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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

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初めて(笑) 70歳 になりました 



近況を・・・



写真→
考えるところあって また 頚部の不調もあって 教室を退会しました。よって写真展への参加の機会がなくなりました。




お勉強→
生涯学習センターでの「現代史」の受講は3年余続いています。 こちらはまだまだ続けていけそうです。
博士号(?)を目指して!!f0020352_10122068.jpg




体調→
持病を抱えてほぼ15年なんとか落ち着いています。頚部の不調も最近は少し小康状態です。そろそろ外でのウオーキングをプールに切り替えようと思っています。




5月に 古希のお祝いに・・・と 子ども達が沖縄旅行に連れて行ってくれました

3家族で 1週間も・・・

楽しかった! 嬉しかった!


札幌は インフルエンザ が 猛威をふるっています
休日の当番医はてんてこまいだとか・・・

予防接種は 1月以降でなければ受けられそうもありません
なんとか それまで 罹患しないようにしなければ・・・

その頃 もうこの猛威も下火になって 予防接種を受けようか どうしようか と 悩むほどになっていればいいのですが。。。

それにしても 2回で6千円 の負担は なんとかなりませんかねぇ~


一病息災 平穏に 過ごしています


そうそう

前回まで 脳死だの心臓死だのと 臓器移植法改正 に引っ掛けて 書きなぐりました

改正法 や 脳死 に関する書物 は なかなかでてきません
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by m-morio | 2009-10-29 10:28 | 日々雑感 | Comments(0)
◇まとめ
いろいろ書きましたが
誤解のないように 敢えて 追記しておきますが

歴史的に見ると
脳死が先に、医療の世界に登場してきました。まず、“脳死ありき”です。f0020352_95787.jpg
移植医療はそのあとを追って表舞台に出て来たにすぎません。
脳死という状態がある。
そしてそれが人にとっての死であるならば、臓器を移植に使わせてもらえないかというのが移植医療の出発点です。
この意味で両者に関連はありますが、それが脳死が死であることによって、そのうえに移植医療が成り立つという関係です。
その逆・・・つまり、移植医療を成り立たせるために脳死を存在させたり死と規定したりということではありません。

とにかく、これは 難しい問題 です。
倫理観、価値観・・・多くの要素が絡み合ってドナーが増えない。 日本では。。。。

さて、私的なことに触れておきます。

その前に

まずドナーになるにはいろいろ制限があります。
大まかには
心臓=50歳以下、肺=70歳以下、腎臓=70歳以下、すい臓=60歳以下、小腸=60歳以下
といった具合です。
個人差もあるので、これらの年齢を超えても医学的判断で提供可能な場合もあったり、逆に年齢制限をクリアしていても病歴などによって、提供できない場合もあるとのことです。
ただ、角膜(眼球)は提供側の高年齢による制限はないようです。
老衰であろうと、ガンで亡くなってもOKらしいです。

私は今月古希を迎えます。
その点では提供者としてはほぼ失格と言って良いのかもしれません。一部を除いて・・・。
(レシピアントになるつもりはありません・・・ので受ける側のことには触れません。)

ドナーになるか否かは別として
私は、現状では脳死を人の死だと言われても納得していません。
従って、提供者にもならないし、提供を受けようとも思っていません。

現時点は・・・ですよ。

理由ですか?
本人は、脳死であろうと心臓死であろうと、死と同時に何の意思表示もできなくなります。
例え、臓器を取り出されても痛くも痒くもない。
人様の役に立つのであれば(提供が可能であれば)、全ての臓器を使ってもらっても差し支えないという気持ちは持ち合わせています。

しかし、今のわが国の様子をつらつら思い起こして見ますと、提供することで事が穏便に済むとは思われないのです。
仮に、夫が死亡し、妻が臓器の提供を「可」と判断したとします。
葬儀に集まった親類縁者(見舞いにも来なかった人たちも)は、寄って集って妻を非難するという構図を想像するに難くない。(一般論ですよ・・・)

移植に関しては、関係者の匿名を尊重されているようです。
しかし、マスコミは信用できません。あの手この手で調べ上げ、執拗に追跡するようです。
今後の臓器移植の発展のために・・・とかなんとか理由をつけて。

こんなことに遺族は耐えられるのでしょうか。
だから、移植に関係した人たちは(ドナーであれレシピエントであれ)その事実を隠そうとします。

いろいろなご意見もあるでしょう。

遺された家族は、動揺と混乱、疲労のなかにいます。
しかも、人工呼吸器で、心臓が動き、体が温かい状態で、本人の身体にメスを入れて、臓器を取り出したい・・・という打診を医者から受ける家族のことを想像してみてください。
見方によっては、何と残酷な場面でしょうか。

提供「可」であろうと「否」であろうと、最終的には遺された家族が判断をしなければならないのです。
“究極の決断”を迫られることになります。
その心情を推し測るとき、「そんな辛い判断」を最後の最後に遺すことが良いものか・・・と考えます。

過去に提供に同意した遺族が、何年経っても
「提供することに同意したことが本当に良かったのだろうか?」
と思い悩んでいる・・という話を聞くと、なおさらです。

ですから「臓器の提供はしない」と遺しておけば、家族も周囲も”本人の意思”だから・・・と納得するのだろうと思っています。

それでも今、ドナーカードに署名していません。

冒頭に書いた諸々の疑問は一部しか解決していません。

改正後3ヶ月。施行されるまで後9ヶ月ほど。
そろそろ識者がいろいろな書物で解説して、残った疑問を解決してくれることでしょう。

その気になれば高齢者でも限定的に提供はできますが・・・

急ぐことはない!! ゆっくり 考えよう ・・・

いや! 待てよ!

古希目前のわが身を考えたら、あまりのんびりしていられないのかも。。。。。

(完)
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by m-morio | 2009-10-04 10:08 | 日々雑感 | Comments(0)
◇脳死と人口呼吸器
ところがここに「脳死」という新しい「死」が登場しました。
「人工呼吸器」というものが開発された結果の産物です。f0020352_10141398.jpg
頭部の外傷とか脳梗塞、脳溢血などが原因で、心臓などは大丈夫なのだが脳だけが先に死んでしまうということが起こりえる。
人工呼吸器というものが無い時代であれば、脳が死ねば呼吸が止まり、心臓が酸欠状態に陥って動けなくなるという一連の反応が極めて短い時間のなかで引続いて進行し、前記のように、心筋梗塞で死亡するのと現実的にはほとんど違いが生じなかったのです。

人工呼吸器の開発によって事情は一変しました。
(この機械は、本来は、患者の自発呼吸を回復させるまでの”つなぎ”として考案されたものだったとのこと・・・・。)
要は、人体が行う自発呼吸の代わりに呼吸を自動的に繰り返す機械です。

脳が死んで呼吸が止まる。その時この機械を使うと脳が死んでいるにも拘らず、血液に酸素を送ることができるので、心臓はそのまま動き続けます。
心臓は自立性があって、脳から直接指令を受けていないため、人工的に呼吸が行われて酸素の補給が途絶えなければ、心臓は従来どおり、拍動を繰り返していけるのだそうです。
このような状態のとき、人工呼吸器をはずすと、もう自力で呼吸する力はないから、やがて心臓も停止するのです。 

良く耳にするのがこの「人工呼吸器」のスイッチををいつ切るか・・・ですよね。

ところが、どこの病院でも脳死という状態が起こるのではないようです。
まず、人工呼吸器を持たない診療所などでは、脳が死ぬとそのまま心臓停止へと進んでいきます。

従って、脳死が発生するのは、
交通事故や脳溢血で患者が緊急に運び込まれる設備の整った救急センターや脳神経外科での可能性が多い・・・ということになるようです。
もちろん、搬送された全ての人が脳死になるわけではないでしょう。救急病院への搬送が遅れたり、人工呼吸器が塞がっていたりという偶然も影響して、脳死を経ないで、心臓停止に至るという状態を想定できます。

注)植物状態との違い
「植物状態」というのは、意志の疎通ができず、自力で移動、食物摂取もできない状態のこと。目で物を追うことはあるもののそれが何かを認識することができず、声を出すことはあっても意味のある言葉を発することはない・・・などの特徴を持った状態。
「脳死」は、いかなる刺激にも反応せず、瞳孔は拡大し、自発呼吸がなく、脳波も平坦な状態。

◇性急すぎないのか
ところで今回の臓器移植法の改正は、少々急ぎすぎではなかろうかという感触は否めません。
改正案は、平成18年に中山太郎衆議院議員が提出したものだとか。
しかし、その後どれだけ真剣に議論されてきたでしょうか。報道によれば、わずか三週間の討議・・・という。

今の臓器移植法ができて12年。施行から3年後に、法律の見直しが行われるはずであったとか。
しかし、現実には11年あまり店ざらしの状態だったのです。

ようやく先の国会で議論は始まったものの、死に体の麻生内閣では、まず採決ありきの議論だったように感じています。

さらに、短い議論の中でもその軸足が“臓器の提供を受ける側”(レシピエント)に置かれていたと感じたのは私だけでしょうか。

臓器移植に関する世界の動きが厳しくなってきて外堀を埋められつつあるという事情も理解できます。
(WTOは外国に依存することなく、自国での調達を促す方向性を打ち出しました。)

外国で移植手術を受けたいため、国民の善意の募金にすがり億単位の資金を必要とするという事情にも同情を禁じえません。
かといって、簡単に年齢制限を外すことが良いのでしょうか。

法律は改正されましたが、国会には(あえて言うならば、民主党政権には)、これからの臓器移植のガイドラインの策定に向けた十分な議論を続ける責任があるのではないでしょうか。

(つづく)
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by m-morio | 2009-10-03 10:25 | 日々雑感 | Comments(0)
◇人の死
ふつう、死といえば、心臓が止まることと理解しています。f0020352_8513850.jpg
私の体験(父の死)からすると、臨終間近になると、医者が、聴診器で心臓の鼓動を聞き、生死の境目を確認する。合せて心電図をとって(見て)、心臓の鼓動が止まった、音が聞こえなくなったということから死の訪れを確認していました。
これが一般的な「死」の現場ではないでしょうか。

医学的には・・・
例えば、心筋梗塞で心臓が止まってしまう。
すると、血液が循環しなくなり、脳に甚大な影響を及ぼす。
脳という組織は大量の酸素を必要とする臓器で、血液が循環しなくなると、たちまち酸素不足に陥ってしまう。
脳は機能を停止し、その状態が3~5分も続くと脳細胞そのものが死んでしまい、永久に生き返ることは不可能になる。
脳が死ねば呼吸が止まる(呼吸は脳の呼吸中枢に支配されている)。
そして瞳孔も開いてくる。
従って、医者は心臓の様子だけを見て死の宣告を行うのではなく、脳がもはや回復不能に陥ったことを確かめて臨終を告げているようです。

一般的に、心臓死という状態には「三徴候説」と呼ばれるものがあるそうです。
すなわち
1呼吸の停止
2心臓の拍動の停止
3瞳孔の拡大
です。

患者の心臓死が認められると、医者はその時点で治療を中止しますが、それは社会が心臓死を死と認めているからなのでしょうね。
わが国では、心臓死が認められても24時間は火葬できないことになっていますね。
あくまでも念のためです。その後も、毛髪や爪はのびると言いますし、朽ちるには程遠い状態です。
究極の意味ではまだ身体全体が死んでいないということなのでしょう。
心臓死はいわば社会の都合で決められた死といえるのかも知れません。

ところが、この心臓死をもって死とする法律はないのだそうです。
驚きました。始めて知りました。
心臓死をもって死とすることが長い経験によって習慣的事実となって、社会に広く認められるようになったのでしょう。

人が死んだかどうかは医者の判定にまかされていて、いつ死んだか(死亡時間)、なぜ死んだか(死因)は、医者の判定によることになっています。

結局、「慣習法」なんですね。
だから、慣習が変わればその判定も変わる可能性がある。そして、成文法と違って、慣習法を変える手続きがあるわけではないのです。

このことは、「医師法」「戸籍法」などの成分法で裏付けられている・・・とのことなので、各法律を紐解いてみましたら
「戸籍法」では、人が死亡したら、死亡診断書を添えて市町村役場に死亡届を提出しなければならない。
そして、「医師法」には、この死亡診断書は、診断した医師のみが発行できることとされていました。

(つづく)
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by m-morio | 2009-10-02 08:54 | 日々雑感 | Comments(0)