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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

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奈良県桜井市に住む友人がいる。
高校時代の同級生で、確か、クラス替えがあっても2年間は一緒だったと記憶する。
その彼とは、卒業後音信が途絶えた。
その時期の私はというと、受験に失敗して浪人生活であった。
彼は期するところがあって京都へ出た(後で分かったことではあるが)。

その後四十余年なんらの交流もなく長い年月が流れた。
その彼から一枚のはがきをもらったのが3年前のこと。札幌に行くから会おう・・との便りだった。
Gホテルのロビーで会った彼は高校生時代の面影を残した還暦を過ぎた紳士だった。

音信が途絶えたのには、お互いにそれなりの事情もあった。
学校を介したお付き合いの場合、多くの場合、同窓会名簿などを通してその消息が分かることが多い。
同窓会会報には、彼の「消息が分かったら、知らせて」との文言を何回か目にしていた。
私としてはなす術がなかった。

ところが、彼の場合「姓が変わっていた」。
奥様の実家の家業を継いだのだった。おまけに、関西で活躍する同窓生とも接触がなかったようである。
私のところに連絡があったことから、すぐ「捜索願い?がでているぞ・・」と連絡し、最寄りの同窓会支部をお知らせした。
まあ、そのせいばかりとはいえないが半世紀近くも連絡がとれなかった。

家業は、還暦を迎えたのを機会にスッパリと閉鎖したのだとか。
余力を残しての決断だったようである。
長年の趣味である登山三昧の日々を送っている。ネパールまで出かけていく程入れ込んでいる。
以後、毎年札幌を拠点にして道内の山々を制覇しているので、毎年会えるという楽しみが加わった。

このたび、その彼が、突然電話をくれた。今札幌だという。例年だと8月のはずなのだが。
身内に不幸があっての出札であった。

しばし歓談するうちに、かれの懐の深さを改めて感じ入った。
私は、生来人付き合いが上手ではない。嫌いなわけではないのだが・・・。積極的に会合に出たりはしない。
そんな私の性分もあって、高校の同窓会には一度も出席したことがないのである。
自慢にもならないのだが。。。

その高校の同窓会が札幌で昨年開かれた。
当然(笑)欠席した。
彼は、関西在住の同期生を伴って来札した。その札幌滞在中に、義理のお母さんの様態が急変したとかで急遽桜井に戻ったためその年は会えずじまいだった。

私としては、札幌に居ながら欠席した負い目を感じていたので、今回それとなく話題に載せた。
そのときの彼の反応が嬉しかった。
そんな私の気持ちを誠に大らかに受け止めていてくれていることが言葉の端はしに伺えたのである。

さらに、別れ際に「孫さんの顔を見に京都へ出たときは連絡を・・・」と・・・。
自分が京都まで出向いても一向に差し支えない。
京都は自分の青春そのものであり(大学生活や奥様との出会い、大恋愛の末結婚されたとことは彼の回顧談のなかから伺えるのだが・・)地理的には隅々まで承知しているから・・・とまで言ってくれる。

毎年、京都を訪れていながら、電話一本いれずにいた私を咎めるでもなくさらりと言ってくれる。
誠に申し訳ない限りである。

本当に懐の深い友である。
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by m-morio | 2009-06-29 19:27 | 日々雑感 | Comments(0)
◇二つの大戦f0020352_13535796.gif
南北戦争終結後の19世紀後半のアメリカは、欧州諸国から距離をおき、孤立主義をとり、大陸での経済的体力を蓄えた時期である。

 20世紀前半は、わずか20年の間隔をおいて二度の世界規模の大戦争が起こった時代だった。
第一次世界大戦(1914~18) と 第二次世界大戦(1939~45)である。

 第一次世界大戦は、急激な経済成長を背景に世界秩序の再編を求めるドイツと、世界中に膨大な利権を持ち、ドイツの進出を阻止しようとする英、仏の戦争だった。
この戦争は、一般市民を巻き込む総力戦となり、大規模な戦闘と破壊が繰り返された。
その結果、ヨーロッパ諸国は、それまでに蓄積した富を一気に消費した。

戦争は、それまで武器や食料の大補給基地となっていたアメリカが1917年にイギリス側につき、ドイツ側の敗戦に終わった。

戦争に疲れ果てたロシアでは、1917年の二つの革命(三月革命、十一月革命。革命は成功したが経済状況はいっこうに好転せず、右往左往しながらスターリンの独裁体制に進む。)でロシア帝国が崩壊し、世界初の社会主義政権が誕生した。

戦後、ヨーロッパでは、イギリス、フランスが、ドイツの戦争責任とその代償を求め、到底払えないような巨額な負担をドイツに課した。また、ロシアにできた社会主義政権を打倒して、戦前の繁栄を取り戻そうとした。

世界経済の主導権を握ったアメリカは、ドイツへの大量投資でヨーロッパ経済を支え、さらに中国の民族運動を支援することで、中国への経済進出を目指した。
国際秩序の安定はアメリカの肩にかかっていたのである。

しかし、この戦後の秩序も、アメリカのウォール街から世界中に広がった「世界恐慌」(1929年10月株価大暴落)で大きく揺らいだ。
ドイツでは、経済が破綻し、無力な議会に失望した人々がナチス支持に回った。(1934年、ヒトラーが総統に就任)
政権を握ったナチスは、経済の建て直しを実行し、東欧での勢力拡大に乗り出した。

ドイツがポーランドに侵攻(1939年9月)したことから、イギリス、フランス、イタリア、ソ連などとの戦争が再び始まった。
その頃、日本は、満州事変、日中戦争を起こしていた。
日中戦争が泥沼化するなかで日本がとった東南アジア進出策は、アメリカとの対立を強め、太平洋戦争(1941年12月、真珠湾攻撃。翌年のミッドウエー海戦で大敗。)が勃発。
結果として、アジアとヨーロッパの戦争が一つになって第二次世界大戦に発展した。
大規模な総力戦と原爆投下という悲惨さは、第一次世界大戦とは比較にならず、世界中が荒廃した。

第二次世界大戦後、アメリカ主導で政治、経済の秩序が形成された。
ドルが世界通貨として公認され、世界経済の基盤が整えられた。

しかし、東欧、東アジアに社会主義が広がったことからアメリカとソ連の対立が激化し、「冷戦」が始まった。
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by m-morio | 2009-06-24 13:59 | 市民カレッジ | Comments(0)
◇ 領土の拡大 
1783年、パリ条約で独立を果たしたアメリカ合衆国だが、独立時の領土は大西洋岸からミシシッピー川までだった。それが、急速に領土を拡大していく。
1803年、フランスからルイジアナ西部を買収。(ミシシッピー川からロッキー山脈までの地域)
1818年、イギリス領カナダとの国境線を確定した。
1846年、テキサスを併合(アメリカ・メキシコ戦争) 同年、カリフォルニアの北オレゴンをイギリスより併合。
このように西へ西へと領土を拡大していった。f0020352_18161478.jpg

◇ 南北の対立
 西部開拓が進展し、西部に新たな州が誕生していくなかで、北部諸州と南部諸州の対立が激しくなっていく。
対立の要因は、両地方の産業の違いであった
北部では商工業が発展しつつあった。一方、南部では、奴隷を使った大規模農場経営が産業の中心であった。
工業が発展しつつあった北部の工場経営者にとって、ライバルはイギリスの製品であった。
安くて質の良い綿織物などの工業製品が、イギリスからどんどん輸入されては自分たちの製品が売れない。そこで、イギリスからの輸入品に高い関税をかけて、北部の工業を保護するよう政府に求めた。(アメリカが関税を引き上げれば、イギリスも対抗して引き上げることが予想された) いわゆる、保護貿易。
そんなことになると困るのが南部。南部では、綿花などの農産物をイギリスに輸出していた。イギリスが高い関税を掛けると困るのである。南部は、保護貿易に反対し、自由貿易を主張した。
この貿易をめぐる南北の対立をさらに激しくしたのが西部開拓であった。
フランスやスペインから獲得した新領土は、特定の地域が、人口が増加し一定の条件を満たすと、新たな州に昇格することになっていた。この時に、その新しい州に奴隷制度を認めるかどうかが大きな問題になったのである。
こういった問題については、南北間で妥協するというやり方で収拾してきたがそれも限界になっていく。
 対立は、経済的な理由だけではなかった。
南部での奴隷制度も対立の大きな要因であった。
「独立宣言」の「すべての人は平等につくられ・・・」という言葉とは相容れないのである。
1860年の大統領選挙で、奴隷制度の拡大に反対する共和党のリンカンが当選し、ついに内戦に突入するのである。

◇ 南北戦争(アメリカでは”内戦”というが)
 リンカンが当選すると、奴隷州の南部11州は「アメリカ連合国」を結成し、合衆国からの分離を画策する。
しかし、リンカンは大統領に就任すると南部諸州の離脱を認めず、1861年南北戦争が勃発する。この時点での戦争の目的は、南部の分離独立の阻止だった。
f0020352_18191856.jpgこの時、北部の人口2200万人、南部は950万人(うち350万人は黒人奴隷)。工業の力がある北部が優位のはずが、南部の粘りで苦戦。1862年、初めて黒人兵18万人を採用し、1863年に「奴隷解放宣言」を行った。南北戦争の勝敗を決定付けたのが、1863年の「ゲティスバーグの戦い」。
4万5千人が戦死したといわれる。
1865年、南軍が降伏。両軍死者61万8千人。(参考までに、第二次大戦における合衆国の戦死者は31万8千人といわれる)南北戦争が合衆国にとっていかに大きな事件だったか・・。
以後、合衆国は北部の商工業を基礎に発展していく。

日本とのかかわりを・・・少しだけ
1853年、合衆国海軍ペリー提督が浦賀に現れる
1854年、日米和親条約
1858年、日米修好条約・・・日本の「鎖国」が終わる。
武力を背景に無理やり鎖国から開国させた合衆国も、以後幕末には日本に登場しなくなる。
南北戦争で、それどころでなかったいうことであろう。
それにしても、明治維新の直前まで合衆国では「奴隷制度」があったということは驚きである。
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by m-morio | 2009-06-17 18:21 | 市民カレッジ | Comments(0)
独立戦争
 ヨーロッパで七年戦争(1756年~63年)が行われていた同じ時期に、植民地では、フレンチ・インディアン戦争(1754年~63年)が勃発した。
イギリスとフランスの戦争である。
この戦争の原因は、北アメリカの領土の奪い合いであった。
戦争の名称は、フランスがアメリカ・インディアンと同盟を結んで、共同でイギリスと戦ったところからついた。
アメリカ・インディアンにとってみれば、土地を奪うイギリスの植民者はにくいが、フランスは毛皮交易などを目的に植民地経営をしていたから、利害の対立はないのだ。

フレンチ・インディアン戦争は、イギリスの勝利で終わる。
勝ったイギリスは1763年の「バリ条約」でルイジアナを獲得した。これでフランスは北アメリカの植民地を失った。
イギリスが勝って、13植民地の人達はさらに、内陸部を開拓して、農地を広げることができた。
 ところが、1763年、本国はイギリス領になったルイジアナ地方を政府の直轄地として、13植民地者が入植することを禁じた。(この境界線を「国王宣言線」という)
植民地の人達はこの宣言線に対して反発した。  これが本国との最初の衝突であった。






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by m-morio | 2009-06-16 11:53 | 市民カレッジ | Comments(0)
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◇ 植民地化の競争とイギリス領13植民地

北アメリカ大陸には、先住民アメリカン・インディアンが住んでいた。
その数約100万人とも、200万人とも言われる。 部族数は500といわれるが国家を形成していたわけではない。 要は、バラバラで、生活様式も部族ごとにさまざまで、狩猟生活あれば、農耕生活の部族もいた。

ここにヨーロッパからやって来たのが、スペイン、フランス、オランダ、イギリスであった。

 スペインは、北米大陸の中西部を領有する。しかし、形式的なものに過ぎなかった。

 フランスは、ミシシッピ川沿いを領有する。ルイジアナ。
フランス人は、先住民との毛皮取引中心の植民地経営を行ったので、先住民の土地を奪うことなく、両者の関係は比較的良好であった。

 イギリスの場合は、東海岸沿いに植民地を建設した。
イギリス人たちは、家族ぐるみで移住してきて、先住民から土地を奪って、農業を始める。ここが、スペインやフランスと違った。
 まず1607年に入植し、「バージニア」と命名された植民地を開いたのを手はじめに、イギリスは大西洋に沿って多くの植民地を開いた。
いろいろなグループが移住してきて植民地を建設し、イギリス政府から場所を指定した許可状が交付された。
たとえば、1620年に、本国での宗教的迫害を逃れてオランダに移住していたピューリタンなど約100名(うちピューリタンは41名)がメイフラワー号に乗り、現在のマサチューセッツ州に上陸して、プリマス植民地を開いた。
注)「ピューリタン」・・イギリス国教会に不満を持つ人達で、イギリス国教会を純粋な(ピュアーな)ものにすることを求めたのでピューリタンと呼ばれた。
だが、基本的には植民地同士の横のつながりはなかった。
1626年頃にはオランダの植民地、ニューアムステルダムの建設が始まっていたが1664年にイギリスが占領し、ニューヨークと改名した。
以後各地に植民地が建設され、
1732年にジョージア植民地ができ、その数13の植民地が成立した。
この13植民地が発展して、現在のアメリカ合衆国になるのである。

本国イギリスは13植民地をどのように支配していたのか。
実は、本国政府はこれらの植民地にはあまり関心がなかった。
植民地の人達の生活に、規制や干渉を加えなかった。税金も取らないのである。その代わり、政府としてのサービスもしないという状態だった。
必然的に、植民地の住民は、政府を頼らず、全部自分たちでやらなければならなかった。そのため、早い段階から植民地で議会が成立した。

政治的にも、自主自立、自助努力が植民地の人達の当然の生活態度だった。即ち、自由な気風が尊ばれるようになっていく。イギリスの一部でありながら、イギリスとは違った文化風土が生まれていったでのある。

産業も徐々に発達していく。
北部の植民地では、商工業が発達する。農業は、自営農民が主流となる。
南部の植民地では、プランテーションが発達する。タバコ、綿花などの大規模栽培が行われた。これらの農作物は、多くの人手を必要とした。そのために、労働力不足を補うために、南部では奴隷制度が発達した。
奴隷はアフリカからつれてこられた黒人たちだった。おなじイギリスの植民地でも北部はプランテーションがないので、奴隷制度もなかったのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この後、独立戦争、南北戦争へと続く。
更に、第一次大戦、第二次大戦、、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争・・・
と進む予定だが、第一次、第二次大戦については簡単に触れて通過したいと考えているのだが。。。
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by m-morio | 2009-06-15 18:48 | 市民カレッジ | Comments(0)
パソコンが不調なうえ、プリンターまでおかしい・・・写真に筋が入りだした。
E社製のこのプリンターは8色・顔料で小型ながらなかなか性能の良いものである。
05年から使っていて、去年のプリントヘッドの目詰まりが始めての修理だった。
1年経たずしてまた不具合となった。

まずプリンターを修理することにしてインターネットでその手順を調べた。
前回は、集荷→修理→返送というサービスを利用したが1週間もかかってしまった。
今回は、時間短縮の意味で「持ち込み」とした。

小型だが結構重い。8㌔ぐらいある。ビルの10Fまでよっこらしょっ・・と運び込んだ。

受付で、まず機種をチェックされ、9450円が一律の料金だという。
えっ、そんなー。

前回は集荷してもらって総費用5700円程度だったのに・・・。
今年の2月に料金を改定したという。
(この種の機器の修理や部品は、高機種程費用がかかるようである。)

さらに、2~3日お時間を頂きたい・・という。
<ここで押し問答>
ちょっと待ってよ。
急ぐから持ち込んできたのにそんなに待てないよ。
この会社のHPでは、1~2時間のクイックサービスをするとあったではないか。

私は、争いごとは好まない。
でも、言うべきことは言っておかないと”腹膨るる”思いで後で後悔するから。

結局、”お急ぎでしたらご希望の時間内に対応させていただきます”ということで、2時間の約束をした。
そして、帰り際に、引き取りに来て頂きますと1000円引きです

・・・という。

料金のことといい、所要時間のことといい説明が "とろくさい" (こんな言い方ありましたか?)。
結局、8000円プラス税となった。
(故障箇所の部品を取り替えたのだが、その説明はない。処理表になにやら記号で部品名が印字されている。)

ではパソコンの修理はどのくらいの費用と時間がかかるか心配になった。
メーカーのHPによると故障の内容にもよるが3万~5万円もかかるらしい。

ダマシ騙し使っているパソコンだが、そろそろドック入りさせねば・・とは思うのだがこの料金を知って、また腰が引けた。

あの「定額給付金」は何時入金になるのかなぁ。 

多分、今月は無理だろうなぁ。 なんたって スタートが日本一遅いらしいから・・札幌市は!

家内と娘はそれぞれ "私の分" ・・というだろうから、私が使えるのは2万円だけだろうしなぁ。

・・・・と思案投げ首である。

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by m-morio | 2009-06-13 11:25 | 日々雑感 | Comments(0)
大失敗だった。
気が付いたのは10日前。
カレンダーを6月にめくったときだった。
11日木曜日はダブルブツクなのに気が付いた。

持病の定期健診と市民カレッジ講座の時間が見事にダブってしまった。

カレッジは変更不可能である。

では、病院の方は・・・・・。
これもなかなか難しい。
担当医の診察日、時間には制限がある。
ましてや、担当医が総合病院の院長先生になってしまって・・・不遜な言い方だが・・・超多忙となった。

診察日が迫っている。  薬が切れている。

変更は厳しい。


泣く泣くカレッジを諦めた。

定期健診は8週間間隔で木曜日が診察日。
一方、私が受講するカレッジは春・秋・冬の年3回で、開講は木曜日と決まっている。

それぞれを漫然と予約していると今回のようなことになる。

今は、手帳など持ち歩かなくなった。

この程度のことは頭に入っているつもりでいたのが大失態を引き起こした。 

猛反省している。
f0020352_19133264.jpg写真は・・・私の散歩コースの公園内の今の様子です。新緑真っ只中です。
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by m-morio | 2009-06-11 19:16 | ひとりごと | Comments(0)
ある作家の少し長めの随筆を読みました。

面白い話が載っていましたのでご披露します。
この随筆は400字詰め原稿用紙20枚程度あります。かいつまんで転載しす。

お節介ですが、わざわざこの一文のために文庫本といえども買い求めるのも煩わしいでしょうから。。。。。

この著者はほぼ毎日ランニングをし、時折、フルマラソンにも出場するといいます。
著者が、マラソンなどに”出場する立場から”日本とアメリカのマラソン(5,10キロレースを含む)を比較しています。
時代は少し古く、1991年から約2年半にわたってニュージャージー州プリンストンに住んだころの話なのでこの辺をご理解のうえ読んでいただきたい。
多少、表現が原文と異なる箇所がありますが、著者の趣旨には副ったつもりです。

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by m-morio | 2009-06-10 09:21 | | Comments(0)
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ぶらりと立ち寄った書店の入り口に沢山のDVDが陳列されていた。
何気なく目をやると、ずいぶん古い映画のものだった。

その中に 映画「風と共に去りぬ」(原題:Gone with the Wind)があった。
これだっ! いま、現代史の講座で「アメリカ」を取り上げている。

昨日、そのPart1をブログに載せたばかりである。
追って、独立戦争、南北戦争と順に整理していくことになる。
その南北戦争真っ只中の大牧場を舞台にした”あの映画”である。

1939年(私が生まれた年)に公開されたヴィクター・フレミング監督作のアメリカ映画マーガレット・ミッチェルによる同名の世界的ベストセラー小説『風と共に去りぬ』を映画化したもので、全編で3時間42分という大長編で当時空前のヒットを記録した。

390円!!!  その値段を見てビックリ仰天 
間違いではないだろうか?・・・と店員さんに聞いてみたら・・・こういうことらしい。
日本においては著作権の保護期間が完全に終了したことから(公開後50年と監督没後38年の両方を満たす)、激安DVDが発売されたとのこと。
パッケージの(注)に「この作品は制作されて50年以上経過しているため、原盤のフィルムの状態によっては見づらい部分、聞きづらい部分があることをあらかじめご了承ください。」とある。
画質はあまり気にならないが、確かに音質は落ちる。

あらすじは・・・
舞台は、南北戦争に揺れるアメリカ。ジョージア州タラの大地主ジェラルド・オハラの長女、スカーレット・オハラの波乱に満ちた愛と人生が描かれる。
・・・・・・。
ということなのだが・・・

さて、私はこの映画を見たのだろうか? 

日本での公開は1952年(昭和27年)である。この頃は中学1年。
勿論、この時期に見ているはずはない。では、何時見たのか・・・全く記憶が無い。
それとも、余りにも有名な映画であり、ストーリーなどを活字で読んだのかも知れない。

“見た”・・というのは錯覚なのかも。。。。と思っている。

半ばまで見た。・・・小休止してこのブログを書いている。 

どうやら "見た" ようだ!

残り 2時間 だ。f0020352_19294618.jpg

余計なことを追記しておくと
この題名の意味

「南北戦争という「風と共に」、当時絶頂にあったアメリカ南部の貴族的文化社会が消え「去った」
ことを意味しているという。
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by m-morio | 2009-06-09 13:01 | 市民カレッジ | Comments(0)
2009年夏 現代史
 現代史の講座を受講していて思うのは・・・
歴史の講座ではあるが、講師の意図するところは
「現在直面する諸問題を、その歴史を少しだけ遡って理解を深める。」というところにある。
従って、受講する私の感覚としては、歴史というよりも「世界情勢」の講座と受け止め、講義を聴き、参考本を紐解いている。

今回は、4回にわたって”アメリカ合衆国”を取り上げる。(以下、”アメリカ合衆国”をアメリカと表記する)
これまでは、殆んどが1回(1講座=2時間)で1カ国を対象としてきたのて、その意味では一寸長丁場になる。

 現在の世界情勢は、アメリカの存在を抜きにしては語れない。
その影響力の大きさはますます増大する感があった。
だが、今、転換期に差し掛かっているのかもしれない。
アメリカに端を発した世界的金融危機、そしてついにはGMの破綻である。f0020352_13414678.jpg
写真: GM本社(カナダ側から) 手前は国境を流れるデトロイト川
広大な領土を有するアメリカは、全ての発想の基本が 「大きい」 。
GMの車両の大きさ、広大な土地を耕す農業、身近ではステーキの大きさ・・・(アメリカに行ったことは無いが、テレビなどではそう伝えられるので・・・。)
わが国のように国土が狭い国の発想とは違うのであろう。
だから、車一つとっても、小型化、効率化、省エネといった発想には結びつかないのかもしれない。
面積は、日本の25倍もあるのだから。。。

そのアメリカを真っ向から取り上げるというので、少し荷が重いのでは無いかとさえ思っている。
しかし、講師は言う
”アメリカの歴史は、遡っても高々400年です。その頃の日本は江戸時代なんです。そう考えれば腰が引けることはない”
と・・・。

ともかく最近の話題から入ろう。

◇オバマ政権スタート
 1月にオバマ政権が発足した。
アメリカでは、政権発足後最初の100日が民意を掴む最も重要な期間と言われている。
既にこの期間を経過している。
オバマ政権は、深刻な金融危機、イラクやアフガニスタン問題など、数々の負の遺産を受け継いでスタートした。更には、新型インフルエンザの蔓延というおかけまで付いてきた。

 最大の課題は、経済危機であろう。早速、「景気対策法」を成立させた。
この法律では、公共事業による雇用の確保や、人口の90%を占める中流以下の家庭を対象とした減税を中心にすえている。
また、低金利の住宅ローンを用意して、住宅ローンを払えなくなった人々を救済する方法も発表した。(これが救済策となる理由が良く理解できないか・・)
一方、将来を見据えた産業の育成策も打ち出した。

一連の政策には莫大なお金がかかる。
すでに手がけた金融機関の救済、大手自動車メーカーの救済・対策を含める今年度の財政赤字は過去最悪になると見られている。

 外交政策はどうか。
直近では「北朝鮮問題」があるが、オバマ政権はやや静観の姿勢を続けている。
北朝鮮が、アメリカとの直接交渉で、経済支援を取り付けたいとの狙いなのだろうが、オバマ大統領は動じる様子は無い。
優先したいのはアフガニスタンなのだろう。
その理由は、今のまま放置しておけば、再びアメリカ本土や同盟国に対するテロ攻撃の拠点になりかねないと考えているからである。
取り敢えずは、イスラム原理主義組織タリバンに再び政権を握らせないこと。
そして、アフガニスタンを「アルカイダの聖域にしないこと」である。

しかし、タリバンやアルカイダは、隣接するパキスタンでも急速に勢力を拡大している。
この問題は、アメリカ一国だけで解決できないという基本認識に立っていて、日本を初めとする同盟国ばかりでなく、敵対関係が続いているイランや「新冷戦」といわれるほど関係が悪化しているロシアも巻き込んだ国際協調体制の構築を目論んでいる。

ただ外交に関しては基本姿勢を打ち出しているが、具体的な政策づくりまでには至っていない。
理想だけを掲げただけで、行動計画が伴わないとの批判もある。

ともかくも、今後急速に経済が回復する可能性は小さいと見られるだけに、オバマ政権にとっては、大きなプレッシャーの中での、全力投球が期待されている。
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by m-morio | 2009-06-08 14:00 | 市民カレッジ | Comments(0)