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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

カテゴリ:市民カレッジ( 183 )

今回の統一テーマは「地中海を渡る人々の群れ・・・・・ヨーロッパに向かう難民たち」です。

世界の注目を集めている「難民」の問題です。
この「難民」問題は今日突然に発生したものではありません。
歴史を振り返ると、繰り返し起こっていることであり、その延長線上にあるのです。
「難民」というテーマを通して歴史の一端にふれてみようと思います。


▼難民の移動ルート
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この地図は、2015.08.26付北海道新聞に掲載されたもので、ドイツや英国を目指す「難民」・「移民」の移動ルートを示しています。

 報道されているように、欧州への難民・移民は増加の一途。
地中海を渡りギリシャに入った難民らの主な目的地は、景気の良いドイツや英国。
いったんEUの協定加盟国に入れば自由に移動できる「シェンゲン協定」の玄関口としてハンガリーを目指しています。
ただ、経由しなければならない、マケドニアやセルビアは未加盟国。
そのため難民はハンガリーに集中しています。
対応に苦慮したハンガリーは約175㎞の国境に高さ4mのフェンスを設置しました。

 ドイツのメルケル首相は、かつてのナチスの蛮行の反省から少しでも多くの難民を受け入れようとしますが、さしものドイツも、オーストリアとの国境で、パスポートチェックを始めました。
受け入れ態勢が整うまでの一時的な措置といわれていますが、受け入れを決断した首相の判断に、ドイツ国内で反発の声があるのも事実のようです。
過去の反省を現代に生かすことはなかなか難しいですね。

 さてこの地図を眺めていて、
どうもどこかで見た地図に似ているなあ・・・との思いがあって、過去の講座の資料を捲ってみました。
ありました。下の地図です。
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 これは、池上彰著「そうだったのか 現代史」(集英社 2000年)から転載させていただいた「東ドイツ国民の亡命ルート」です。
20世紀後半、東欧でいち早く民主化を進めたハンガリーは、自国民の逃亡を防ぐために国境に鉄条網を張り巡らせていました。しかし、民主化が進むにつれ、この鉄条網を恥と考え、1989年に鉄条網を撤去しました。
 その結果東ドイツ国民は、自由に行き来できたチェコスロバキア(現在はチェコとスロバキアに分離)に入り、さらにハンガリーへ入国。
ハンガリーに入ってしまえばオーストリアとの国境を遮るものはありません。
多くの東ドイツ国民が、ハンガリー経由で西ドイツに逃げ出しました。
これが「ベルリンの壁」の崩壊(1989年11月)へとつながったのです。
すなわち、ハンガリーの国境開放の決断がドイツの歴史を変えたのです。

このような歴史を持つハンガリーが、多くの難民が自国に入ってくるのを阻止しようとセルビアとの国境に鉄条網を設置したのです。
かつて自国民に国境を開放したハンガリーが、今度は難民の受け入れを阻止しているのです。

歴史を勉強していると、このような「歴史の皮肉」に遭遇することがあります。

追記
言葉の定義
・「難民」
紛争や迫害によって、生命の危機に遭遇し、やむなく他国へ逃避する人々のことで、その主要因は政治的理由によります。
「難民条約」というのがありまして、そこにこの言葉の定義が示されていますが、かなり長いので、わかりやすく簡記するとこんな表現になります。
 なお、「亡命」という言葉がありますが、これは「難民」と同義語ですが、一般的には個人または少数者での場合に使われているようです。
・「移民」…よりよい生活や仕事、教育を求めて他国へ移住する人々で、帰国しても迫害の恐れはない。
その他に
・「国内避難民」と呼ばれる人々がいます。国内に留まって避難状態で危機を回避している人々です。この概念は、国連難民高等弁務官を10年間務めた緒方貞子氏が提示したものと言われています。
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by m-morio | 2015-11-14 15:50 | 市民カレッジ | Comments(0)
今回の受講で私の興味を引いた国がある。
「リベリア」と「ルワンダ」。
その二つの国について簡単に触れて締めくくりとする。

▽リベリア共和国(リベリア)は、特殊な経緯によって建国された。
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即ち、アメリカで解放された黒人奴隷によって建国されたのである。
この建国に力を貸したのが「アメリカ植民地教会」であった。
リベリアの建国は1847年であるが、植民地協会が解放奴隷をモンロビア(現在の首都)に入植させたのは、これから25年も遡る1822年のことであった。
その数、推定で2万人未満ではないかといわれ、この国の人口の1%にも満たなかった。

これらの入植者(自らをアメリコ・ライベリアンと呼んだ)は、直近までアメリカのプランテーションで、賎民として、権利など一つも持たない奴隷として生きてきた。
ほとんど読み書きが出来ず、手には何の職もない。かれらの祖先は、かつてアフリカで拉致され、アメリカに運ばれ、奴隷市場で売られた。

その彼らが、ついこの間まで奴隷だった者たちが、再びアフリカに戻ってきたのである。
植民地教会からは、“自立しなさい” “自ら運命を切り開きなさい” と解放された彼らは、これからどう振舞うのか? 何をすべきなのか? 戸惑うばかりだった。
なぜか? アメリコ・ライベリアンが経験で知っている社会は奴隷制しかない。
従って、新天地に到着して最初にとった行動は、どうようの社会を再現することだった。
キリスト教徒で、英語を自由に操り、アフリカ式の生活スタイルと価値観を持った昨日まで奴隷だった彼らは突然主人となり、そして奴隷は現地の人々だった。
言い換えるならば、彼らの移住は、もともとそこに住んでいたアフリカ人にとっては形を変えた植民地支配であった。

リベリアは、奴隷自身が奴隷制度を引き継いだ。
アメリコ・ライベリアンは、自分たちのみが市民権を有する国民だと宣言した。

こうして二つの社会が出来上がった。
もともとの住民には市民権を与えずに、政治から排除した。
彼らに生存権は与えたが、それも定められた部族居住区でのみだった。
このアメリコ・ライベリアンによる国家運営に対して、土着のアフリカ人の不満は限界に達する。
20世紀半ばころにはリベリア政府に対する反乱が起きだした。
1979年、政府の一方的な施策に抗議して民間人が蜂起。
これをきっかけにリベリアは混乱の度合いを増し、1980年にドエ曹長(クラーン人)が率いる軍のクーデターが起きた。
彼らは、ドルバート大統領をはじめとする旧支配層を大量に処刑して、アメリコ・ライベリアンの支配が根絶された。
その後、国家元首となったドエ大統領も殺害(1990年)され、内戦が続く。
断続的に内戦が勃発していたが、2003年4月頃から政府と反政府勢力との間で戦闘が激化。
同年8月、和平合意が締結され、同10月に移行政府発足。
2006年、アフリカ初の民選女性大統領(ジョンソン・サーリーフ)が誕生。
2011年には、総選挙が実施されサーリーフ大統領が再選された。

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by m-morio | 2014-03-09 15:30 | 市民カレッジ | Comments(0)
Ⅱ アフリカの現状

1 全世界の約5分の1、日本の約80倍という広大な面積を有するアフリカ大陸。
広大な土地に54か国がひしめく状況が、企業のアフリカ進出を難しくしている一因といわれる。
最近のアフリカ大陸内部の動向を眺めてみよう。

 従来のアフリカへの投資は、旧宗主国の英、仏、ポルトガル、ベルギーなどが中心だった。
しかし、近年はBRICSなど新興国が主役の座を占めつつある。
その中でも、特に中国企業の進出が目覚ましい。
54か国のうち英語を公用語とする国が22か国、フランス語も21か国(重複を含む)。
欧州各国による植民地政策華やかなりし頃、海軍が強かった英国が海沿いを抑え、陸軍の強い仏国が陸続きに支配圏を広げた。
かくして、米英の投資は英語圏に、仏国の投資は仏語圏へと向かった。こうした動向は、大陸における隣国同士であっても貿易や交流が途絶し、アフリカ全域の発展を阻む一因となったとされる。
このような過去の経験からすると、現在の言語圏と関係ない中国の投資は国境を越えたアフリカの融合を促す可能性があるといえるのだろう。ブラジルやインドも競り合う。
ただ、これらの新興国は、旧宗主国のように文化、教育を通じた深いつながりがないのが弱点ともいわれる。

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by m-morio | 2014-03-09 13:55 | 市民カレッジ | Comments(0)
2 20世紀以降のアフリカ大陸

▽独立と内部紛争

自由と尊厳を奪われたアフリカに、20世紀半ば、独立の波が押し寄せる。
19世紀以降、アフリカ各地は植民地となった。白人が黒人から土地を奪って低賃金で働かせ、税金を徴収するような搾取が行われた。
19世紀後半には、こうした理不尽な政策に対して抵抗運動が起こっていた。
これらの運動のほとんどが鎮圧されたが、後の独立運動の原動力になっていった。
また、インドやアジア諸国が次々と独立したことも、アフリカの独立意識を後押しした。
 
このような機運を受け、アフリカ諸国は、1957年のガーナを皮切りに、次々と自由を手にしていく。
特に1960年には17カ国が独立を果たし、「アフリカの年」と言われた。

黒人が主権を獲得し、新しい時代がやってきたかに見えたが、アフリカは、この後もさらに苦難の道を歩むことになる。
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独立を果たしたアフリカ諸国だったが、その後数々の紛争が勃発。
中でもナイジェリアでは、「ビアフラ戦争」が起こった。
ナイジェリアは、「イボ」「ハウサ フラニ」「ヨルバ」という三大勢力と、大小250以上の民族で構成されていた。独立後、イボ人の住む地域で石油が発見され、工業化と経済発展が進む。そしてイボ人は、「ビアフラ共和国」 (注)としての分離独立を宣言する。しかし、これを認めないナイジェリア連邦政府との間に内戦が始まる。
さらに大国による軍事援助が行われ、フランスはビアフラを、イギリス・ソ連は連邦政府を支援する。
(注) ビアフラ共和国・・1967年にナイジェリアの南東部に置かれていた東部州が独立宣言したことに伴い樹立されたイボ族を主体とした政権・国家。1967年5月30日から1970年1月15日まで存続した。
大国の代理戦争となったことで、戦争は長期化。
連邦政府による包囲で食糧・物資の供給を絶たれたビアフラは、飢餓に苦しむ。犠牲者200万人のうち、150万人が餓死者と言われる。
当時、世界中でこの戦争が報道され、アフリカ=飢餓・紛争というイメージが世界に広がった原因の一つとなった。
この内戦は、アフリカ共通の根深い苦しみを代弁していた。
植民地時代に列強の都合で引かれた国境線が、部族・民族の間に利害対立を招き、同一の歴史や文化を共有する「国民」が形成されなかったのである。

▽アパルトヘイト
 南アフリカには、大きな別の問題があった。
アパルトヘイトは、1991年までアフリカで行われていた人種に基づく差別政策。
世界中から非難を浴び、国連をして「人道に対する犯罪」とまで言わしめた差別政策が、今からわずか23年前まで続いていた。
政治に参加する権利や職業を選ぶ自由は白人のみに認められ、住む場所も歩く場所も人種によって区別された。異なる人種同士の結婚も・・・。
1948年には、アパルトヘイトが法制化され、差別は強まっていく。
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こうした激しい差別に黒人たちが立ち上がる。
反アパルトヘイト運動の中心に立ったのが、ネルソン・マンデラだった。
マンデラは、1962年に逮捕、投獄。黒人たちの抵抗運動は、マンデラの釈放要求を軸に激しさを増し、度重なる暴動やストライキが行われた。
加えて、世界中から経済制裁を受けた南アフリカでは、アパルトヘイトの撤廃を迫られる。
1990年、マンデラは28年ぶりに釈放。彼は、黒人の支配でもなく白人の支配でもない、平等な国家建設を訴えた。
1991年、アパルトヘイトが全廃され、1994年には黒人を含めた全人種による選挙が初めて行われた。
この選挙で、ネルソン・マンデラを大統領とする、新生南アフリカが誕生した。

 そのマンデラ氏は2013年12月に亡くなった(95歳)が、現在の南アフリカは、政権の腐敗や格差の拡大で揺れている。

(つづく)
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by m-morio | 2014-03-08 12:25 | 市民カレッジ | Comments(0)
9年続いている 「現代史」 の講座を受講した。

今回のテーマ:

「アフリカの時代」は来るか‥‥21世紀を迎えたアフリカ大陸

その講義をまとめみた。

いつものように"受け売り" 。

以下の資料などを参考にした。
・講義の配布資料
・日本経済新聞
・リシャルト・カプシチンスキ著 「黒檀 世界文学全集Ⅲ-02」 河出書房新社
・松本仁一著 「アフリカ・レポート」 岩波新書
・宮本正興 松田素二 編 「新書 アフリカ史」 講談社現代新書
その他

比較的馴染みの薄い地域なので、現在のアフリカ大陸の全図を。
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なんとも広大な大陸である。

この大陸で何が起き、何が問題なのか解きほぐしていきたい。

Ⅰ アフリカ史
1 16~19世紀のアフリカ大陸
大航海時代(注)に入り世界がつながりつつあった頃、ヨーロッパ諸国はアフリカ大陸へもその触手を伸ばし、豊な資源を求めるようになる。
しかも、資源と同時に「人間」までもが商品として大陸から連れ出されてしまった。
(注) 15世紀半ばから17世紀半ばまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸、アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出
16世紀以降、アフリカ大陸は、人・物・土地など全てにおいてヨーロッパ諸国に搾取されることになる。

▽奴隷貿易
アフリカ大陸は、15世紀頃まで、交易によって各地がそれぞれに栄えていた。
15世紀半ばになると多くのヨーロッパ諸国が足を踏み入れ、各地に砦や交易所が築かれた。
特に西岸部は、特産品にちなんで「黄金海岸」「胡椒海岸」「象牙海岸」などという名が付けられた。
中には、「奴隷海岸」という場所も存在した。
アフリカでも以前から、戦争の捕虜や犯罪者が、奴隷として売買されることがあったようだが、ヨーロッパ諸国がアフリカで行った奴隷の取引は、桁違いの規模だった。
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この奴隷貿易は、16世紀、ポルトガルとスペインを初めとしてオランダ、イギリス、フランスなどが西インド諸島や南北アメリカ大陸でヨーロッパ市場向けの広大な農園経営に乗り出し、大量の労働力が必要となった。地元の労働力には限界があった。
そこで浮上したのがアフリカから奴隷を移入するという考えであった。
ヨーロッパでも特に、イギリスは、自国で生産した武器や火薬をアフリカで売り、アフリカ人はそれを使って奴隷を確保した。
奴隷は南北アメリカ大陸や、カリブ海の島々などの植民地へ運ばれ、労働力となった。
このようにして成立した三角貿易が、イギリスに富をもたらし、産業革命を可能にしたといわれている。
しかし、奴隷貿易の裏側の実態は酷いものだった。奴隷運搬船には多くの奴隷が、身動きが出来ないほど積み込まれ、船内は悪臭に満ちていた。病気も蔓延し、病に罹った者や死んだ者は、次々と海へ捨てられた。綿畑や鉱山では、鞭打たれ、拷問が当然のように行われた。
奴隷貿易は「西洋の筋肉になった」と表現されることがあるが、筋肉を提供したアフリカは、骨と皮だけになった。
奴隷貿易は、アフリカを苦しめながら、ヨーロッパ諸国を近代化へ導いた。
18世紀のヨーロッパに広まった自由や平等を主張する啓蒙思想は、奴隷制という非人道的な制度を廃止へと向かわせた。

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by m-morio | 2014-03-07 13:35 | 市民カレッジ | Comments(0)
ブログの更新が滞ること3カ月、いろいろなことが中途半端な状態で日々過ごしています。

やっと更新しようという気になったのは13日(土)のテレビ「世界ふしぎ発見」を観たのがきっかけです。
番組で取り上げたのが「スリランカ」でした。大変興味深く観ました。

このブログでスリランカを取り上げたのは、2006年10月の「スリランカ
当時は、政府とLTTE(タミル・イーラム解放のトラ)との抗争は終結せず、事態は混とんとしていました。
その後どうなったのでしょうか。
この機会に、その後の様子とテレビを通して初めて知ったことなどに触れておくことにします。

▼スリランカの内戦は複雑な背景をもっています。
独立後、シンハラ人優遇政策が進み、タミル語を母語とする人々の生活が徐々に奪われ始め、さらに多数派であるシンハラ人暴徒によるタミル人への襲撃が日常化するなかで、タミル人政治組織の一部は武装するようになっていきます。
1983年7月、北部の都市ジャフナにおいてシンハラ人兵士13名がタミル人によって殺害されたことが発端となって、やがてタミル人武装勢力の一派であるタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)と政府軍との戦闘状態へと拡大していき泥沼の道をたどることになります。
スリランカの歴史を詳細に遡っていくと、内線は単なる政府軍とLTTEとの戦闘のみに終始したわけではないことがあきらかになっていきますが、ここではその詳細は割愛します。
一時はインドが平和維持軍を派遣したものの事態の進展をみることもなく、3年ほどで撤退しています。

その後は政府軍とLTTEとの間の戦闘が激化しますが、その間何度も和平に向けた交渉が行われ、休戦協定の可能性もあったものの、それらは実を結ぶことはありませんでした。
戦闘は北部や東部だけではなく、全土で自爆テロが多発し、多くの人々が犠牲になりました。
北部や東部での絶え間ない戦闘、どこで起きるか分からない自爆テロの恐怖が日常化しているにもかかわらず、非戦闘地帯である中部や南部では外国からの援助を受けた大規模な開発がすすめられ、国内において地域格差は広がっていきました。

内戦の長期化の要因は、タミル人が多く居住する北部と東部に一定の分権や自治権を認めることに対するシンハラ人側の抵抗や嫌悪と、LTTEの分離独立要求とが最終的な解決に至らなかったことにあるようです。
2002年2月にノルウエーが仲介して停戦協定が結ばれ、2003年1月、両者が出席する「スリランカの復興開発に関する東京会議」が日本で開催されたりはしたものの、結局は歩み寄りもなく、政府軍はLTTEに攻勢をかけ、2007年には東部を制圧。

このころからLTTEは内部分裂し、政府軍と手を結ぶ一派もあらわれ、弱体化し、さらに欧米諸国からの非難にもさらされていきます。
2008年1月には、政府軍は停戦協定を破棄して総攻撃を加えていきます。
LTTEは本拠地であるキリノッチを放棄して逃走し、20万人近い市民を「人間の盾」にして東北部のムラティウに立てこもります。
しかし、完全に弱体化したLTTEは政府軍の総攻撃で崩壊し、内戦は2009年5月に「終結」しました。
しかし、この間に何度も試みられた停戦交渉の失敗、国際社会の無関心、多額の政府間援助による一部地域の開発、内戦の長期化に伴う文化・宗教に対する認識の変化など諸々の問題をかかえたまま内戦後の歩みを始めています。
本当の平和はまだまだ先のようです。

▼その内戦が終結した4年後の現状を取材したのが「世界ふしぎ発見」でした。
ご承知のように、この番組は世界中のあらゆる国々を訪れ、その歴史・景観・宗教・民族などを報告してくれるので、ほぼ欠かさず見ている番組です。
この日は75分の拡大版だったので、内容は盛りだくさんでした。
■スリランカの東海岸はスリランカ内戦により立ち入りが制限されていたが、現在は一大リゾートとしようと急ピッチで開発が進められている。またガルオヤ国立公園の湖では40年前に謎の生物が目撃されている。この謎を解明すべくミステリーハンターが動く。
捜索開始から3日目、湖に泳ぐ生物を発見した。なんと湖を泳いで渡る象の姿でした。
また

■スリランカの北部は未知なる場所とされていて、スリランカ内戦が終わって今も検閲所が設置されている。
北部に向かう途中、ヒンズー教の儀式で願いを叶った感謝を込めて苦行を行う教徒がいた。目的地のジャフナにはオランダ統治時代や内戦の名残が残されていて、修復中のジャフナ要塞は空から見ると五稜郭のような形状となっている。またマナー橋はスリランカと日本の建設によるもので、当時は内戦中だった。

■第二次世界大戦後のサンフランシスコ講和会議において、敗戦国となった日本は多くの国から莫大な賠償を求められ、日本列島の分割案が出されていた。
その時、後に大統領となるスリランカ代表ジャヤワルダ氏が、ブッタの教えを引用した演説で「憎しみは憎しみによって止むことはなく、慈愛によって止む」と、日本を擁護し独立を支持する演説を行ったことによって会議は急展開し、列島の分割を免れ日本の戦後復興につながったという逸話が紹介されました。また、当時の吉田茂首相は「我が国日本は、後世までこの大恩を忘れてはならない」と言ったといわれていますが、残念なことに、今、この逸話を知る日本人は皆無に近くなっているようです。
勿論、わたしも初めて耳にしたことでした。

スリランカは、今秋の講座でインドが取り上げられる際にまた登場するはずです。
民族闘争が一応の収束をみた後の今後の展望などを学ぶことができると思います。
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by m-morio | 2013-07-25 14:30 | 市民カレッジ | Comments(0)
エジプトは、いまムスリム同胞団出身のモルシ大統領が、その政治体制の確立に難渋している。
▼経過をまとめると・・・
2011.01.25 各地でムバラク大統領の退陣を求めるデモ
2011.02.11 ムバラク大統領辞任。軍政暫定統治開始
2012.01.21 人民議会(国会)選挙。イスラム勢力が議席の7割を獲得
2012.06.02 ムバラク前大統領に一審で終身刑の判決
2012.06.17 軍政が人民議会を解散、自らに立法権を与える改正憲法令
2012.06.30 モルシ大統領が就任
2012.08.12 大統領が軍政トップの国防相を兼任。軍政から立法権奪還
2012.12.05 新憲法案の賛否両派が衝突。7人死亡。
2012.12.25 新憲法が成立
2013.01.13 ムバラク前大統領の裁判やり直し決定
2013.01.26 ポートサイド暴動の判決(サッカー場で71人が死亡した事件の被告21人に死刑判決。
2013.01.27 反政府デモ多発を受け、スエズ、イスマイリア、ポートサイドの3都市に非常事態宣言
2013.03.07 選挙管理委員会は、4月22日から予定されていた人民議会(国会)選の実施を取りやめることを決めた。議会選は昨年12月に制定された新憲法に基づいて実施されることになったが、政府が成立を目指した選挙法について最高憲法裁は今年2月、一部を違憲と判断。政権側が選挙法を部分的に修正していた。
2013.04.09 首都カイロなどで5~7日、イスラム教徒とキリスト教徒が衝突し、8人が死亡した。

▼政変後2年・・・何を求めるのか
 約30年続いた軍事独裁のムバラク大統領を18日間で退陣に追い込んだのが2011年2月11日。
同年11月の人民会議選でのイスラム政党の躍進を受け、12年6月には「ムスリム同胞団」出身のモルシ大統領が誕生した。彼らの目標は、イスラムの教えに基づくり国づくりである。
「民主革命」と言われた政変から2年。
エジプト社会は分裂し、大きな溝ができ混乱の最中にある。
すなわち、「新しい国づくりの主導権を握ったイスラム勢力」と「ムバラク政権を倒す原動力となった都会の世俗的な若者たちや野党勢力」などとの間の深刻な対立である。
若者たちは「こんなはずではなかった」との思いが強い。

理由のひとつは、
モルシ政権のもと、政治のイスラム化が進んでいることやモルシ大統領の政治手法に対する反発である。
国づくりの設計図ともいえる新憲法がイスラム勢力主導で作られ、反対派の言い分に耳を貸さずに、強引に制定しまったこと。
また、デモが拡大した3都市に、非常事態宣言を出し、治安部隊がデモを鎮圧したこと。
こうしたやり方は、ムバラク時代とまるで変わらないという批判が出ている。
野党勢力は、
・イスラム色の強い新憲法を修正すること
・「挙国一致内閣」をつくること
を要求している。

もうひとつは
政変の原因になった経済や社会の問題が、何も解決されていないこと。
外貨準備高が、危機的な水準に落ち込んでいるため、現地通貨のエジプトポンドが下落し、輸入品を中心に、物価が高騰している。
雇用の場もますます失われ、失業に苦しむ若者たちの不満は限界を超えている。
政治の混乱が、治安の悪化を招き、経済も悪くなるという悪循環になっている。
国際通貨基金(IMF)から48億ドル(約4400億円)の支援を受ける交渉も難航している。
最大の焦点は「財政赤字の改善」で、支出の2割以上を占める補助金改革や増税が必須といわれているが、低所得層の反発を恐れ、政府は改革に及び腰だ。
隣国リビアから大量の武器が流入する中、暴力のエスカレートも懸念される。
国の安定には相当の年月がかかると予想されている。

▼4月に入って、国民の9割を占めるイスラム教徒内で、モルシ大統領らイスラム勢力に対し、政教分離を求める世俗リベラル勢力の反発が強まる中、この度は、異教徒との対立も激化した。
警察に暴動を抑える力はなく、衝突が拡大する恐れもある。
経済危機により庶民の怒りは募っている上に密輸武器が蔓延しており、さまざまな対立軸による衝突が先鋭化する恐れもある。

▼先日の「現代史」講座の懇話会に参加した。
わずか6名の参加だったが、それぞれの参加者の「アラブの春」に係る受け止め方・考え方が披露され、意義ある時間を共有できた。
その中で、講師から「アラブの春」の成功とは?との質問を受けた。
私が、「アラブの春」が成功裏に収束するか否かの結論はまだ先のこと・・・・という趣旨の発言をしたことによる反問だった。
不用意に使った言葉尻をとらえられた格好だ。
確たる定義を持っていたわけでもない。
とっさに浮かんだのが、エジプトの現状。

エジプトは、この危機を乗り越えることができるのだろうか。
チュニジアなどこの地域では、イスラム教徒が、人口の大多数だから、民主化が「政治のイスラム化」に結びつくのは、宿命と言えるのかもしれない。
しかし、イスラム勢力に属さない人々は取り残され、失業、汚職、格差、人権などの問題が放置され、反政府運動の背景になっている。
危機を乗り越えるためには、イスラム勢力に属さない人々の立場に配慮し、できるだけ国づくりに参加させてゆくこと。
そして、国民の多くが「暮らしがいくらかよくなった」と実感できるようにすることが、カギを握っているのだろう。さらに、政権が安定しなければ何も始まらない。
・・・・・との趣旨で語ったのだが、はたして的を得ていたのか?

▼箇条書きに、歴史を遡っておく。
イスラーム原理主義とは、西欧的な近代化をムスリムの堕落とし、ムハンマドの教えに立ち返ってイスラーム世界を再生しようとする考え方。
共産主義や社会主義に失望した貧困層を中心に支持を拡大し、イラン革命(1979)を機に最高潮に達した。
現在、欧米主導の中東和平に反対してテロ活動を展開する勢力もある。
その後の世界の動きに注目すると、
・1979年、ソ連のアフガニスタン侵攻(親ソ連政権を守るため進駐)
・1980年、国境をめぐって、革命後のイランにイラクが侵攻し、イラン・イラク戦争勃発
・1981年、ジハード団によるエジプト・サダト大統領暗殺事件
イスラエルとの和平問題で、1978年、アメリカのジミー・カーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デービッド合意にこぎつけ、1979年には両国間に平和条約が結ばれた。
このエジプト=イスラエル単独和平は「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、アラブ諸国とイスラム教徒は第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中に、イスラム復興主義過激派のジハード団に所属するハリド・イスランブリ中尉によって暗殺された。
・1990年、湾岸戦争(イラクのクェート侵攻)
・1990年、ソ連崩壊
・1998年、インドネシアで、スハルト政権の終焉と前後して、イスラーム主義の諸政党が姿を現した
・2001年、同時多発テロ。イスラム原理主義組織の暴挙。
・2011年、アラブの春・・長期独裁政権への反旗。 民主化運動。
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by m-morio | 2013-04-28 14:00 | 市民カレッジ | Comments(0)
手元に二冊の本があります。
①「これからどうなる」~日本・世界・21世紀~ (岩波書店編集部編1983年)
②「これからどうなる21」~予測・主張・夢~ (岩波書店編集部編2000年)
です。

突然、余り馴染みのない書名を掲げました。
実は、今受講している「現代史」の講座で、講師の先生が紹介してくださったもので、一寸興味をくすぐられましたので、図書館から借り出してきました。f0020352_14571197.jpg

①は、ちょうど30年前の1983年に発行された本です。
この年が、岩波書店創立70年にあたるのを機に、各分野の専門家578名を選び出し、それぞれの方に「例えば」という前提で個別にテーマを設定願い、「200字×6枚」として、アンケート方式で発言を要請し、446名の方々が21世紀に向けて、社会のそれぞれの分野がどう変わるか、どうあったらよいかを論じたものです。

②は、21世紀を目前にして、多くの人々が「これからどうなるのだろうか?」という素朴な問いを持ったであろうと想像し、241名の方々が、多様・多彩なテーマで、不安や期待や希望まで記しています。

個々の文章は1200字程度ですが、如何せん700を超えるボリュウムです。
すべてのテーマに興味があるわけでもありません。
そこで、目次から、「原発問題」に触れている項目を探してみました。
30年前の①には該当する記載は見つかりませんでしたが、②に「原発震災」を回避できるか? (著者: 石橋克彦氏) が目に留まりましたので取り上げます。
執筆された時期は、発行年から考えると1999年でしょう。

注目すべき意見が掲載されていましたので
まず、その概略を・・・・・

「21世紀には阪神・淡路を上回る大地震が何度か覚悟しなければならないが、それよりおそろしいのは「原発震災」である。
大地震によって原子力発電所が大事故を起こし、通常の震災と放射能災害とが複合・増幅し合う巨大災害で、日本を壊滅に追い込みかねない。」

「16の商業用原発があり、51基の大型原子炉が稼働している。
政府や電力会社は、原発の耐震安全性は耐震設計指針で保証されているから絶対に大丈夫だという。
しかし、地震学の目からみると、肝心の地震と地殻動と地震動(地震の揺れ)の想定がきわめて不十分で、原発震災は現実的で脅威である。」

・・・と説いています。

さらに、
「1960~70年代に造られた多くの原発が、大地震に直撃されやすい場所に立地している。」
「活断層の上には原発は作らないからM7級の直下型地震は起こらないとして、直下地震はM6.5を考慮すればよいとされているが、活断層がなくても直下のM7級の大地震が起こり得ることは、今や地震科学の常識である。」

「日本中のどの原発も、想定外の激しい地震動に襲われる可能性がある。
その場合には、いちばん丈夫なはずの最重要部分を含めて多くの機器・配管系が同時に損傷したり、多重の安全装置が複合故障したりする恐れがつよい。
その結果、最悪の場合、核暴走や炉心溶融という、「過酷事故」が起こって、炉心の莫大な放射性物質が原発の外に放出され、チェルノブイリ級かそれを上回る放射能災害が生じてしまうだろう。」

「震災地の救援・復旧が放射能のために不可能になるとともに、原発の事故処理や近隣住民の避難も困難を極める。震災地は放棄され、多数の命が見殺しにされて、周辺の膨大な人々も避難しなければならない。」

最後に、
「日本列島の地震現象と人間の技術を虚心にみつめれば、ここで51基もの大型原子炉を運転しているのは狂気の沙汰ともいえる。」

「ところが、驚くべくことに、地震列島・原発列島の住民のほとんどがこの破局的可能性について何も知らず、その結果、原発震災を防ぐ手だてはまったく考えられていない。21世紀に未来の光が射すためには、どうしても原発震災を回避しなければならない。」

「そのためには、社会の価値観の大転換と、政治・経済・社会システムの根底的な変革が必要である。
それができれば、単に原発震災が回避できるだけではなく、21世紀の人類の最大課題である持続可能な文明の創造に、日本も貢献できるだろう。」

と結んでいます。

[付記]として、発行元が次のように追記しています。
「本稿脱稿後の1999年9月30日に、茨城県東海村の民間施設で臨界事故が発生し、わが国の原子力事故で最大の被害を生じた。
これは地震が原因でもないが、原子力の本質的な怖さをあらためてはっきり示し、ここに書いた問題にも大きな教訓を与える。
ところが、今後は最悪の事故を想定してリスクを明示すべしといわれる一方で、政府もメディアも、原発並みの安全対策をとっていれば大丈夫ということを強調し、真のリスクがますます隠ぺいされようとしている。
眼前のことにしか考えが及ばない日本社会の体質は、阪神大震災から本当の地震対策を汲み取らなかったときと同じである。
未来を切り開くためには、真実を洞察しなければならない。」

著者は、
本書での記載で、大地震によって原発が炉心溶融事故を起こし、地震災害と放射能汚染の被害が複合的に絡み合う災害を「原発震災」と名付けて警鐘を鳴らしました。
以後、原発依存からの段階的な脱却、高レベル放射性廃棄物の地層処分を、地震が多い日本国内で実施する計画に関する懸念などを一貫して主張し続けています。
残念なことに、「原発震災」への懸念は、2011年の東日本大震災で引き起こされた福島第一原子力発電所事故で現実のものとなってしまいました。
最近発行された著書に「原発を終わらせる」(岩波新書 2011年7月) があります。
・・・・・1944年神奈川県生まれ。1973年東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。
現在 神戸大学名誉教授


 福島第一原子力発電所の事故原因が、地震なのか、津波なのか、それらの複合によるものか、現時点では明確ではありません。
一方、規制委は一部の原発立地地域に活断層の存在を指摘し、今後さらに調査を進める意向です。

折りしも、
内閣府の専門家作業部会は、南海トラフが起こすかもしれない日本列島へ与える影響について試算を公表しました。その被害予想額は220兆円を超えるものでした。
ただし、これには同時に起こり得る原発事故(原発震災)による被害について「あまりにも甚大で、予想もつかない」としています。

予想がつかないほど甚大な被害をもたらすかも知れない地震国日本列島の海岸線を取り巻いて50基もの原発が林立しています。
背筋が寒くなりませんか。


さて、地震専門家が(一部の人とはいえ)ここまで注意を喚起し、警鐘を鳴らしていても、聞こえてか否か、原発の再稼働を認め、民主党政権の「原発ゼロ方針」を見直そうという安倍政権の行動は、まさに「狂気の沙汰」なのではないでしょうか。
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by m-morio | 2013-03-22 15:02 | 市民カレッジ | Comments(0)
政権が交代した。
新政権の動向で注意深く見守っていかなければならなのは、やはり「原発・エネルギー政策」だ。
野田政権は、12年9月に「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す新しいエネルギー戦略をつくった。
内容にはあいまいさはあったにせよ、脱原発のタイミングを具体的に示した意義はあったのだろう。
残念(?)ながら、その行く末を見定めずに、政権は挫折した。

▼脱原発問題で、自民党は、「軽々に(原発)ゼロにするとは言わない」とし、「今後10年以内に最適な電源構成を確立する」との公約を掲げた。
安倍晋三首相は12年12月30日のTBS番組で、                                     原子力発電所の新増設に関して                                          
「新たにつくっていく原発は、40年前の古いもの、事故を起こした東京電力福島第1原発とは全然違う。何が違うのかについて国民的な理解を得ながら、新規につくっていくことになる」             
と前向きな姿勢を示した。

何か勘違いしていないのか。今停止している原発の大半が"古いもの"との認識なら、再稼働などできるはずもない。

新政権の出発後1か月で、”原発維持・推進”の方向に舵を切ったと思わせる首相・大臣の発言が伝えられるのにも驚かされる。
自民党の公約に「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立」とも謳っているのだが、今一つ方向性が見えない。

▼少し振り返ってみると、昨年夏、エネルギー政策に関して”国民的議論”が行われた。
当時の政権が示した「2030年時点での原発比率を0%、15%、20~25%」の3点に絞った叩き台で実施された。
実質的な議論に充てられた時間は2か月程度と短く、意見聴取会や意見募集、参加者の選定などにおいてさまざまな不備も指摘された。国民的議論というには不十分さ、拙速さが目立ったものだった。
しかし、多少の難があったにせよ、国民の大勢の意見が”脱原発”にあったのはまぎれもない事実なのではなかろうか。

そんな背景を知ってか知らずか(?)、耳をふさいでいるのか(?)、政権が変われば政策も変わるのは当然といわんばかりだ。

▼1月28日の安倍総理の「所信表明演説」では、原発問題にはTPPとともに触れられなかった。
今夏の参院選を意識してのことなのか。総理は、後日行われる「施政方針演説」との重複を避けたといっているらしいが、選挙を念頭において、敢えて避けたとも受け止められる。
脱原発やTPP問題は、前政権からの継続案件だ。
火種だからといって避けて通れる問題でない。避ければ避けるほど、国民は”原発維持”へ舵を切るのだと思ってしまう。
経済政策が大事なのはわかる。
しかし、福島第1原発の廃炉は長期間を要する見通しだ。
被災地の復興は迅速に進んでいる様子はない。
放射能の除染も、汚染物の処理問題も含め難航している。
1月30日、安倍総理は、衆院本会議で、2030年代に原発稼働ゼロを目指すとした野田前政権の「革新的エネルギー・環境戦略」について、「ゼロベースで見直し、責任あるエネルギー政策を構築する」と述べ、全面的に見直す考えを表明した。

前政権の打ち出した方針などを白紙に戻すというのだ。
首相は、「原発依存度を低減させていく」とし、「いかなる事態でも国民生活や経済活動に支障がないよう、エネルギー需給の安定に万全を期す」と強調した。

▼脱原発の機運はしぼみつつある。
これは、福島の事故の恐怖を忘れたということである。
新しいエネルギー政策は、今年の夏に決定することになっている。
原子力規制委員会は、再稼働の安全基準作りの最中だ。
難題として”活断層”の問題が浮上している。
安全基準はかなり厳しいものになるらしいとの報道もある。
まだ紆余曲折があるのだろう。

未定であったり、曖昧のままになっている事柄も多い。
・先の総選挙が”違憲”だとの訴えが全国各地で提起されている
・再稼働是非の判断は、規制委がするのか政府かも明らかでない
・規制委の委員の国会承認も未済だ

経済産業相は1月17日、
建設中の大間原発など着工済みの原発について「建設を進めることに全く問題ない」(規制委による安全性の確認が前提となる)と語り、核燃料サイクル政策に関しては「政策の意義は今後も変わらない」と堅持する考えを示した。

使用済み核燃料を再利用しようという「核燃料サイクル」を推進しようとしている。
その中核となる再処理工場は今年10月に完成するというが、規制委の安全基準がまだ確定前の今、その条件をクリアできるのかも分からない。
そして、「高レベル放射性廃棄物」いわゆる「核のごみ」の処理をどうしようとしているのか? 
保管方法、保管場所も全く決まっていない。
特に、保管場所については、日本だけのの問題ではなく、米欧の原発推進国においても全く同様だ。(フィンランドだけが唯一設置作業中)
この核のごみの処分場が決まらないまま、多くの国が原発を稼働し、増設を計画している。

1月30日、英の州議会では、最終処分場の候補地となっていた場所に処分場建設計画の是非を問う採決が行われ、否決された。
英政府は、「原発を今後も新設するという方針は変えない。ほかの自治体が候補地に名乗り出てくれるよう働きかけていく」としている。
英の動向は、現在の最終処分場の現実を象徴している。

「核のごみ」の問題を避けて"原発問題"語ることはできない。
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by m-morio | 2013-02-02 15:07 | 市民カレッジ | Comments(0)
1 廃炉とは
老朽化などで使えなくなった原子炉を安全に解体、撤去すること。
使えるか否かの判断は電力会社が行う。正式には「廃止措置」といわれ、法律で手続きが決まっている。
ただし、後述する福島第1原発の場合は事故による原子炉の廃炉となり、事態を深刻にしている。
    
  
   図1
   
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   図2
   
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注)「経過年」・・・運転開始から2011年3月まで
「新型転換炉」・・・核燃料の多様性を求めて日本で開発された原子炉形式の一つ。
将来の発展が期待され、旧動力炉・核燃料開発事業団(動燃)が中心に実用化を目指して開発が続けられていた。

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by m-morio | 2012-11-03 19:17 | 市民カレッジ | Comments(0)