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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

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▼「モンゴルで核処分場計画」のその後

東ヨーロッパを少しお休みして、原発関連を。。。

7月にこんな趣旨のことを書いた。

使用済み核燃料などを貯蔵・処分する場所をモンゴルに建設するという構想がある。
原発用のウラン燃料の供給や使用済み核燃料の処分を国際的枠組みで一括して行う構想である。

大筋は
→モンゴルで産出するウランで核燃料を製造
→その燃料を新規原発導入国などに輸出
→導入国では、日米が提供した軽水炉で使用
→使用済み核燃料はモンゴルの処分場が引き取る
ということだ。

原発先進国は、その技術を新興国に売り込みたい。
しかし、新たに原発を導入しようとする国にとっての課題は
①ウラン燃料の調達・濃縮・加工 
②使用済み核燃料なと「核のごみ」の処分
である。

これらの課題を一括して解決しようというのが今回の構想。
米国、モンゴル、日本が水面下で検討してきたことが、先般表面化した。
強い毒性を持つ「核のごみ」の処分は原発保有国にとって最も厄介な問題だ。
地中深く埋め、10万年単位ともいわれる気の遠くなる年月をかけて監視しなければならない。                                                                
モンゴルは、これまで原発とは無縁の暮らしをしてきた。
この国の人々に、原発国の「核のごみ」を押しつけるのはいかがなものか。
日本の原子力発電の技術を輸出できるのだから、モンゴルがいいといえば「よし」という問題でもない。


・・・・と。

最近、毎日新聞にこんな記事が載った。
モンゴル政府は、
国内で反対運動が高まり、計画継続は不可能と判断し、計画を断念すると9月下旬に決定し、日本政府など関係者に伝えたとのこと。

この計画が一部報道された(毎日新聞が5月にスクープした)際は、モンゴル政府は公式には交渉の存在を否定してきた。
しかし、その事実が表面化し、モンゴル国内で市民が反発を強め、計画撤廃となったようだ。

モンゴルでは、この計画に関与した関係者を更迭するなどの処置をとったという。
日本政府は、福島原発事故の処理に忙殺されたほか世論の反発もあり、交渉継続は難しいと考え、米エネルギー省にその旨伝えたようである。

報道では「(日本)国内の世論が反発」と載せていた。
7月以降このモンゴルに関する記事などお目にかかっていないような気がするするのだが。。。。。。
私が見落としたのだろうか。

米国主導の計画を、水面下で“こそこそと“声を潜めて話し合う” 協議に、わが国がかかわっていたという現実に、寂しさを禁じえない!!!

いずれにせよ、モンゴル政府の計画断念は“当然の結果”なのではなかろうか。

それにしても、わが国政府の原発に対する考え方・方針はどうなっているのだろう。

野田総理は、就任当初、菅前政権が掲げた「脱原発依存」も継承する考えを示していた。
ところが、
先の、国連総会で、「海外への原発輸出を維持する方針」を打ち出した。
さらに、枝野幸男経済産業相は、先日、パリを訪問中、トルコのエネルギー天然資源相と会談し、昨年12月に日本が受注の優先交渉権を獲得したトルコの原発建設計画について、交渉の継続を要請したという。

海外で増やし、国内で減らすという原発政策の”ダブル基準”に国民は混乱している。
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by m-morio | 2011-10-23 19:54 | 市民カレッジ | Comments(0)
「チェコ」という国といえば・・・
私の年代の方は、「チェコスロバキア」じぁないの?・・・と思われる方が少なくないのではなかろうか。
若い人たちは、違うよ! チェコとスロバキアは別の国ジャン・・というだろう。

この両国は私にとっては、なじみが薄い国です。
スロバキアについては、既に若干ですが触れたので、今回は「チェコ」を訪れてみたいのですが・・・・
といっても、頭に浮かぶのは 首都が プラハ ということぐらい。

「ブラハ」→オバマ大統領の「プラハの演説」→「プラハの春」を連想する程度のこと。

そこで、講義で配布された資料などを参考にして隙間を埋めることにする。

チェコスロバキアの略史

1918年10月 チェコスロバキア国がオーストリアーハンガリー帝国から独立
1918年11月 チェコスロバキア共和国に改称
1939年 3月 スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に
1945年 4月 チェコスロバキア共和国再建
1945年 6月 ルテニア地方をソ連へ割譲(現在はウクライナ領)
1960年 7月 チェコスロバキア社会主義共和国に改称
1990年 3月 チェコスロバキア連邦共和国(チェコースロバキア連邦共和国)に改称
1990年 4月 チェコ及びスロバキア連邦共和国に改称
1993年 1月 チェコ共和国とスロバキア共和国に分離し、消滅

即ち、チェコスロバキア→チェコスロバキア共和国→(消滅)→チェコスロバキア共和国→ チェコスロバキア社会主義共和国→チェコスロバキア連邦共和国→チェコおよびスロバキア連邦共和国 に分離
という過程を経ている。

▼「プラハの春」

チェコスロバキアにおいては、1948年のクーデター後、20年間、共産党の一党独裁が続いた。
東欧諸国の中でも、チェコスロバキアは「社会主義の優等生」といわれ、ソ連に最も忠実な国であった。
1960年代に入ると、社会主義経済の歪が噴出しだした。
経済の低迷状態に加え、自由を圧殺してきた共産党の独裁体制に対し、国民の不満は次第に高まっていった。
第一書記と大統領を兼務したノヴォトニーは、強大な権力を使って、不満の押さえ込みに躍起になっていた。
ノヴォトニーの独裁政治に対する疑問が党員の間に広がり、改革派が台頭していく。

1968年1月、アレクサンデル・ドゥプチェクが改革派の期待を担ってチェコスロバキア共産党第一書記に就任する。
ドゥプチェク第一書記は、思い切った改革に踏み切った。
まず実行したのが言論・報道の自由だ。検閲制度は廃止され、マスコミは一斉に自由な活動を始め、人々は、はじめて政治の動きを知ることとなった。
改革は、これに留まらず共産党役員の改選・軍の人事異動など矢継ぎ早に実行された。
春の訪れとともに人々が手にした「自由」だった。
チェコスロバキアでおきたこの変化はいつしか「プラハの春」と呼ばれるようになった。

1968年6月20日、ソ連軍を中心にしたワルシャワ条約機構軍の演習が、突然チェコスロバキア国内で開始された。
人々は、ソ連のこの行動をチェコスロバキアの改革に対する威嚇と受け止めた。
ワルシャワ条約機構軍の演習から一週間後、69人の市民たちが「二千語宣言」と呼ばれる意見広告を新聞に発表した。
改革を守るために市民たちが独自に起こした活動だった。

宣言は

「最近、わが国の改革に外国勢力が介入してくるかもしれないという不安が生じている。われわれは武器をもってでも政府を擁護する。この社会主義体制を人間的なものにしようという改革は最後まで押し進めねばならない。」

・・・・・と訴えていた。

この宣言には、大学教授・映画監督・軍人・共産党員・工場労働者などさまざまな人々が名を連ねていた。
オリンピックのゴールドメダリスト、体操のヴェラ・チャスラフスカもその一人だった。

この「二千語宣言」は更にソ連を刺激した。
ソ連は、この宣言を「反革命への誘いだ」と決め付け、ソ連の新聞「プラウダ」などで批判。
これに対し、チェコスロバキアのマスコミは「二千語宣言」を支持し、ソ連に対抗した。
ソ連は、チェコスロバキアを威嚇しながら自由化にブレーキをかけようとしたが、チェコスロバキア側の態度は固く、両国の首脳会談も失敗に終わった。

1968年8月20日、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアの国境を越えた。
翌21日、ソ連軍用機がプラハに着陸、ソ連軍戦車がプラハになだれ込んだ。
チェルニク首相やドゥプチェクら党幹部は逮捕された。
その後、スヴォボダ大統領ら代表団がモスクワを訪問、ソ連側の要求する「正常化」協定に調印させられた。
こうして「プラハの春」は、軍事力の下でむなしく散ったのである。

ドゥプチェクが目指したものは、チェコスロバキア独自の社会主義の道であった。
それは「人間の顔をした社会主義」ともいわれた。
しかし、ソ連指導者には、東の陣営を崩壊させる危険な「反革命」として映ったのである。

ドゥプチェクは、1969年4月、第一書記を解任され、70年1月駐トルコ大使へと左遷させられ、その6ヵ月後に本国に召還され党籍をはく奪されて追放の身となった。
1989年東欧自由化の嵐のなか、「ビロード革命」で新しい連邦議会議長に選ばれたが、92年11月71歳で世を去った。

ソ連は、チェコスロバキアが「プラハの春」で得た成果を一つ一つつぶし、もとの体制に戻す過程を「正常化」と呼んだ。
ドゥプチェクが失脚したあと「正常化」は、異常なまでの執拗さで社会の隅々まで徹底された。
また暗い時代がチェコスロバキアにやってきた。
以後、静かで冷たい粛清が続いた。

例えば、前掲の体操のチャスラフスカは、多くの人々が「二千語宣言」の署名を撤回していったが、頑として署名撤回を受けつけなかった。
その結果、ついにはスポーツ界からの追放、失職が待っていた。f0020352_15245438.jpg
注)この署名に名を連ねた人に、エミール・ザトペックがいた。ロンドンオリンピック(1948年)の10000m、ヘルシンキオリンピック(1952年)の5000m・10000m・マラソンで金メダルを獲得した。
この長距離三冠の記録は今後達成する選手はいないだろうと考えられている。
顔をしかめ、喘ぎながら走るスタイルから『人間機関車』と称された。
ザトペックは、署名を撤回したといわれているが、当時の政治状況を推し量ると、その行為は批判去るべきことではないだろう。

彼女が再び国民の前にその姿を現したのは、1989年11月、民主化革命=ビロード革命(流血に至る事態は起こらなかったことから、軽く柔らかなビロードの生地にたとえて名付けられた)の過程でであった。
20年間の空白であった。
以後、国民的人気を背景に、新政権の要職にも就き、スポーツ界の指導者として活躍することになる。

余談だが、チャスラフスカさんが、先日来日した。
日本で開催された「体操の世界選手権」の観戦もあったらしいが、東日本大震災の被災地復興支援イベントもあったらしい。
彼女は、チェコの五輪委員会会長も務めたが、90年代終わりになると表舞台からその姿を消した。
個人的な事情から心を病み、治療を続けていたのだとか。
現在は、笑顔を絶やさずハキハキと話をしている。

これまでの69年間を振り返って、日本語で 「山あり、谷あり」 と語ったという。
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by m-morio | 2011-10-22 15:29 | 市民カレッジ | Comments(0)
初回に、東ヨーロッパの国々に関するスクラップがほとんどない・・・と書いた。
これ、間違いだった。
講義のレジメを見て、そうだ・・・そんなことがあった。
あの事故は記憶に新しいからどこかにあるはず・・・・・
私のスクラップは、その殆どがPCに入っている。
世界の動きに関するものは国別に仕分けしていることが多い。
以下に触れる「ポーランド政府専用機墜落事故」に関しては、その墜落場所がロシアだったこともあって「ロシア」に紛れこんでいた。(ポーランドという分類を設けていなかったことも要因)
そんなことで、ポーランドについて、これらの報道スクラップや講義のレジメなどを基にして少し整理してみることにする。

▼ポーランド

まず略史を・・・
・966年・・ピアスト王朝成立(建国)  
・1386年・・リトアニア・ポーランド王国 建国
(リトアニア公とポーランド女王の結婚で成立。ドイツ騎士団領(=バルト海岸に成立)に対抗することを目的に建国)
・1410年・・タンネンベルクの戦いで、ドイツ騎士団を破り、バルト海・黒海にまたがる大国家となる
・17世紀・・ウクライナ地方をロシアに、北部をスウェーデンに奪われる
・1733~35年・・ポーランド継承戦争が起こり、仏・露・墺(オーストリア)が介入して国力疲弊
・1772年・・第1回ポーランド分割
・1793年・・第2回ポーランド分割
・1795年・・第3回ポーランド分割により国家消滅
(1914年、第一次世界大戦始まる)
・1918年・・独立回復
(1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立)
・1939年・・ナチス・ドイツによるポーランド侵攻
        ソ連軍によるポーランド侵攻
(第二次世界大戦始まる)
・1947年・・第二次大戦終了後、社会主義政権誕生
・1980年・・独立自主管理労組「連帯」結成・・共産党からの独立
・1981年・・戒厳令
・1989年・・体制転換・・非社会主義政権の成立
・1999年・・北大西洋条約機構(NATO)加盟
・2004年・・欧州連合(EU)加盟
        経済的には、EU内での最貧国

続く
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by m-morio | 2011-10-16 12:48 | 市民カレッジ | Comments(0)
東ヨーロッパ巡りの旅は、ポーランド→チェコ、スロバキアと進みました。
ポーランドの整理がつかないうちに次の国に足を踏み入れましたので、あたふたしています。
少し順序を変更して、「スロパキア」のことを先に話題にします。
スロバキアという国は、殆ど新聞紙上などに登場しませんでした。 最近は。。。

「現代史」の講座の場合、その対象となる国などは数ヶ月前に決定していますので、「スロバキア」に焦点を当てたのは、講師の先見の明?
まあ、たまたまそんなダミングとなったということでしょうが。。。

▼スロバキアの抵抗f0020352_1135728.jpg
ギリシャの財政危機が、世界の株式市場や金融市場の不安定要因になっていることが表面化したのがほぼ2年前。
EUが救済に立ち上がり支援するも、一向にギリシャ内の改革がすすまないまま2年も経過してしまった。
日本から遠く離れたギリシャ一国の経済問題に、なぜそんなに大騒ぎをするのかと思わないでもないが、 
この問題が 『第2のリーマンショック』を起こしかねない としたら大変なこと。

ギリシャ政府の累積債務は、国の経済規模を示すGDPの1.2倍近くまで膨れ上がった。
毎年の国のやりくりも赤字で、このままでは借金は膨らむ一方。
ギリシャは破産するのではないかという信用不安が市場に広がり、その影響がユーロ加盟国にも及びかねない状況になった。
この欧州の財政・金融危機の回避に不可欠とされる「欧州金融安定基金(EFSF)」の機能の強化をめぐって、ユーロ圏が正念場を迎えていたというのが現状。

この機能強化策は、基金の融資能力を2500億ユーロから4400億ユーロ(45.3兆円)に拡大することなどが盛り込まれている。

強化策の実施には圏内17カ国全ての承認が必要で、スロバキアを除く16カ国が既に承認したが、このスロバキアのみが10月11日の議会で否決した。
この否決は、単一通貨圏の結束の難しさを露呈した格好で、EUにおける「全会一致」主義に対し修正論も出始めているほどである。

昨年7月にスロバキア初の女性首相に選ばれたラディツォバー首相は11日の否決を受け
「わが国が欧州との連帯を示せるか・・信頼が問われている」
と涙ながらに訴えたと伝えられている。
今回は野党との妥協で、再採決、承認したが、今後の対応をめぐる重要な意思決定に不安を残した。
注)スロバキアは、2007年に国内総生産(GDP)比で10.4%の成長を遂げた。その原動力は外資導入と自動車などの輸出。ユーロによる為替の安定は成長持続の絶対条件。
GDPの1割の負担となる今回の拡充策を飲まざるを得なかったのは苦渋の選択。
 昨年5月、総額1100億ユーロ(11.3兆円)のギリシァ向け第1次支援に際しても、8億ユーロ(824億円)とされた自国の分担を拒否した前歴がある。
この時は、ギリシァに対する2国間融資の積み上げという形をとっていたため、スロバキア抜きでも支援事態が止まることはなかった。


スロバキアのユーロ導入は2009年。
04年にEUに一斉に加わった旧共産主義国では07年のスロベニアに続く2番目の参加。
ユーロ圏入りは、導入条件である財政赤字削減やインフレ抑制などの努力を強いられた。

スロバキア国内では
「貧しい国が、努力が足りない南欧の国をなぜ支援しなければならないのか」
との声が強いという。
その言い分も分からぬではない。
しかし、EUへ加盟し、ユーロ圏参加を決めたということは、それなりの約束事を承知し、義務を負ってのことだったであろうに、今、「貧しい国」だからといって、反対=否決はいかがなものかとも指摘されていた。

日本の立場からすれば、
ギリシャを見放すことによって、連鎖的に圏内の大国、イタリア、スペインなどにも飛び火した場合、第2のリーマンショックは避けられず、東北震災で多大なダメージを受け、その復興に向け緒に就いたばかりのわが国の経済への影響は計り知れない。

スロバキアの可決で、当面は欧州の危機対策は一歩前進した。
しかし、スロバキアなどの域内小規模国に「大きな負担」への不満が強まる恐れは残ったままである。
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by m-morio | 2011-10-15 11:11 | 市民カレッジ | Comments(0)
明日から1ヵ月かけて東ヨーロッパを旅します。
ポーラント・チェコ・スロバキア・ハンガリー・オーストリア、そしてこれらの国々を取り囲むロシアとドイツです。

・・・・・・といっても、実際に移動するのではありません。
2011年秋の「現代史」の講座が始まり、その講座で取り上げることになっている国々です。
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「現代史」の講座を受講するようになっていわゆる"世界情勢"に関する報道を数多くスクラップしていますが、案外少ないのがこれら東ヨーロッパの国々。
オーストリアは、TVの旅番組にたびたび登場しますので、もう何回も訪れたような錯覚を覚えます。
なぜ私の目に留まらないのかor報道記事が少ないのか・・・・
恐らくは、近年、世界が注目するような事件などが少ないからなのでしょう。 
それだけ今は平和なのかも知れません。

でも、オバマ大統領のプラハの演説は世界の核問題を大きく動かしましたので記憶している方も多いことでしょう。
大統領の演説の冒頭のみ・・2009.04.05
温かい歓迎をありがとうございます。プラハの皆さん、ありがとうございます。そしてチェコ共和国の皆さん、ありがとうございます。本日私は、ヨーロッパの中心にあるこの素晴らしい都市の中心部に皆さんと共に立つことを誇りに思います。また、私の前任者の1人の表現を借りれば、ミシェル・オバマをプラハに連れてきた男であることを誇りに思います。

 クラウス大統領、トポラーネク首相をはじめとする、ご臨席の政府要人の皆さん、温かいおもてなしに感謝します。そしてチェコ共和国民の皆さんの米国への友情に、お礼の言葉を申し上げます。

 私は、シカゴで長年暮らす間に、チェコの人たちが陽気な、楽しい友人であることを知るようになりました。私の後ろには、チェコ国民の英雄トーマス・マサリク大統領の銅像があります。1918年に、米国がチェコの独立を支援することを誓約した後、マサリク大統領はシカゴで、10万人以上と推定される聴衆を前に演説をしました。私はマサリク大統領の記録に到達することはできないと思いますが、シカゴからプラハへ、彼の足跡をたどることを光栄に思います。

 1000年以上にわたり、プラハは、世界のいかなる都市とも異なる、独自の道を歩んできました。皆さんは、戦争も平和も体験してきました。いくつもの帝国の盛衰を目の当たりにしてきました。そして、芸術と科学、政治と文学の世界で、革命の先頭に立ってきました。そうした中で、プラハの人々は、一貫して自らの道を追求し、自らの運命を切り開くことを主張してきました。そして、この古い歴史と若さを合わせ持つ「黄金の都」は、皆さんの不屈の精神を表す生きた記念碑となっています。(後略)


しかし、ここまでの道のりには多くの苦難をともなったことが歴史が証明してくれるでしょう。

そんな歴史の勉強が明日から始まります。
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by m-morio | 2011-10-05 10:15 | 市民カレッジ | Comments(0)
今朝のこと・・・
何気に窓から下を見るとパトカーが。。
市の(と思うのだが)パトロールカーも、更によく見るとTVのカメラと女性リポーターか?
カメラは盛んにマンションの周囲を撮っている。
近所のGSの店員にインタビューもしている。

何か事件があったらしい雰囲気。
数年前にGSにドロボーが入るという事件が続いたことがあったので、またかっ・・と思ったりした。

その後、ゴミ出しにいくと、未だTVクルーがいたので聞いてみると「熊が出たらしい」とのこと。

エェエーッ。

以前に、”我が家の庭”と称している公園が直ぐ近くにあって 「熊が出ることがある公園」 としてご紹介したことがあります。
でも、ここ1~2年はあまり頻繁には聞かれていなかったので”熊さん”のことは考えることもありませんでした。

それが、選りにも選ってマンションのそばに出没したというのです。
確かに、以前は、この場所も静かな所で(風致地区とかで、高い建物は建てられない)、マンションが建った17年ほど前は、キタキツネを頻繁に見かけていましたが、それも4~5年間ほどのことで、今ではすっかり”人間様”が大きな顔をしているせいでしょうか、全く見かけなくなっていました。

それが”熊さん”の出没ですから びっくり です。

早速、すぐ側の電柱に 真っ赤な掲示板 が張られました。
・・・この掲示板と同じものは公園内で頻繁に掲げられましたのでお馴染みですが、こうも身近に掲示されるとドキッです。

「熊出没注意」
10月2日23時半頃熊の目撃情報

があったと。。。。。

この時間帯だと、遅くに帰宅した人が目撃して、通報したのでしょう。

つい先日までは暑かったのに、今日は最高気温10度程度。 
氷雨がアラレに変わったり、晴れ間が覗いたりとあわただしい天気です。

そういえば先日は、市内で、住宅街に出没したとのニュースを聞いたのを思い出します。

山の恵みが少ないのでしょうか。
そうだとすればまだまだ熊さんは降りてくるのも知れません。
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by m-morio | 2011-10-03 16:24 | 日々雑感 | Comments(0)