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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

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浄瑠璃や歌舞伎で演じられる「仮名手本忠臣蔵」に端を発する。

江戸時代中期、江戸城内の松の廊下で、赤穂藩藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)が、高家肝煎・吉良上野介に切りつけた刃傷沙汰。

この松の廊下事件で、加害者とされた浅野は即刻切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとの沙汰が出た。
当時の喧嘩両成敗という前例からすると異例の裁きであったと後世語られる。

公儀が下した理不尽な決定に抗して、家老大石内蔵助をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日の本所・吉良邸への討ち入りおよびその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として「忠臣蔵」という言い回しが使われているようである。

小説などによると、吉良側の人数は、討ち入りありとして準備を整えて、その人数は応援組を含めて赤穂側の3倍以上とも言われる。
にもかかわらず、四十七士は誰一人欠けることなく凱旋しているのは、考えてみれば不思議な話ではある。

それはそれとして・・・・

先日、映画「最後の忠臣蔵」を観ました。

実は、この作品が小説を映画化したものとは梅雨知らず、暇に任せての鑑賞でした。

時折触れるように、私は、小説を読むが、それを映画化したものはあまり観ない。
もちろん全く拒否しているわけではない。過日、宇江佐 真理の「雷桜」も観ましたし。。。

観るときは、殆どの場合、小説を読んだ後・・・ということが多い。
しかし、今回は、「小説」の存在を知らずに劇場に入り、エンディングで池宮彰一郎の同名の「小説」に基づいていることを知った。

迂闊なことであったなぁ・・との思いを胸に劇場を後にしました。


討ち入り直前には、数名の者が脱盟・逃亡したとか。
また、性格・気性から、大石によって認められなかったものも多いのだとか。

その脱盟者の一人、
事が成就した際に、大石内蔵助の命により、この事実(討ち入りの様子を)を後世に伝え、遺された遺族や一統に加わらなかった藩士たちの暮らしが立つように影ながら支援をせよとの命を背負って、その姿を消した男。
(寺坂吉右衛門)

もう一人
内蔵助の隠し子の養育を任され、討ち入り前日に脱盟し、忘れ形見を、嫁ぐまで養育した男。(瀬尾孫左衛門)

それぞれの艱難辛苦が実に見事に表現されていた。

忠臣蔵は、かなりの演出・創作・脚色が行われていて、必ずしも史実の通りではないとされている。
しかし、ここまで定着した「忠臣蔵」の既成概念を打ち崩すような小説を書くとは・・・・。f0020352_15213493.jpg
恥ずかしながら、久々に、涙が止まりませんでした。

そうそう
改めて「小説」も読みました。文庫本・短編集の中の一編連作4編の1編。
基本的な構成はそのままですが、両名を取り巻く周囲は若干脚色されている。

再び、鼻をぐすぐすいわせながら。。。
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by m-morio | 2010-12-26 15:41 | 日々雑感 | Comments(0)
遅々として進まない。まだ10分の1である。
幕末から明治維新へと突入し、武士や庶民が激動の中、その生活がどのように変化し、いかに対応していったのかということに大いに興味がそそられる。
教科書(シリーズ:日本近現代史)も大事だが、より噛み砕いてその変遷を記してくれるのが小説である。
最近手にする本が、この明治初期を舞台にしたものが多くなりつつある。

そんな時期に、一冊の“新書”を手にした。(小説ではない)

“加賀百万石“という言い方がある。
加賀藩(藩主は前田氏)は外様大名だが、徳川将軍との姻戚関係が強く大名最大の102万石を領し御三家に順ずる待遇を受けたからである。

加賀藩は、大政奉還時は徳川慶喜を支持したが、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を転換し新政府の北陸鎮撫軍に帰順した。
海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。

その加賀藩に「会計のプロ」がいた。
「猪山家」である。この猪山家では異常とも言えるほどその金銭の出入りを詳細に記録していた。
その記録が神田の古書店で著者によって発見された。
なぜ、これほどまでに詳細な記録が残っているのか、何の必要があっての記録か。興味は尽きない。

加賀藩士のことを調べるには、金沢市の私立玉川図書館に行くとよいといわれるが、収蔵されている資料の隙間を埋めるに十分な資料が見つかったのである。

猪山家は加賀藩の「御算用者(ごさんようもの)」であった。
御算用者とは、いってみれば「加賀百万石の算盤係」である。会計処理の専門家であり、経理のプロであった。
代々、猪山家は会計処理の実務をもって、明治維新まで五代にわたって前田家に仕えた。
このプロがつけた帳簿だから、私的な帳簿であっても、その完成度は高い。

この間、「加賀百万石の買い物係」となり江戸に詰めることになった。
猪山家のような下級武士にとって、役目について江戸詰めになるのは名誉なことでもあり出世の糸口にもなったが、一つ間違えば破産にもなりかねない危うさをはらんでいた。

武士社会は同僚、親戚付き合いを大事にした。 冠婚葬祭はもとより、決まりごと、習慣には何をおいても従わねばメンツが立たなかった時代である。
算盤係として藩主の側近に仕え、立場は上がるも、収入が必ずしもついてこない。
借金が嵩む。ヘタをすると夜逃げということにもなりかねないのである。

猪山家は、たびたび大役を仰せつかる。
「御住居向買手方御用ならびに御婚礼方御用主付」という仰々しい肩書きを頂く。
13代藩主前田斉泰が将軍家斉の娘溶姫(やすひめ)を妻に迎えることになり、猪山家が仰せつかった役目は、この世紀の婚礼の準備係であった。
婚儀にかかわる物品の購入を一手に引き受ける仕事であった。
文政10年(1827年)のことで、この時加賀藩邸に立てられた溶姫御殿の正門が、現在の東京大学の赤門である。
当時の加賀藩は財政が破綻しているのに、将軍家との縁組をせざるをえなくなり、結婚費用をどう工面しようか困窮の極みにあった。
しかし、将軍家との婚儀は、いかなる犠牲をはらってでも成功させなければならなかった。
ここに「御算用者」としての猪山家の苦労がしのばれる。
婚儀の後、姫君から解放されるだろうとの期待は脆くも崩れ、なんと姫君付の算盤役=「姫君様御勘定役」を仰せ付けられる。
姫君から「あがのうて参れ」(購う=あがなう。買って参れ。)といわれれば、櫛、簪、蒔絵の硯箱など賢覧豪華な品々を買い調えることになるのである。

著者によると、国というものは、その時代ごとに“金食い虫”的存在がある。
江戸時代では大奥であり、維新後の近代では海軍であったといわれる。
国の予算が湯水のように流れ出ていくのである。

猪山家は、その卓越した経理能力を買われて、江戸時代には大奥から来た溶姫の算盤役をまかせられ、近代になると、今度は海軍に配属されて、やはり算盤役を務めることになる。
以後、猪山家は新政府の大村益次郎の目に留まり兵部省にはいり、主計のトップとして海軍の経理を一手に引き受けた。

この猪山家の家計簿には、収入の金額はもちろん、買い物の内容もこまかく載っている。さらには借金の金額や借りた先や利率までもである。
・・・・・この借入先がおもしろい。かなり多岐にわたる・・・・・

それも天保13年(1842年)から明治12年(1879年)までの37年間も書き続けられている。(1年2ヶ月分が欠けている)
なにしろ饅頭一つ買っても記録した帳面が36年間分も残っていたのである。
明治維新という激動の時代をはさんで、武士(明治に入って、士族)の生活がどのように変わっていったのかという一端を覗くことができる。

磯田道史著 「武士の家計簿」~加賀藩御算用者の幕末維新~ 新潮新書
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by m-morio | 2010-12-19 15:59 | 井蛙のつぶやき | Comments(0)
更新ができないまま随分と日数がたちました。

間が空くとき・・・
その一、話題に事欠くため
その二、小説を読み漁っていてブログは眼中にないため
その三、雌伏○ヶ月・・でもありませんが、充電の期間

今回は・・・
その二とかつ風邪を引いて1週間以上動けなかったのとが重なってしまいました。

インフルエンザの予防接種を受けた途端に“風邪”ですもね。f0020352_10585282.jpg
私の症状はだいたいワンパターンです。
熱は出ないが少し身体がダルイ。
徐々にセキがでる。
このセキがほぼ3日間続く。
これが辛い。昼夜関係なく襲ってくる。
一旦出ると、身体をエビのように折り曲げてセキをする。

家内は、もう少しセキの仕方を工夫すれば~という。
そんな無茶な!! 
セキがおさまると、今度は鼻づまり。

・・・・・・・・

3週間ほどのブランク中に、文庫本10冊ほど消化したようです。
例の、「坂の上の雲」はまだ手をつけていません。
多分、来年になるでしょう。

私にしては、珍しく
NHKのドラマ(第1部の再放送・・5回)は全部観ました。
2部の1回は観たものの、2回は柔道を見ていて忘れていました。

とにかく、やっと身体が元に戻りつつあります。

年賀状の作成を最優先しなくちゃ。
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by m-morio | 2010-12-16 11:00 | 日々雑感 | Comments(0)