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日々雑感を記録します

カテゴリ:市民カレッジ( 183 )

▼ハンガリーにおけるソ連共産党の独裁体制f0020352_13502720.gif
 ハンガリーの戦後史は、スターリン体制に飲み込まれていく過程とそれに抵抗を続けた人々の歴史であった。
ハンガリーで共産党が独裁体制を確立していく過程は4つのステージに分けられる。

第1ステージ:
 1944年ハンガリーの東半分をソ連が占領してから1945年11月第一回国民議会の選挙が実施されるまで。

共産党は、選挙で第1党になるべく土地の改革や大企業の国有化などの政策面で国民の支持を得ようとする。
しかし、国民は、ナチスの支配から解放してくれたソ連とそれに裏打ちされた共産党の力を認めながらも、国の政権を担う党として共産党に投票した人は少なかった。

第2ステージ:
 1945年の総選挙で共産党が小農業者党に大敗してから1947年8月の第二回総選挙まで。
共産党が、第1党の小農業者党をつぶして権力を奪う課程。

1945年4月、ソ連軍はハンガリーからナチス勢力を追放した。ハンガリーの人々は、ソ連軍の侵攻はナチスからの解放と受け止めていた。
政府が真っ先に手をつけたのが、大地主の土地を貧農や農業労働者に分け与えるという「土地改革」だった。ただ、一部の人々が不安に思ったのは、この施策は共産党が推し進めたことであった。
ソ連軍に対する恐怖心は常に人々の心に留まっていた。なにしろハンガリーはそれまで枢軸国側に属していたのであり、ソ連と戦って数多くのハンガリー人が死んでいた。
ナチス・ドイツからの解放とはいえ、ハンガリー人にとってソ連軍は占領軍であった。

1945年11月、ハンガリーではじめての自由投票による総選挙が実施された。
共産党は、これまでの農地改革や労働者の地位向上といった成果によって、民衆の支持を得られるだろうと考えていた。共産党の最大のライバルは小農業者党だった。国民の大半を占める農民に支持された小農業者党は一大勢力であった。選挙の結果は小農業者党の大勝利だった。小農業者党は単独で内閣を組織できる議席を獲得した。
しかし、小農業者党は単独で内閣をつくれなかった。共産党が連立政権にすることを強く要求したのである。
小農業者党と共産党との間で激しい対立と政治駆け引きが繰り広げられた。
敗戦国であったハンガリーには、ソ連軍が占領軍として駐留し睨みをきかしていた。
共産党は、ソ連駐留軍の支持と掌握した警察権力を使ったありとあらゆる謀略によって、小農業者党を壊滅状態にした。

第3ステージ:
 1947年8月から1949年の第三回総選挙まで。

この選挙はもう自由選挙とはいえなかった。ライバル小農業者党を追い落とし、第1党の座を確保した共産党は、残りの政党を廃止し、弱体化させていく。これまで共同歩調をとってきた社会民主党を吸収し、共産党独裁体制が完成する。
その後、ハンガリーでは自由な投票による選挙は行われなかった。1949年の選挙は、候補者の統一名簿を共産党がつくり、国民はそれを追認するだけのものになってしまった。

第4ステージ:
 その後スターリンが死ぬまで(1953年)。

共産党の内部でさらに独裁が進み、異分子を粛清して、個人独裁が完成する過程。

まさにソ連でスターリンが敷いた恐怖体制がハンガリーでも完成する。
自由選挙が行われたのは、1990年、43年ぶりであった。この選挙で、共産党そのものが解体した。その後継者たちは党の名前をかえて社会党をつくったが、それも5番目の勢力に転落し、野党に下った。

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by m-morio | 2011-12-13 13:53 | 市民カレッジ | Comments(0)
東ヨーロッパの旅は、どんどん進んで、先月最終回を終えました。
ポーランド⇒チェコ・スロバキア⇒ハンガリー⇒オーストリア
そして、これらの国々を取り囲む国ロシアとドイツの旅でした。

 1989年の冷戦終結に伴って、ソ連の衛星国であった東ヨーロッパ諸国で、共産党国家が連続して倒されるという、いわゆる東欧革命が始まり、ワルシャワ条約機構(1955年、ワルシャワ条約に基づきソ連を盟主として東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟)は1991年3月に軍事機構を廃止、7月1日に正式解散、12月末にはソ連が崩壊するという過程を辿ることになりました。

 今回巡った国々はそれぞれに西からはドイツに、東からはソ連に侵略されその国境線はしばしば変更されました。
ただ、オーストリアだけは、米英仏ソによって分割占領され、首都ウイーンも四カ国の管理下におかれながらも、領土を確保し、「中立国」への道を辿ることになります。

最終回は、例によって映画(DVD)で「第三の男」をちょとだけ見ながら、映画の舞台になったウイーンの歴史的背景などを勉強しました。
この映画は、昨年、午前10時の映画祭で観ましたが、この日の講義で知った歴史的背景を承知していたならば、また別の楽しみ方があったかなぁと感じた次第です。
それはともかくとしまして、ドイツとソ連に翻弄された国の代表として、ハンガリーに注目してみました。
ハンガリーといえば、やはり「ハンガリー動乱」。
長い歴史の中のほんの一瞬の出来事かも知れませんが、ソ連共産党の過酷な粛清の一端を覗いてみることにします。

 ハンガリーは2004年にEUの加盟した。EUへの加盟は、当時のハンガリー経済にとって追い風になった。
しかしその後、インフレと失業率が増加して貧富の差が広がり、社会問題として常態化した。
また巨額の財政赤字も重要な課題。

最近の様子は・・と言えば

ユーロ圏の南欧諸国を襲う債務危機の影響が、欧州で比較的成長率の高かった中・東欧の国々に広がっている。
通貨安に悩むハンガリーは国際通貨基金(IMF)に新たな協調策の協議を申し入れた。 
自己資本比率の引き上げに苦しむ西欧系銀行による貸し渋りが広がることも懸念されている。  
ハンガリー国家経済省は11月18日、IMFや欧州連合(EU)との協議開始を表明する声明を出した。
オルバン首相は地元ラジオで「経済の自立を損ねない新たな保険のようなもの」と説明したが、IMFなどの態度はまだ不明だ。 ハンガリーは2008年の中・東欧危機でIMFの融資を受けた。10年に支援は終了したものの、最近は南欧危機の広がりで混乱が再燃。  
通貨フォリントは6月末に比べて対ドルで一時、4分の1以上も下落した。
同国国債の格付けは「投資不適格」とされる水準まであと1段階。米格付け会社が格下げ方向での見直しを表明すると、フォリントは(11月)14日に対ユーロで最安値を更新した。IMFとの協議には格下げ阻止の狙いも指摘されるが、無条件での支援の実現には懐疑的な見方が多い。
・・・・11月20日付 日経

といった状況で、欧州危機はEU圏内でも小国のハンガリーを直撃している。

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by m-morio | 2011-12-12 13:08 | 市民カレッジ | Comments(0)
▼「モンゴルで核処分場計画」のその後

東ヨーロッパを少しお休みして、原発関連を。。。

7月にこんな趣旨のことを書いた。

使用済み核燃料などを貯蔵・処分する場所をモンゴルに建設するという構想がある。
原発用のウラン燃料の供給や使用済み核燃料の処分を国際的枠組みで一括して行う構想である。

大筋は
→モンゴルで産出するウランで核燃料を製造
→その燃料を新規原発導入国などに輸出
→導入国では、日米が提供した軽水炉で使用
→使用済み核燃料はモンゴルの処分場が引き取る
ということだ。

原発先進国は、その技術を新興国に売り込みたい。
しかし、新たに原発を導入しようとする国にとっての課題は
①ウラン燃料の調達・濃縮・加工 
②使用済み核燃料なと「核のごみ」の処分
である。

これらの課題を一括して解決しようというのが今回の構想。
米国、モンゴル、日本が水面下で検討してきたことが、先般表面化した。
強い毒性を持つ「核のごみ」の処分は原発保有国にとって最も厄介な問題だ。
地中深く埋め、10万年単位ともいわれる気の遠くなる年月をかけて監視しなければならない。                                                                
モンゴルは、これまで原発とは無縁の暮らしをしてきた。
この国の人々に、原発国の「核のごみ」を押しつけるのはいかがなものか。
日本の原子力発電の技術を輸出できるのだから、モンゴルがいいといえば「よし」という問題でもない。


・・・・と。

最近、毎日新聞にこんな記事が載った。
モンゴル政府は、
国内で反対運動が高まり、計画継続は不可能と判断し、計画を断念すると9月下旬に決定し、日本政府など関係者に伝えたとのこと。

この計画が一部報道された(毎日新聞が5月にスクープした)際は、モンゴル政府は公式には交渉の存在を否定してきた。
しかし、その事実が表面化し、モンゴル国内で市民が反発を強め、計画撤廃となったようだ。

モンゴルでは、この計画に関与した関係者を更迭するなどの処置をとったという。
日本政府は、福島原発事故の処理に忙殺されたほか世論の反発もあり、交渉継続は難しいと考え、米エネルギー省にその旨伝えたようである。

報道では「(日本)国内の世論が反発」と載せていた。
7月以降このモンゴルに関する記事などお目にかかっていないような気がするするのだが。。。。。。
私が見落としたのだろうか。

米国主導の計画を、水面下で“こそこそと“声を潜めて話し合う” 協議に、わが国がかかわっていたという現実に、寂しさを禁じえない!!!

いずれにせよ、モンゴル政府の計画断念は“当然の結果”なのではなかろうか。

それにしても、わが国政府の原発に対する考え方・方針はどうなっているのだろう。

野田総理は、就任当初、菅前政権が掲げた「脱原発依存」も継承する考えを示していた。
ところが、
先の、国連総会で、「海外への原発輸出を維持する方針」を打ち出した。
さらに、枝野幸男経済産業相は、先日、パリを訪問中、トルコのエネルギー天然資源相と会談し、昨年12月に日本が受注の優先交渉権を獲得したトルコの原発建設計画について、交渉の継続を要請したという。

海外で増やし、国内で減らすという原発政策の”ダブル基準”に国民は混乱している。
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by m-morio | 2011-10-23 19:54 | 市民カレッジ | Comments(0)
「チェコ」という国といえば・・・
私の年代の方は、「チェコスロバキア」じぁないの?・・・と思われる方が少なくないのではなかろうか。
若い人たちは、違うよ! チェコとスロバキアは別の国ジャン・・というだろう。

この両国は私にとっては、なじみが薄い国です。
スロバキアについては、既に若干ですが触れたので、今回は「チェコ」を訪れてみたいのですが・・・・
といっても、頭に浮かぶのは 首都が プラハ ということぐらい。

「ブラハ」→オバマ大統領の「プラハの演説」→「プラハの春」を連想する程度のこと。

そこで、講義で配布された資料などを参考にして隙間を埋めることにする。

チェコスロバキアの略史

1918年10月 チェコスロバキア国がオーストリアーハンガリー帝国から独立
1918年11月 チェコスロバキア共和国に改称
1939年 3月 スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に
1945年 4月 チェコスロバキア共和国再建
1945年 6月 ルテニア地方をソ連へ割譲(現在はウクライナ領)
1960年 7月 チェコスロバキア社会主義共和国に改称
1990年 3月 チェコスロバキア連邦共和国(チェコースロバキア連邦共和国)に改称
1990年 4月 チェコ及びスロバキア連邦共和国に改称
1993年 1月 チェコ共和国とスロバキア共和国に分離し、消滅

即ち、チェコスロバキア→チェコスロバキア共和国→(消滅)→チェコスロバキア共和国→ チェコスロバキア社会主義共和国→チェコスロバキア連邦共和国→チェコおよびスロバキア連邦共和国 に分離
という過程を経ている。

▼「プラハの春」

チェコスロバキアにおいては、1948年のクーデター後、20年間、共産党の一党独裁が続いた。
東欧諸国の中でも、チェコスロバキアは「社会主義の優等生」といわれ、ソ連に最も忠実な国であった。
1960年代に入ると、社会主義経済の歪が噴出しだした。
経済の低迷状態に加え、自由を圧殺してきた共産党の独裁体制に対し、国民の不満は次第に高まっていった。
第一書記と大統領を兼務したノヴォトニーは、強大な権力を使って、不満の押さえ込みに躍起になっていた。
ノヴォトニーの独裁政治に対する疑問が党員の間に広がり、改革派が台頭していく。

1968年1月、アレクサンデル・ドゥプチェクが改革派の期待を担ってチェコスロバキア共産党第一書記に就任する。
ドゥプチェク第一書記は、思い切った改革に踏み切った。
まず実行したのが言論・報道の自由だ。検閲制度は廃止され、マスコミは一斉に自由な活動を始め、人々は、はじめて政治の動きを知ることとなった。
改革は、これに留まらず共産党役員の改選・軍の人事異動など矢継ぎ早に実行された。
春の訪れとともに人々が手にした「自由」だった。
チェコスロバキアでおきたこの変化はいつしか「プラハの春」と呼ばれるようになった。

1968年6月20日、ソ連軍を中心にしたワルシャワ条約機構軍の演習が、突然チェコスロバキア国内で開始された。
人々は、ソ連のこの行動をチェコスロバキアの改革に対する威嚇と受け止めた。
ワルシャワ条約機構軍の演習から一週間後、69人の市民たちが「二千語宣言」と呼ばれる意見広告を新聞に発表した。
改革を守るために市民たちが独自に起こした活動だった。

宣言は

「最近、わが国の改革に外国勢力が介入してくるかもしれないという不安が生じている。われわれは武器をもってでも政府を擁護する。この社会主義体制を人間的なものにしようという改革は最後まで押し進めねばならない。」

・・・・・と訴えていた。

この宣言には、大学教授・映画監督・軍人・共産党員・工場労働者などさまざまな人々が名を連ねていた。
オリンピックのゴールドメダリスト、体操のヴェラ・チャスラフスカもその一人だった。

この「二千語宣言」は更にソ連を刺激した。
ソ連は、この宣言を「反革命への誘いだ」と決め付け、ソ連の新聞「プラウダ」などで批判。
これに対し、チェコスロバキアのマスコミは「二千語宣言」を支持し、ソ連に対抗した。
ソ連は、チェコスロバキアを威嚇しながら自由化にブレーキをかけようとしたが、チェコスロバキア側の態度は固く、両国の首脳会談も失敗に終わった。

1968年8月20日、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアの国境を越えた。
翌21日、ソ連軍用機がプラハに着陸、ソ連軍戦車がプラハになだれ込んだ。
チェルニク首相やドゥプチェクら党幹部は逮捕された。
その後、スヴォボダ大統領ら代表団がモスクワを訪問、ソ連側の要求する「正常化」協定に調印させられた。
こうして「プラハの春」は、軍事力の下でむなしく散ったのである。

ドゥプチェクが目指したものは、チェコスロバキア独自の社会主義の道であった。
それは「人間の顔をした社会主義」ともいわれた。
しかし、ソ連指導者には、東の陣営を崩壊させる危険な「反革命」として映ったのである。

ドゥプチェクは、1969年4月、第一書記を解任され、70年1月駐トルコ大使へと左遷させられ、その6ヵ月後に本国に召還され党籍をはく奪されて追放の身となった。
1989年東欧自由化の嵐のなか、「ビロード革命」で新しい連邦議会議長に選ばれたが、92年11月71歳で世を去った。

ソ連は、チェコスロバキアが「プラハの春」で得た成果を一つ一つつぶし、もとの体制に戻す過程を「正常化」と呼んだ。
ドゥプチェクが失脚したあと「正常化」は、異常なまでの執拗さで社会の隅々まで徹底された。
また暗い時代がチェコスロバキアにやってきた。
以後、静かで冷たい粛清が続いた。

例えば、前掲の体操のチャスラフスカは、多くの人々が「二千語宣言」の署名を撤回していったが、頑として署名撤回を受けつけなかった。
その結果、ついにはスポーツ界からの追放、失職が待っていた。f0020352_15245438.jpg
注)この署名に名を連ねた人に、エミール・ザトペックがいた。ロンドンオリンピック(1948年)の10000m、ヘルシンキオリンピック(1952年)の5000m・10000m・マラソンで金メダルを獲得した。
この長距離三冠の記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。
顔をしかめ、喘ぎながら走るスタイルから『人間機関車』と称された。
ザトペックは、署名を撤回したといわれているが、当時の政治状況を推し量ると、その行為は批判去るべきことではないだろう。

彼女が再び国民の前にその姿を現したのは、1989年11月、民主化革命=ビロード革命(流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロードの生地にたとえて名付けられた)の過程でであった。
20年間の空白であった。
以後、国民的人気を背景に、新政権の要職にも就き、スポーツ界の指導者として活躍することになる。

余談だが、チャスラフスカさんが、先日来日した。
日本で開催された「体操の世界選手権」の観戦もあったらしいが、東日本大震災の被災地復興支援イベントもあったらしい。
彼女は、チェコの五輪委員会会長も務めたが、90年代終わりになると表舞台からその姿を消した。
個人的な事情から心を病み、治療を続けていたのだとか。
現在は、笑顔を絶やさずハキハキと話をしている。

これまでの69年間を振り返って、日本語で 「山あり、谷あり」 と語ったという。
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by m-morio | 2011-10-22 15:29 | 市民カレッジ | Comments(0)
初回に、東ヨーロッパの国々に関するスクラップがほとんどない・・・と書いた。
これ、間違いだった。
講義のレジメを見て、そうだ・・・そんなことがあった。
あの事故は記憶に新しいからどこかにあるはず・・・・・
私のスクラップは、その殆どがPCに入っている。
世界の動きに関するものは国別に仕分けしていることが多い。
以下に触れる「ポーランド政府専用機墜落事故」に関しては、その墜落場所がロシアだったこともあって「ロシア」に紛れこんでいた。(ポーランドという分類を設けていなかったことも要因)
そんなことで、ポーランドについて、これらの報道スクラップや講義のレジメなどを基にして少し整理してみることにする。

▼ポーランド

まず略史を・・・
・966年・・ピアスト王朝成立(建国)  
・1386年・・リトアニア・ポーランド王国 建国
(リトアニア公とポーランド女王の結婚で成立。ドイツ騎士団領(=バルト海岸に成立)に対抗することを目的に建国)
・1410年・・タンネンベルクの戦いで、ドイツ騎士団を破り、バルト海・黒海にまたがる大国家となる
・17世紀・・ウクライナ地方をロシアに、北部をスウェーデンに奪われる
・1733~35年・・ポーランド継承戦争が起こり、仏・露・墺(オーストリア)が介入して国力疲弊
・1772年・・第1回ポーランド分割
・1793年・・第2回ポーランド分割
・1795年・・第3回ポーランド分割により国家消滅
(1914年、第一次世界大戦始まる)
・1918年・・独立回復
(1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立)
・1939年・・ナチス・ドイツによるポーランド侵攻
        ソ連軍によるポーランド侵攻
(第二次世界大戦始まる)
・1947年・・第二次大戦終了後、社会主義政権誕生
・1980年・・独立自主管理労組「連帯」結成・・共産党からの独立
・1981年・・戒厳令
・1989年・・体制転換・・非社会主義政権の成立
・1999年・・北大西洋条約機構(NATO)加盟
・2004年・・欧州連合(EU)加盟
        経済的には、EU内での最貧国

続く
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by m-morio | 2011-10-16 12:48 | 市民カレッジ | Comments(0)
東ヨーロッパ巡りの旅は、ポーランド→チェコ、スロバキアと進みました。
ポーランドの整理がつかないうちに次の国に足を踏み入れましたので、あたふたしています。
少し順序を変更して、「スロパキア」のことを先に話題にします。
スロバキアという国は、殆ど新聞紙上などに登場しませんでした。 最近は。。。

「現代史」の講座の場合、その対象となる国などは数ヶ月前に決定していますので、「スロバキア」に焦点を当てたのは、講師の先見の明?
まあ、たまたまそんなダミングとなったということでしょうが。。。

▼スロバキアの抵抗f0020352_1135728.jpg
ギリシャの財政危機が、世界の株式市場や金融市場の不安定要因になっていることが表面化したのがほぼ2年前。
EUが救済に立ち上がり支援するも、一向にギリシャ内の改革がすすまないまま2年も経過してしまった。
日本から遠く離れたギリシャ一国の経済問題に、なぜそんなに大騒ぎをするのかと思わないでもないが、 
この問題が 『第2のリーマンショック』を起こしかねない としたら大変なこと。

ギリシャ政府の累積債務は、国の経済規模を示すGDPの1.2倍近くまで膨れ上がった。
毎年の国のやりくりも赤字で、このままでは借金は膨らむ一方。
ギリシャは破産するのではないかという信用不安が市場に広がり、その影響がユーロ加盟国にも及びかねない状況になった。
この欧州の財政・金融危機の回避に不可欠とされる「欧州金融安定基金(EFSF)」の機能の強化をめぐって、ユーロ圏が正念場を迎えていたというのが現状。

この機能強化策は、基金の融資能力を2500億ユーロから4400億ユーロ(45.3兆円)に拡大することなどが盛り込まれている。

強化策の実施には圏内17カ国全ての承認が必要で、スロバキアを除く16カ国が既に承認したが、このスロバキアのみが10月11日の議会で否決した。
この否決は、単一通貨圏の結束の難しさを露呈した格好で、EUにおける「全会一致」主義に対し修正論も出始めているほどである。

昨年7月にスロバキア初の女性首相に選ばれたラディツォバー首相は11日の否決を受け
「わが国が欧州との連帯を示せるか・・信頼が問われている」
と涙ながらに訴えたと伝えられている。
今回は野党との妥協で、再採決、承認したが、今後の対応をめぐる重要な意思決定に不安を残した。
注)スロバキアは、2007年に国内総生産(GDP)比で10.4%の成長を遂げた。その原動力は外資導入と自動車などの輸出。ユーロによる為替の安定は成長持続の絶対条件。
GDPの1割の負担となる今回の拡充策を飲まざるを得なかったのは苦渋の選択。
 昨年5月、総額1100億ユーロ(11.3兆円)のギリシァ向け第1次支援に際しても、8億ユーロ(824億円)とされた自国の分担を拒否した前歴がある。
この時は、ギリシァに対する2国間融資の積み上げという形をとっていたため、スロバキア抜きでも支援事態が止まることはなかった。


スロバキアのユーロ導入は2009年。
04年にEUに一斉に加わった旧共産主義国では07年のスロベニアに続く2番目の参加。
ユーロ圏入りは、導入条件である財政赤字削減やインフレ抑制などの努力を強いられた。

スロバキア国内では
「貧しい国が、努力が足りない南欧の国をなぜ支援しなければならないのか」
との声が強いという。
その言い分も分からぬではない。
しかし、EUへ加盟し、ユーロ圏参加を決めたということは、それなりの約束事を承知し、義務を負ってのことだったであろうに、今、「貧しい国」だからといって、反対=否決はいかがなものかとも指摘されていた。

日本の立場からすれば、
ギリシャを見放すことによって、連鎖的に圏内の大国、イタリア、スペインなどにも飛び火した場合、第2のリーマンショックは避けられず、東北震災で多大なダメージを受け、その復興に向け緒に就いたばかりのわが国の経済への影響は計り知れない。

スロバキアの可決で、当面は欧州の危機対策は一歩前進した。
しかし、スロバキアなどの域内小規模国に「大きな負担」への不満が強まる恐れは残ったままである。
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by m-morio | 2011-10-15 11:11 | 市民カレッジ | Comments(0)
明日から1ヵ月かけて東ヨーロッパを旅します。
ポーラント・チェコ・スロバキア・ハンガリー・オーストリア、そしてこれらの国々を取り囲むロシアとドイツです。

・・・・・・といっても、実際に移動するのではありません。
2011年秋の「現代史」の講座が始まり、その講座で取り上げることになっている国々です。
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「現代史」の講座を受講するようになっていわゆる"世界情勢"に関する報道を数多くスクラップしていますが、案外少ないのがこれら東ヨーロッパの国々。
オーストリアは、TVの旅番組にたびたび登場しますので、もう何回も訪れたような錯覚を覚えます。
なぜ私の目に留まらないのかor報道記事が少ないのか・・・・
恐らくは、近年、世界が注目するような事件などが少ないからなのでしょう。 
それだけ今は平和なのかも知れません。

でも、オバマ大統領のプラハの演説は世界の核問題を大きく動かしましたので記憶している方も多いことでしょう。
大統領の演説の冒頭のみ・・2009.04.05
温かい歓迎をありがとうございます。プラハの皆さん、ありがとうございます。そしてチェコ共和国の皆さん、ありがとうございます。本日私は、ヨーロッパの中心にあるこの素晴らしい都市の中心部に皆さんと共に立つことを誇りに思います。また、私の前任者の1人の表現を借りれば、ミシェル・オバマをプラハに連れてきた男であることを誇りに思います。

 クラウス大統領、トポラーネク首相をはじめとする、ご臨席の政府要人の皆さん、温かいおもてなしに感謝します。そしてチェコ共和国民の皆さんの米国への友情に、お礼の言葉を申し上げます。

 私は、シカゴで長年暮らす間に、チェコの人たちが陽気な、楽しい友人であることを知るようになりました。私の後ろには、チェコ国民の英雄トーマス・マサリク大統領の銅像があります。1918年に、米国がチェコの独立を支援することを誓約した後、マサリク大統領はシカゴで、10万人以上と推定される聴衆を前に演説をしました。私はマサリク大統領の記録に到達することはできないと思いますが、シカゴからプラハへ、彼の足跡をたどることを光栄に思います。

 1000年以上にわたり、プラハは、世界のいかなる都市とも異なる、独自の道を歩んできました。皆さんは、戦争も平和も体験してきました。いくつもの帝国の盛衰を目の当たりにしてきました。そして、芸術と科学、政治と文学の世界で、革命の先頭に立ってきました。そうした中で、プラハの人々は、一貫して自らの道を追求し、自らの運命を切り開くことを主張してきました。そして、この古い歴史と若さを合わせ持つ「黄金の都」は、皆さんの不屈の精神を表す生きた記念碑となっています。(後略)


しかし、ここまでの道のりには多くの苦難をともなったことが歴史が証明してくれるでしょう。

そんな歴史の勉強が明日から始まります。
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by m-morio | 2011-10-05 10:15 | 市民カレッジ | Comments(0)
■その後のシリア と イスラエルの不安

 原発問題に眼を奪われながらも、諸外国の動向が気にかかっていた。
特に、あの「アラブの春」はその後どのようなことになっているのか。 チュニジアは? エジプトは?
「緊迫する中東・アフリカ情勢」のシリーズは6月に小休止に入って、既に3ヶ月。
情勢の変化は個々の国によってさまざまである。
今回は、「シリア」を中心に取り上げる。

参考までに、これまでに触れたことを一覧にしておく。
①、②シリア情勢・・・11.04.22、23
③中東紛争の構図・・・11.04.25
④リビア情勢・・・11.04.27
⑤コートジボワール情勢・・・11.04.30
⑥バーレーン情勢・・・11.05.03
⑦イエメン情勢・・・11.05.05
⑧レバノン情勢・・・11.05.13
⑨中東・アフリカのその後・・・11.05.28
⑩その後のエジプト・・・11.06.09

リビアにおいては、反政府派は、多国籍軍の空爆による支援もあって、とうとうカダフィ政権を崩壊に至らしめた。首都トリポリでは治安が回復、市民生活もほぼ正常に戻ったという。
だが、ガダフィ派拠点の中心部シルトなどでは戦闘が続き、反カダフィ派「国民評議会」による全土の掌握は難航していると伝えられている。f0020352_19492445.jpg
カダフィ大佐の所在も不明だ。評議会に対する国際社会の承認は進み、国連は9月16日、評議会が派遣した国連大使を承認し、国連本部前に並ぶ各国旗に混じって、新生リビアの三色旗が翻った。
しかし、早くも評議会内部で対立が起きていて、市民は冷ややかな目で見ているという。市民の「仲間割れしている場合ではない」との批判にどう応えていくのか注目されている。f0020352_19495375.jpg

このカダフィ政権の崩壊が、他のアラブ諸国に少なからぬ影響を及ぼしている。
カダフィ政権という、アラブで最も強権的な独裁政権が、民衆の抗議行動で倒されたことの影響は大きい。
チュニジアとエジプトの政変に次いで第2幕が始まったと言えるのかも知れない。

▼注目の的 シリア 
シリアでは、今年(2011年)の3月以来、反政府デモが続き、8月から事態は、一層エスカレート。
デモは、首都ダマスカスを含む全国各地に広がり、アサド政権は、軍や治安部隊を動員して、武力弾圧を続けている。
外国の報道機関の取材がほとんど認められていないため、詳しい情報が入ってこないが、デモ隊に向けた無差別の砲撃や銃撃が行われ、大勢の死傷者が出ているほか、学校や住宅も破壊されているとの報道もある。
これまでの弾圧で、少なくとも2600人が死亡したともいわれる。

注)現地に入っての報道陣取材が認められないということは、電話などによる取材になるのだろう。新聞に載る「人権団体によれば・・・」という記事を見ると、なんとなく胡散臭いような気がしてしまう・・・・へそ曲がりの感想!
注)アサド体制
シリアで約40年続くアサド父子による独裁体制。1970年にハフェズ・アサド国防相が無血クーデターで首相に就任。71年の国民投票で大統領に当選した。
アサド氏の出身である少数派イスラム教アラウィ派に対する多数派スンニ派の不満が高まり、78年から82年にかけてムスリム同胞団の反政府運動が活発化したが、政権はこれを弾圧し、数万人とされる死者が出た。ハフェズ・アサド大統領は2000年6月に死去。同7月に次男バッシャール・アサド氏が後継大統領に就任した。

アラブ世界では、強権的な政治体制を敷き、シリアと友好関係を結ぶ国が少なくないため、これまで表立った批判は出てこなかった。
しかし、欧米を中心に「大虐殺」(米・クリントン国務長官)との批判が強まり、アラブ諸国もシリア情勢を無視できなくなった。

続く
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by m-morio | 2011-09-23 20:07 | 市民カレッジ | Comments(0)
◇歴史に学ぶ

 随分スペースをとって「原発問題」を考えてきたが、少々長すぎてとりとめのないものになった。この辺で一区切りとする。

 最後に、過去の原発事故に触れておく。
ただ、原発の仕組みなどは、素人にとってはきわめて難解だ。よって、以下の文では、かなり素人っぽい表現で、事実を正確には表していない部分があることをご了承願いたい。
こんな事故だったのだ・・・・程度の理解の参考にしていただければ幸い。

なお、米国とウクライナの事故によって少なくない人命が失われている。しかし、その数は正確には把握できない面がある。放射能に起因する病気によって事故後に亡くなった場合、その原因が特定できないケースも多いという。よって、本稿では死傷者の数には敢えて触れていない。

▽スリーマイル島原発事故(TMI事故)
アメリカのスリーマイル島原発2号機の事故によって「原発安全神話」が崩壊したと言われた。f0020352_11254553.jpg
しかし、32年後、福島第1原発の事故で、再び世界中で「原発の安全神話の崩壊」が叫ばれている。

振り返ってみよう。
スリーマイル島は、ペンシルバニア州の首都ワシントンから約150キロのミドルタウン市の中央部を流れるサスケハナ川の中州にある。原発近くの国道沿いには、今、住宅がぽつりぽつりと立っているという。その目前では、そびえたつ4本の冷却塔のうち、2本から水蒸気が勢いよく吐き出されている。
事故があった2号機とは別に1号機は現在稼働中のため、解体して廃炉にするのは、1号機の廃炉時に同時にするという。このため2号機は現在、監視体制のもと、そのままの状態で置かれている。

事故は、1979年3月28日に起きた。
運転開始して三月にもならない新設の原子炉が冷却材を失って炉心溶融(メルトダウン)にいたった。
冷却材とは、この炉の場合、「水」であるが、炉心から熱を取り出して発電に使うと同時に、炉心が加熱して溶けないように冷やすという重要な役割を担っていた。

冷却水がどこかで洩れると原子炉内を連続的に循環しなくなる。炉心の温度は上がる。      
通常、このような事態が発生すると自動的に補助ポンプが動き冷却水を補うような仕組みになっている。
しかし、この事故では、この補助ポンプが作動しなかった。勿論、補助ポンプはいくつも設置されていて、一つが作動しなくても、他のポンプが作動することになっていた。
この別のポンプへの連結もうまく作動しなかった。
原因は、別のポンプの弁が閉じられていたことだった。事故が起こる前の点検の際、誰かが弁を閉めてしまって、開けるのを忘れたらしい。

約16時間後に冷却水のポンプが稼働し、圧力容器にも損傷は見られなかったことから、拡散した放射性物質はわずかだったとされる。
原発は、何重にも安全装置が施されていて”どんな事態になっても安全”だという言い分はその根拠を失ったのである。

高熱・放射能などのため、炉心の写真を撮ることができたのが3年後。
6年後、アメリカ政府による調査報告書で「事故発生後2時間半で、炉心部の金属はウラン燃料とともに融けだした」と発表した。
炉の中心部は原形をとどめていなかったという。どろどろになって崩れ落ち、瓦礫と化した燃料を取り出すことができたのは、10年後であった。 原子炉の放射能汚染を除染できたと確認できたのは14年後のことだった。

もう少し続きます
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by m-morio | 2011-09-19 11:43 | 市民カレッジ | Comments(0)
他国に学ぶ
▽オンカロ
 いつか、世界で唯一つの放射性廃棄物の処分場として「オンカロ」という言葉を使ったような気がする。
あるいは、単にその国の名「フィンランド」と書いただけだったかも。。。

フィンランドに作られつつある「地下特性調査施設」(ONKALO)のことである。f0020352_10171167.jpg
注)フィンランド:
人口533万人、国土は日本の9割ほど。1995年欧州連合(EU)加盟、1999年欧州通貨同盟加盟。
古くから製紙・パルプ産業に支えられた国で、大量の電気を必要とし、電力の約30%は原子力に依存している。
2ヶ所の原発、4基の原子炉を保有。欧州では、フランスと並ぶ原発推進国。
ウランも埋蔵し、硬い岩盤に覆われ、身体に感じる地震はほとんどない。
天然ガスや石油を、隣接するロシアに頼りたくないとの意識が強い。
先のウクライナ問題を目の当たりにしているからだろう。
福島の事故後、政府は再生エネルギーの開発にも力を入れ始めたらしい。

オンカロは、首都ヘルシンキの北西240km、バルト海のボスニア湾沿岸に近い「オルキルオト(島)」(面積およそ12k㎡)にある。
人口は2千人程度の過疎の村であったが、原発の立地によって地元民はいろいろな職を確保でき、国内でも屈指のリッチな自治体となった。

オルキルオトの原発は1号機と2号機がそれぞれ1978年と1980年から創業しており、3号機の建設が2005年から開始されている。
さらに4号機の建設計画も2010年に国会が承認した。オンカロは、この原発から1kmのところにある。
原発で発生する使用済燃料は、所内の中間貯蔵施設で貯蔵されている。
また、発電所内で発生する放射性廃棄物の処分場もあり、地下60m以上の深さのサイロ型の岩盤空洞で、1992年から処分が実施されている。

オルキルオトのオンカロは、f0020352_10203999.jpg
世界で唯一つの”高レベル放射性廃棄物”の地下処分場で、工事は2004年に始まった。
現在、トンネルを掘り進み、深度は438m、トンネルの長さは4.8km(2011.9.9現在)。
地下520mまで掘る計画である。フィンランドの電力会社2社が共同出資したポシヴァ社のHPにその進捗具合が随時掲載されている。f0020352_10284977.jpg
(このHPは、フィンランド語なのでチンプンカンプンだが、雰囲気的にはこれがそうか !(^^)! ・・・と思われる欄があるので探して。。。)
操業開始は2020年で、100年後の2120年まで使用する予定で、その後、厳重に封鎖され”10万年”後まで安全だとしている。

何度も触れるように、原発を運転すると、燃料のウランから、さまざまな放射性物質がたくさんできてしまう。
この後始末が極めて厄介なのである。
原発で使い終わった燃料の中の放射能の害を無視してよい状態になるまで、きちんと保管・管理しておかなければならない。
ヨーロッパでは、この「待ち時間」を"10万年"と見ているのである。
オンカロはこの目的のために工事が進められている。

▽フィンランドで処分の対象となる高レベル放射性廃棄物は、2箇所の原子力発電所から発生する使用済み燃料である。
フィンランドでは、これらの使用済燃料を再処理せずに、そのまま高レベル放射性廃棄物として処分する「直接処分方式」をとっている。
フィンランドで計画されている使用済燃料の処分量は、運転中の原子炉4基と現在建設中の1基から発生すると見込まれている
合計5500トンである。同国では、さらに1基の新規原子炉施設が承認され、それに対して、処分場で最大9000トンの使用済燃料の処分が可能になっている。

参考までに触れると、
使用済燃料は、外側が銅製の容器、内側が鋳鉄製の容器という二重構造の容器に封入して処分される。外側の銅製の容器が腐食に耐える役割を、内側の鋳鉄製の容器が荷重に耐える役割を各々担っている。
容器は、3通りのサイズのものが考えられていて、これは3つの異なるタイプの使用済み燃料に対応するためだという。

因みに、その他の国で、処分場の「候補地」が上がっているのは「スゥエーデン・フランス・米国・ドイツ」である。

▽日本における現状
 原発から発生する使用済燃料は、有効利用のため”再処理”により有効活用することになっていて、再処理後に残った廃液を固めたガラス状のものが処分対象の高レベル放射性廃棄物となる。
この処分については、平成12年度に法律の整備がなされ、実施主体である「原子力発電環境整備機構」(NUMO)が設立された。
地下300m以上の地下に処分することが基本方針とされている。
NUMOは、平成14年12月から、高レベル放射性廃棄物の最終処分施設の設置可能性を調査する区域を公募している。
今後、応募のあった区域の中から概要調査地区の選定が行なわれる予定になっている。

しかし、ご承知のように、過去に高知県東洋町が一度応募するも、住民の反発で撤回した経緯があり、その後、手を挙げる自治体はない。

注)本稿には、主に、経済産業省 資源エネルギー庁 の 「諸外国における高レベル放射性廃棄物処分への取り組み」を参考にさせてもらった。
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by m-morio | 2011-09-14 10:34 | 市民カレッジ | Comments(0)