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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

カテゴリ:本( 49 )

◇さらに余談を・・
f0020352_11265711.jpg 犯人津田とは対照的に、華やかなスポットライトが当たったのは二人の人力車夫であった。政府から勲章を授与され、年金36円(当時の巡査の初任給が8円であった)をもらい、更にロシアからの年金は莫大な金額(1,000円)で、一時金は2,500円は庶民にとっては想像もできないほどの大金であった。
二人は、ロシア側から一時金などを手渡された際、「心して日常生活をするように」などと多少おせっかいな言葉をかけられていた。では、彼らのその後は・・・・。

一人は、親を郷里から呼び寄せ、子供には学問をさせることにしたのは良しとしても、気持ちが浮き足立って遊興にふけり、妾までかこうという始末であった。さまざまな事業にも手を出したが、日露戦争の勃発もあってロシアからの年金も絶たれた後は落ちぶれ、ついには警察に世話になるような事件も起こし昭和2年に死去している。

 もう一人の車夫であるが、故郷に戻った。大歓迎で迎えられ英雄気分に浸っていた。妻帯し、土地を買い家を建て、読み書きができなかったのでその習得に努めるなど地道な生活態度であった。郡会議員に当選するも、人に騒がれるのを嫌って殆ど議会には出席しなかったという。日露戦争の影響で、周辺の者の態度も変化し、ロシアは敵国であり、そこから年金をもらっているのは国賊であるとまでいわれるようになる。
彼と家族は村八分にされ、大正3年に54歳で死去している。

 皇太子ニコライのその後は・・・
日本を離れてから3年半後の明治27年(1894年)に皇帝アレクサンドル三世が死去し、26歳の皇太子が即位してニコライ二世となった。明治29年5月、モスクワのクレムリン宮殿で戴冠式が行われ、天皇は名代を派遣した。
しかし、日本は清国と戦い勝利し遼東半島、台湾などの割譲を受けるなどその勢いはロシアを刺激し、その国力で圧力をかけ遼東半島の領有に反対し、国力の劣る日本はそれを受けざるを得なかった。ロシアに対する恐怖と憤りは日増しに募り明治37年日本は、ロシア政府に交渉断絶を通告、日露戦争がはじまった。

ロシアが日本に敗れたことで、皇帝の権威は失墜し、専制君主制は崩れ去つたが、皇帝ニコライは依然として専制君主制に強い未練を持ち続けた。
第一次世界大戦がはじまったが、ロシアは軍需品の不足に悩み、社会不安も増大し、革命も本格化した。
大正6年(1917年)ニコライは皇帝の座を追われてロマノフ王朝は崩壊した。同年11月にソビエト政府が成立し、人民委員会議議長にはレーニンが就任し、社会主義革命が成功した。
ニコライ一家は幽閉され、1918年ポリシェビキの一隊に射殺された。ニコライ50歳であった。

偶然にも、今日の朝日のWEBニュースに次のような記事が載った。
 "遺骨、やっぱりニコライ2世だった 米ロ専門家が確認" 2008年12月6日6時43分
 【モスクワ=副島英樹】ロシア・ロマノフ王朝の最後の皇帝ニコライ2世のものとされてきた遺骨が、遺伝子鑑定で「本物」と最終確認された。ロシア検察捜査委員会主催の会議で5日、ロシアと米国の専門家が発表した。エリツィン政権時代に「本物」と認定されて以降も偽物説がくすぶり、確認作業が続いていたが、これで一家7人全員の遺骨が最終的に確認された。

 インタファクス通信などによると、ロシアの専門家は、
「ニコライ2世が皇太子時代に日本を訪問した1891年、大津事件で負傷した際にシャツに残された血痕」と、一家が処刑されたエカテリンブルクで91年に発掘された遺骨のDNAが一致したと述べた。
 また、米国の専門家は、07年に見つかったニコライ2世の長男アレクセイ皇太子の遺骨や、いとこのアンドレイ・ロマノフの遺骨とのDNA比較でも「百%一致するとの結論に達した」と語った。
 皇帝一家はロシア革命翌年の1918年、ソビエト政権に使用人らとともに銃殺された。皇帝が幽閉されていたウラル地方のエカテリンブルクで9体の遺骨が91年に発見され、その後、長男と三女マリアの遺骨が見つかっていた。
 ニコライ2世のものとみられた遺骨は98年、当時のエリツィン大統領主導で歴代皇帝が眠るサンクトペテルブルクに埋葬されたが、一方で偽物説もくすぶり、ロシア正教会は本物と認めてこなかった。
 今回の結果を受けて、検察捜査委員会は、近く調査を終結すると表明。ロシア正教会関係者も「教会内部で協議して判断する」と話している。 TITLE:asahi.com(朝日新聞社):

(完)
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by m-morio | 2008-12-06 11:40 | | Comments(0)
◇事件の処理
津田三蔵が皇太子を傷つけたことは、日本国中に大きな衝撃を与えた。f0020352_923452.jpg
一方、地元における犯人訊問と調書作成は、三浦予審判事によって異例の速さで進められ、5月11日に事件が発生後、わずか8日間で調査を終了した。
調査は、津田が「謀殺未遂罪」を犯したものとして推し進められていた。
津田は、法の定めにより「無期以下の刑」を科せられることになる。大津地方裁判所も、常識的に津田の行為が普通の謀殺未遂罪を構成するとしていた。

しかし、政府閣僚と元老の間では、それを根底から覆す強硬な意見がひろがり、あらゆる手段を使って執拗に判事らへ圧力をかけることになる。
即ち、刑法第116条を適用すれば死刑を科すことができると主張するのである。
第116条とは、「天皇、皇太子らに対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す」というもので、皇太子ニコライを日本の皇太子と同一視すれば、それを適用できるのだというかなり乱暴な解釈をごり押ししようと画策したのである。
その背景には、今回の事件に対してロシア側が激怒していて、死刑以外の判決では納得するはずがない。なんとしても厳罰に処してわが国の対面を維持し、莫大な賠償を求められたり、戦争に発展するようなことは何かなんでも回避しなければならないとの意識があったのである。
国の存亡にかかわる重大事件であるから、司法権の独立のみを主張すべきではない、というわけである。

しかし、こうした閣僚らの考え方に法曹界はこぞって猛反発する。
当時、就任したばかりの大審院長は総理大臣、司法大臣あて意見書を提出している。その内容は法曹界全体の意見を的確に表している。

このたびの津田三蔵の犯罪を処断するのに、刑法第116条(皇室罪)を適用しようとすることは、はなはだ重大な悪例を残すもので、「国家百年の大計を誤るもの」と断ぜざるを得ない。諸外国の例をみても、他国の皇太子に危害を加えた者に対する刑は、一般人に対して加えた者として処分し、ロシアでは2年以下の労役を科すにすぎない。もしも皇室罪を適用することになれば、それは「刑法を犯しまた憲法を破壊する」ものであり、わが「司法権の信用厳正を失墜するもの」である。
津田を死刑にしなければ、ロシアは苛酷な要求をわが国に突きつけ、それが戦争にもつながる恐れがある、と言われるが、「ロシア国は決して蛮野の国にあらず。・・・故に今回の一事を持って不法酷暴の要求をなし、外国の批難を招くが如き拙計」をとることはない。(中略)もしも、今回の事件で法律を曲げるようなことをすれば、各国は「益々軽蔑侮蔑の念を増長して、ややもすれば非理不法の要求」を突きつけてくることも予想される。
 右のことを考え、政治上からも法律を曲げることは断じてならず、それは「国家に不忠不義」であるだけでなく、天皇陛下の「神聖なる大権」にもそむくことなり、いまだかってない国の汚点になるであろう。


 津田の傷もほぼ治り、5月27日に公判が開かれることに決定した。
弁護人は自発的に申し出た2人に決まった。当初、公開裁判を予定していたが、その日の裁判所は、傍聴を求める人、報道関係者でごった返し、とうとう非公開となった。各地から集まった弁護士が反発したため、裁判終了後に報道関係者にその様子を漏らさないよう宣誓書とって15名のみ傍聴を許した。
 予想されたように、弁護人は第116条を適用すべきではないと主張し攻防が繰り広げられた。尋問、弁論が終わり、判決は追って申し渡すことで閉廷した。午後3時30分であった。法廷の再開は、午後5時50分。
刑法第292条、同112条、第113条第1項に依り「無期徒刑」となった。

判決を受けた津田三蔵は、北海道に送還されることになった。
北海道は遠隔の地で、冬は氷雪におおわれる。そこにもうけられた集治監に収容され、そのうえ苛酷な労働を強いられることは、死を意味するにひとしいものであると考えられていた。
津田は7月2日に釧路集治監におくりこまれた。そして、看守長に「私は、朝廷に対し社会に対し、まことに恐れ多き罪を犯しました。今後は、ひたすら謹慎し、徒刑囚として一心に働くつもりです」と言ったと言う。
しかし、その後津田は体調の不調を訴え、9月29日死去した。

◇判決に対するロシアの反応
 津田の裁判の判決に内閣は大揺れに揺れた。外務大臣はロシア皇太子の迎接不行き届きの責任をとって辞任、内務大臣も、警護不行き届きの責任を問われ辞任した。
最も憂慮されたのは、被告津田三蔵に死刑ではなく無期徒刑の判決が下されたことに対して、ロシア側が憤りをしめすのではないかということであった。
在日ロシア公使に判決の結果を伝えると、公使はその旨本国へ報告した。
 ロシア政府の反応を知るべく、駐露駐在公使が露外務大臣と面談した。
外務大臣は「貴政府がこの事件の処理に苦労したことは承知しているものの、この判決にはなはだ不快であるのは、わが皇太子に危害を加えた者を、一般人に危害を加えた者と同じ処分にしたことにある。」
「とはいえ、必ず死刑の処分をすることを望む意味ではない。死刑の判決が下った場合、わがロシア政府は、赦免を願い出る手はずであったのである。そうなれば、ロシアの面子も立ったのに・・・」
と顔をしかめた。
加えて、
「貴国の法律がそのようなものである以上、やむを得ないことは知っている。また、もとより加害者を殺してくれなどという気も全くない。したがって、わが政府としては裁判の結果に満足するほかはなく、わが皇帝陛下もご了承なされると思う。」といった。

これをもってこの事件は終止符を打たれたのである。
(つづく)
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by m-morio | 2008-12-06 09:34 | | Comments(0)
◇日本の立場f0020352_162459.jpg
 「大変な事件が起こった」
前述のように、ロシア駐在公使の勧めをいれて、皇太子ニコライを日本に招いたのも、ロシア王室の対日感情をよくさせようという配慮からであった。
天皇も、それを十分に理解し、皇太子が日本訪問の第一歩をしるした長崎には有栖川宮親王や接待係を赴かせ、迎接艦も派遣した。天皇の皇太子招聘には並々ならぬ決意が窺われたのである。
そこに、突然、皇太子が襲われて負傷したという事件の発生が伝えられた。
皇太子は、皇帝になる身であり、ましてや警備にあたっていた日本の巡査が暴挙に及んだことは、ロシアにとって最大の侮辱と感じるに違いなかった。ロシア国民は激昂するだろう。ロシア王室の驚きと憤りは容易に想像できた。
 幕末の攘夷論が異常なたかまりをみせ、それによって外国人殺傷事件も起こった。明治維新成って、政府はあらゆる分野において欧米先進国にならうよう全力を傾けてきた。その成果が徐々にあがってきた折に、国賓として招いた皇太子を警備にあたっていた巡査が切りつけてキズを負わせたことは、ロシアのみならず欧米諸国に、日本が未だ攘夷論者が横行していた幕末から一歩も抜け出ていない危険な国という印象を与えるに違いなかった。

ロシア政府が、事件を知ってどのような反応をするか、想像しただけでも恐ろしいことであった。
その後、ロシア政府には、逐一電報で事の次第を報告するとともに、天皇からも丁重なる謝罪の文を送っている。更に、経緯の説明に謝罪使を派遣すべきとの結論にも達した。
天皇にとってこれほど憂慮すべき事件はかって経験したことがなかった。顔面蒼白だったという。
大臣達も、莫大な賠償を求められるとか、傷が悪化して死亡した場合には、賠償どころではすまず、日本に戦線布告してくることまで予想していた。
こうした空気の中、天皇は、皇太子のもとに自ら陳謝をかねて見舞いに行くと言い出した。

 皇太子は、事件直後は京都の常盤ホテルに滞在し治療を受けていたが、
「本国より、皇太子の安全を守るため、速やかに神戸港に宿泊している軍艦に移るようにとの指示があった」
と側近が政府側に伝えてきた。
その背後にはロシア皇后の意思が強く働いていたと言われる。皇太子は、本国からなんと言ってこようと、是非東京に行きたいとの強い意思を持っていたようだが、皇太子側近の強い反対にあいしぶしぶ軍艦に移ることを承諾した。

ところが、ここでロシア側からとんでもない要請を受けることになる。
即ち、「皇太子がホテルから神戸港の軍艦まで移動する途中、護衛が軍隊や警察官ということになるのだろう。それらの者が皇太子を襲わないという保証はない。ついては、安全の保証のため、軍艦まで天皇陛下が皇太子と一緒に同行して欲しい。」といってきたのである。
俗な言い方をするならば「天皇を盾にする」というのである。
その伝言を天皇は無言で聞いていたが「そのようにする」と即座に答えたのである。

◇余談
1 処罰と褒章
 犯人の処罰(このことについては別項で触れることにする)、責任者の処分に続いて皇太子の危難を救った人力車夫の功績に対して勲章を授与し、さらに終身年金として36円を下賜することが決まった。この当時の36円の価値は、一般家庭の1年間の生活費に相当する額でであったからその授与に車夫は体を震わせてそれを受けたと言う。
2 ロシア側からの褒章
 皇太子が帰国する前日になってロシア公使から思いがけない要請がきた。
「皇太子の身を守ってくれた人力車夫の二名を皇太子が乗艦する軍艦に寄越して欲しい。」
というものであった。
しかも、そのときの服装は事件の起こった日と同じ法被、股引饅頭笠姿としていしてきたのである。
緊張し、恐る恐る軍艦へと赴いた。なんと甲板上には皇太子が平服姿で出迎え、危ないところを救ってくれたことへの謝辞を述べられた。
ついで皇太子は、「小鷲勲章」を手ずから二人の胸につけ、さらに、両名に対して2,500円の恩賞金と、年金1,000円を下賜する旨を伝えたのである。そのあまりにも高額なことに日本側随員は言葉を失い、呆然として通訳もすぐには訳することが出来なかった。1,000円は、当時の国会議員の年俸に相当するもので、その額を年金として死ぬまで下賜するというのである。車夫足りは、通訳から聞かされ顔面蒼白となり小刻みに震えながら、10円紙幣で2,500円を“饅頭笠”を上向けにして受け取った。
そのとき、皇太子とその側近(侍従長)が言ったことが少々滑稽である。
皇太子「これからは車夫をやめ、あたえた金で日本のためになるような職業につくように・・・・・」
側近「莫大な金を得たために、それで身を持ち崩すようなことがあってはならない」
離艦の際は、水兵たちが胴上げをしてその労に報い、酒を提供した。
(つづく)
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by m-morio | 2008-12-05 16:11 | | Comments(0)
◇事件の概要
 明治24年5月11日。f0020352_19403868.jpg
京都に入った皇太子一行は、琵琶湖と大津方面の遊覧を終えて、京都へ戻ろうとしていた。
皇太子一行を歓迎し、見物しようという人の波は道路の両端を埋め尽くし、その中を人力車が列を作って進み、人々は頭をさげ、警備の巡査は挙手の礼をする。
皇太子は周囲の店に視線を走らせながら車に体を揺らせていた。このとき皇太子は歓迎の午餐で少しお酒を飲まれていたようで、かすかに目元と頬が赤く染まっていたという。

そして「事件」が起こった。
皇太子の車が下小唐崎町に差し掛かったとき、挙手の手を下ろした巡査が、突然サーベルを引き抜き、進む人力車の右側に走り寄った。
刀身が陽光を反射してひらめき、その刃先が、山高帽をかぶった皇太子の頭に打ち下ろされた。皇太子は前を向いたままで、人力車の梶棒をとっていた車夫も気づかず、気付いたのは、車の右側後部を押していた車夫であった。この車夫は後押しを止めて巡査に駆け寄り、巡査のわき腹を強く突いた。巡査はよろめいたが、再びサーベルを振り上げて皇太子に近づいた。
そのとき初めて皇太子は巡査の方に顔を向けた。巡査は無帽の皇太子の頭にふたたびサーベルをたたきつけた。皇太子は、巡査とは反対側に飛び降り、頭を両手で押さえ前方へと走った。巡査はサーベルを手に追っていく。

この出来事を初めから目にしていたのは、皇太子の後方の人力車に乗っていたジョージ親王であった。ジョージ親王が巡査を追って走り、追いついて手にしていた竹杖で巡査の後頭部を叩いた。それと同時に車夫が巡査の腰にしがみつき、勢いよく後ろへ引いた。巡査は倒れ、サーベルが手から離れて路上に投げ出された。車夫は、そのサーベルを拾うと、倒れた巡査の背部に振り下ろし、さらに二太刀目を浴びせかけた。
上司の「殺してはならぬ」の叫びにそれ以上斬り付けることは無かった。
頭をかかえた皇太子は数名の随員に囲まれて立っている。
犯人は 「元藤堂和泉守の藩士」津田三蔵 であった。ロシア公使シェーヴィチには「昔の侍」と説明された。

皇太子は、接待役の有栖川宮に「エト・ニチェヴォ(何でもない)」といい、「このようなことがあっても、日本人民の好意に対する私の喜びの感情には変わりはない」と言った。
また、治療中にロシア正教司祭のニコライが見舞いに参上した際、
皇太子に「日本人が殿下を歓迎することは実に至れり尽くせりでありましたのに、一人の暴漢によってこのようなことになりましたのは、まことに残念でなりません」
と言ったのに対して、
皇太子は「日本国民が誠意を持って暖かく迎え入れてくれたことには、心から感謝している。
暴漢に襲われはしたが、それで日本人の好意を忘れたわけではない。幸いにも、私のキズは浅いので、一日も早く全快して、東京へ赴きたい。大聖堂も落成したと聞いているので、参拝するのを楽しみにしている」と言った。

 皇太子が旅行を中断して帰国するのではないかという心配は事件発生当初から天皇をはじめ政府関係者が最も懸念していたことであった。
この件に関しては、度々ロシア王室に皇太子の容態を報告するとともに、お詫びをしてきたところであり、皇帝からの電報でも旅行を継続することは差し支えないとの感触を得ていたところであった。
皇太子本人も途中帰国の意思は全く無く、傷が治り次第予定の旅を続ける意思を明らかにしていた。
一時中断していた東京での歓迎準備が再開されていた。
しかし、神戸にいる皇太子から天皇に送られた電報は、天皇とその周辺の者に大きな衝撃を与えるものであった。

「ロシア皇帝が日本を離れるように電報で命令してきたので、それに従って三日後の5月19日にロシアのウラジオストックに向けて出発する」
というものであった。

 日本を去るにあたって、
ロシア側から「わが皇帝は、日本が出来る限りの努力をしてくれたので、この事件についての賠償は一切要求しない」との申し出があった。
更に、日本がロシアに派遣をしようという謝罪使についても、皇帝は「その必要もなかろう」との言葉があった旨が伝えられた。

皇太子との別れにあたってひと悶着があった。
天皇がお別れの午餐を差し上げたいので、神戸の宮内省御用邸にお越しいただきたいとの連絡をしたところ、皇太子は快諾するも、侍医が強硬に反対し、両者の間で激しいやりとりがあった。理由は「傷が未だ癒えていない」ということであったと言われるが、実際は警備上の心配があってのことであったろう。
これを聞いた天皇は、午餐への招きが皇太子と侍医との争いになっていることを気遣い、この招待を取り消すよう指示した。

ところが話はこれで終わらなかった。
皇太子から「医師の命令で、陛下のご好意にあふれるお招きに応ずることが出来ません。しかし、このまま陛下にお別れのご挨拶もせず日本を去るのは、誠に心残りです。ついては、わが艦でご都合のよい時間に午餐を差し上げたい」との趣旨の電報が送られてきたのである。

側近たちは大慌てであった。
天皇が外国の軍艦に赴くことなど前例がない。ましてや、決して友好関係にあるとは言いがたいロシアの軍艦である。
天皇が乗艦したまま、急に錨をあげて出港するかもしれない・・・
天皇をロシアに連れて行き、とんでもない返還の条件を突きつけてくるかも・・・
それに、天皇は、毒見をした食物のみ口にする定めになっている・・・
ロシアの軍艦に天皇が乗艦することは極めて危険であるということで意見は一致した。
ところが、天皇は一言「ロシア軍艦に行って皇太子殿下をお見舞いし、午餐を共にする」と言った。
午餐は何事も無く和やかな雰囲気の中で終えた。
皇太子は、侍従長を通して日本国民に対して別れの言葉を送った。

天皇をはじめ日本国民が慰問の電報、手紙を寄せ、物品を贈呈してくれたことに深く感動し、感謝する・・・との趣旨であった。
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by m-morio | 2008-12-04 10:30 | | Comments(0)
◇皇太子ニコライ来日の経緯f0020352_16124696.jpg
 ロシア国皇太子ニコライ親王、同ジョージ親王、ギリシャ国ジョージ親王の一行が日本に来ることになったのは、ロシアが建設に着手しようとしていたシベリア鉄道のウラジオストックとハバロフスク間の起工式に、父である皇帝アレクサンドル三世の名代として臨席するためであった。その途中、東洋諸国を巡歴して見聞を広め、日本にも立ち寄り、そこからウラジオストックに赴く予定になっていた。

 日本に立ち寄るに当たっては、当時の駐ロシア日本特命全権公使(西 徳二郎)の推挙によるものであった。即ち、皇太子一行が世界周航の旅に出ることが内定したとき、日本に招聘すれば、皇室とロシア王室の親睦が深まる。今後、日露両国の国際関係に好都合であるとの判断から推挙したものである。

皇太子はジョージ親王とロシア→オーストリア→ギリシャに赴く。ギリシャ王室はロシア王室と縁戚関係にあることから皇太子の誘いに応じてギリシャのジョージ親王も同行することになった。その後、セイロン島→インド→シャム→仏領インドシナのサイゴンを経て香港に到着した。(この間、ロシアのジョージ親王は、病気でインドから帰国している。)
皇太子は、香港から「長崎」に明治24年5月1日頃入港する予定であったが、実際には、4月26日に入港し、皇太子一行の上陸は5月4日と決められた。
一行の日本での日程は、
長崎→鹿児島→神戸→京都→大阪→奈良→横浜→東京。
東京に到着の際は、天皇陛下が新橋駅まで出迎える事になっていた。 
その後、江の島→鎌倉→箱根→熱海→日光→仙台(松島遊覧)→盛岡→青森を経て、ロシア艦「アゾヴァ号」でウラジオストックに・・・という皇帝が予定されていた。

◇日本のロシア観
 当時の日本におけるロシア観は決して好ましいものではなかった。
幕末に、ロシア艦が樺太、エトロフ島、利尻島を襲って番人を拉致し、放火し、略奪するという暴挙は、日本人にロシアに対する恐怖として根強く残っていた。
ロシアは、朝鮮半島に勢力をのばすことを企て、それは日本の存立を危うくする。ロシアは恐るべき侵略を意図していて、シベリア鉄道の建設も、それを推進するためのものだ、と新聞は強調していた。
皇太子一行の目的は、物見遊山ではなく、軍事偵察なんだと言うわけである。

ロシアの極東地域への進出は年を追うごとに露骨になっていて、その矛先は朝鮮半島に向けられていた。シベリア鉄道の敷設計画は、その製作の達成を目的としたもので、朝鮮半島がロシアの支配下におかれれば、日本列島は、短刀をつきつけられたようにロシアの武力脅威にさらされる。
ロシアは世界屈指の軍事力をもつ強大国で、いったん武力を発動すれば、たちまち日本は制圧される。軍事力も工業力も比較にならぬほど劣る日本としては、ロシアとの衝突を避けることに努める以外に生きる道はなく、そのためロシアを刺激しないよう細心の注意を払っていた。
                                                  (つづく)
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by m-morio | 2008-12-03 14:47 | | Comments(0)
市民カレツジではいろいろな国や、民族、宗教について学んできた。
そんな中でチベット問題を機に「中国」のことを知りたくなって意識して新聞を読んできた。
また、チェチェン問題では「ロシア」に関心を持つようになった。
 「中国」は北京オリンピック後、景気の下降も囁かれGDPも9%台から来年は7%台になるだろうと予測され、今回の世界的な金融危機が今後どのように影響するのか、注目されるところである。
 一方、「ロシア」は世界一の領土を有し、豊富な地下資源をテコに強気な政策を打ち出す。メドベージェフ大統領は、「大統領の任期を4年から6年に延長」すべく手続きに入った。恐らく近々承認されることだろう。この任期は自らの任期には適用しないとか。次期大統領をにらんでのこととらしい。プーチン首相との双頭作戦は、着々と進み再び“プーチン大統領”の実現に向けてまい進していると巷間噂されている。
ロシアの憲法では、大統領の三選は禁止されているので、時期大統領のために任期を延長するようだ。ということは、予想される“プーチン大統領”はその任に付いたならば、12年間その権力を保持できることになる。その任期内に憲法すら変えて、三選もOKなんてことになるのかもしれない。 “強いロシア”を標榜するプーチンさんは何をやってくるかわからない。ロシアの外相が来日して北方領土問題に好意的な発言をしたからいいってニコニコしていたらどんでもないところで足元をすくわれないとも限らない。

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by m-morio | 2008-12-02 17:56 | | Comments(0)
「あめふりのにわっとり」

「ほめきざかり」

「雷の病」

「そっと申せばぎゃつと申す」

「おっこちきる」

「あとみよそわか」

と並べてみますと 何のことやらさっぱり分かりません。
これらが小説の表題です・・・といったら信じてもらえるでしょうか。
表題は別にありますから 少し違いますね。
短編連作の題名といったらご理解いただけるでしょう。

時代小説のページを好んで開いていますが、故人の藤沢周平や池波正太郎の作品はほぼ読みつくした感じです。勿論、すべてを読破したということではありませんが・・・・・

最近は、”宇江佐 真理(うえざ まり)”の作品を愛読しています。
・・・・・北海道新聞のコラムにときどき投稿していますのでご記憶にあるでしょうね。
この作家は、1949年函館生まれで現在も函館に在住し活躍しています。
オール読み物新人賞を受賞したのが1995年とのことですから作家としてデビーは遅いほうです。

宇江佐作品の舞台となるのは多くが 江戸深川 です。  江戸情緒あふれた作品では、

大川を渡る風の匂いや
路地裏を行きかう物売りの声
裏店の住人の貧しいが明るい人情あふれた暮らしぶり

が見事に表現されていて時にはホロリとさせられます。

さて、冒頭のお題ですが、ここにすべてを明かしてしまうのは差しさわりがあるでしょうからその一端だけをチョッピリとご披露しておきます。

あめふりのにわっとり
・・・「雨の日、鶏小屋では表に出られない鶏が、仲良く雁首をそろえて外を見て小首を傾げている」様のことを表した言葉です。

ほめきざかり
・・・「ほめく」とは、熱気を帯びるという意味があるところから転じて”色気づいた男女”のことを。。。

雷の病
・・・「着たきりすずめ」のことですが、なぜそう言うのか・・

あまり種明かしをしてしまうと叱られてしまいます。よろしかったらご一読ください。
 「あやめ横丁の人々」 
さらに、付け加えますと この表題にもある意味が隠されていますよ。

この作品に限らず、この作家のお題の付け方はなかなか興味深いものがあります。
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by m-morio | 2008-06-19 18:50 | | Comments(0)
“ながら族” という言葉が流行したのはいつのことだったろうか。
ラジオを聴きながらの受験勉強など。

先ほどまで、日が入る窓際でぬくぬくとそのぬくもりを楽しみながら、由紀さおり・安田祥子のリサイタルをTVで聴き、手元の本をめくっていた。 そう、TVの音声をBGM代わりにして。

いま、手元に三冊の本を置いている。
TVの前で活字を追っていた娯楽時代小説、藤沢周平の随筆集、そしてある新聞社の記者が出した胡錦濤が率いる中国の底流解剖を試みたコラム形式のかなり主観的な書き物。

この三冊をとっかえひっかえ手にしている。
これも一種の“ながら族”なのかもしれないと思う。

このような読み方をするのは、小説以外は読む順序に拘らないから目次を眺めながら不規則な順序で読む。

「中国の・・」などは60の項目の中から気分次第でつまみ食いしていく。

「随筆集」もしかり。
60数編の中から、必ずしも1ページ目から読まねばならないということもなかろう・・と思いつつ。
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by m-morio | 2008-02-03 16:21 | | Comments(0)
藤沢周平著「又蔵の火」に表題作を含めて5作品が収録されています。
これらの作品の主人公たちは、いずれも
なんともやるせない“暗い”宿命のようなものに背中を押されて生き、あるいは死ぬ。

貧乏は辛いもの。貧乏故に悪への道へ、蟻地獄のごとく待ち構えている極道の罠へずるずると転落していく。

藤沢作品にはこんな暗い色調のものが多い。

著者自身
「私の中に、書くことでしか表現できない暗い情念があって、作品は形こそ違え、いずれもその暗い情念が生み落としたものだからであろう。読む人に勇気や生きる知恵をあたえたり、快活で明るい世界をひらいてみせる小説が正のロマンだとすれば、ここに集めた小説は負のロマンというしかない。」
とあとがきに書いている。

木曽路を落日が灼(や)いている。
6月の荒々しい光は、御嶽(おんたけ)の黒い肩口を滑って、その前面にひしめく山々の頂きを斜めに掠(かす)め、谷をへだてて東の空にそびえる木曽駒ケ岳に突き刺さっていた。だが谷の底を這う街道には、すでに力ない反射光が落ちかかるだけで、繁りあう樹の葉、道に押し出した巨大な岩かげのあたりは、もう暮色が漂いはじめている。

という書き出しで始まる短編は、漆塗り職人から渡世人に身を落とした男の生き様を書いた小説です。

でも、じっくりと読み進むと、その根底に何ともいえない温かみ=人肌の温もりがあります。
この書き出しは、渡世人の末路を綴る内容がこれから展開するとは思いもよらないほど穏やかな夕暮れの情景を思い起こさせます。

(「又蔵の火」の「帰郷」文春文庫 直木賞受賞の「暗殺の年輪」に次ぐ二冊目の作品集。)
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by m-morio | 2008-01-31 15:52 | | Comments(0)
時代小説を読んでいて常々思うことがあります。

「ここに書かれている事柄は“史実”に基づいているのだろうか」
「どこまでが事実なのだろうか」

・・・ということです。
その辺の区別を(ある程度)付けておかないと妙な(誤った)知識を身に付けることになるからです・・といっても、最近はだいたいすぐ忘れてしまいますが。
勿論、小説ですから全てが事実ではない。登場人物も創作されたものであることが多い。作り話なのです。架空のお話なのですね。

 ある作家は、現代社会における凶悪事件を題材にし、これを江戸時代に置き換えて小説として作り上げることがあるという話を聴いたことがあります。

“架空”という意味合いで想いだすのが、作家藤沢周平です。
藤沢作品の舞台として度々登場する「海坂藩(うなさかはん)」は架空の藩名です。
江戸から北へ百二十里、三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある酒井家庄内藩、現在の山形県鶴岡市を基にしていると言われています。
この藩に住む市井の住民のつましい生活ぶり、喜怒哀楽、下級藩士の忠誠の様などをこの藩を舞台に描いています。従って、登場人物もそれなりに架空の人物ということにはなるのでしょう。このことを知っていて読むかどうかで心への響きが違ってくるような気がします。

篤姫の本 (「天璋院篤姫」宮尾 登美子著) 読了しました。
f0020352_1974322.jpgたまたまNHK・TVの“その時歴史が動いた”の再放送を目にしました。   天璋院の肖像画 →
“大奥 華にも意地あり“~江戸城無血開城・天璋院篤姫~
 です。
この番組は、あのNHKの“殿”「松平」アナが道案内していますが、久々にチャンネルを合わせました。

小説とTVの内容に若干の差があり戸惑ってしまいました。

このアンコール放映は篤姫の一面(特に、後半生)を43分間に圧縮して掘り下げています。
ぼんやりとTVを聞いていて、何が引っかかったかといいますと(随分些細なこと・・とおっしゃる向きもありましょうが)例示してみます。

・「大奥千人」というナレーションに あれっ と反応してしまいました。
小説では「三千人」と書かれています。説はいろいろあるらしいです。NHKの場合は、江戸中期に残された「女中分限帳」(大奥女性の名簿)の分析などから類推して千人としたとの解説があります。(残念ながら、小説にはそこまでの説明はありませんが三千人との説もあるのでしょう)
・・・・・大奥の頂点を極めた篤姫がこれらの女性を統括してきたその心労は筆舌につくせないものがあったようですね。

・和宮の夫(徳川)家茂(いえもち)の死後、和宮の帰郷に関して、TVでは、実兄である孝明天皇が京都に帰ってくるように動いたように語られていましたが、小説では逆で「和宮がしきりに兄に“戻らせてほしい”と懇願したとのニュアンスです。
この辺りが、天璋院と“和宮”との軋轢が決定的になる要因ともなっています。
小説では、この両者の関係は最後まで水と油の関係であったとの記載に終始しています。(TVの一場面では、和宮の一仕草を天璋院が慈愛のまなざしで観るというシーンを映しだしていましたが、確かに瞬間的には天璋院の心を和ます場面もあったようではありますが・・。)

・TVを観てから、少し時間が経ちましたので細かな言い回しは忘れてしまいましたが、
夫(徳川)家定は「年にしては子供のようで・・・」(史書「安静記事」から意訳したとのこと)と・・・。
将軍はその時すでに30歳を超えていたはず。
小説では「病弱で、癇癪もちで政務を司るにはあまりにも不適な体力、性格であった」としています。

あれやこれらと考えているうちに「感想文」を書く気が失せてしまいました。

史実を解きほぐすのがNHKのこの番組であり、作られた小説・物語の類は、諸説がある中でどの説に拠るか(NHKの場合は、例えば「西郷隆盛の書簡」から・・・という注釈などがある)によってニュアンスが変わってくるということでしょう。
以前の「功名が辻」でもそのことはいえました。

作家も、時代考証を重ねて筆を執るのでしょうから「根拠」や「出所」などを添えてもらうと“ふむふむ 諸説があるんだなっ” と納得して読み進むことができるのですが。
逆に、これだけ著者が調べたんだよ・・・と言わんばかりにその根拠をくどくどと挿入してあるとうんざりすることも多々ありますが。

「小説」などから得た知識を、いたずらに周囲に振り回すと失笑を買う場合があるということでしょうね。
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by m-morio | 2008-01-22 19:21 | | Comments(0)