悩み、社会不安も増大し、革命も本格化した。
大正6年(1917年)ニコライは皇帝の座を追われてロマノフ王朝は崩壊した。同年11月にソビエト政府が成立し、人民委員会議議長にはレーニンが就任し、社会主義革命が成功した。
ニコライ一家は幽閉され、1918年ポリシェビキの一隊に射殺された。ニコライ50歳であった。

偶然にも、今日の朝日のWEBニュースに次のような記事が載った。
 "遺骨、やっぱりニコライ2世だった 米ロ専門家が確認" 2008年12月6日6時43分
 【モスクワ=副島英樹】ロシア・ロマノフ王朝の最後の皇帝ニコライ2世のものとされてきた遺骨が、遺伝子鑑定で「本物」と最終確認された。ロシア検察捜査委員会主催の会議で5日、ロシアと米国の専門家が発表した。エリツィン政権時代に「本物」と認定されて以降も偽物説がくすぶり、確認作業が続いていたが、これで一家7人全員の遺骨が最終的に確認された。

 インタファクス通信などによると、ロシアの専門家は、
「ニコライ2世が皇太子時代に日本を訪問した1891年、大津事件で負傷した際にシャツに残された血痕」と、一家が処刑されたエカテリンブルクで91年に発掘された遺骨のDNAが一致したと述べた。
 また、米国の専門家は、07年に見つかったニコライ2世の長男アレクセイ皇太子の遺骨や、いとこのアンドレイ・ロマノフの遺骨とのDNA比較でも「百%一致するとの結論に達した」と語った。
 皇帝一家はロシア革命翌年の1918年、ソビエト政権に使用人らとともに銃殺された。皇帝が幽閉されていたウラル地方のエカテリンブルクで9体の遺骨が91年に発見され、その後、長男と三女マリアの遺骨が見つかっていた。
 ニコライ2世のものとみられた遺骨は98年、当時のエリツィン大統領主導で歴代皇帝が眠るサンクトペテルブルクに埋葬されたが、一方で偽物説もくすぶり、ロシア正教会は本物と認めてこなかった。
 今回の結果を受けて、検察捜査委員会は、近く調査を終結すると表明。ロシア正教会関係者も「教会内部で協議して判断する」と話している。 TITLE:asahi.com(朝日新聞社):

(完)
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by m-morio | 2008-12-06 11:40 | | Comments(0)