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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

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暮れには、いつものように喪中のお知らせを頂く。
自分の年齢を考えるとやむを得ないのだが、故人の御年は90歳を超えている方が多くなった。中には100歳の天寿を全うされた方も・・。
勿論、知人の親御さんなど親類縁者の方で面識はないが、心からご冥福を祈る気持ちになる。

昨年で、一番ショックだったのは同い年の友人の死だった。
大動脈瘤破裂による急死。
同期会の常連で年に何回かは顔を合わせていた仲だったのでその知らせは衝撃。
ただ、訃報は後日開かれた同期会で知らされた。
幹事さんによると、葬儀は「家族葬」という形式によって執り行われたのだそうで、奥様と面識があった幹事さんすらも焼香させていただくのに難儀・・・だったとのこと。
そんな経緯もあって、葬儀を混乱させてはご遺族の本位ではなかろうとの判断で、同期の諸君には直ぐには知らせなかったとのこと。
些か年賀状とはかけ離れるが、この「家族葬」というのには私個人はもろ手を挙げて賛成はしていない。家族には、焼香してくれる方々を拒むことはない・・と言っている。

さて、今年の年賀状。
少なくなったとはいえまだ結構な通数。
付記されている言葉は
「体力が落ちた」「癌の手術を受けた」「長年の持病のその後」「傘寿を迎えました」「字を書くのが辛くなったので今年が最後です」など病気や老いを訴える言葉が多い。

嬉しいことに「(m-morioの)賀状を毎年楽しみにしています」との添え書きには感激。

孫からは、一人前の賀状が届くようになった。
少年の成長を目の前にして感慨もひとしお・・
背丈はあっという間にじいじを上回ってしまった。

一緒に仕事をした女性からは「定年目前ですが退職しました」とある。
同年齢の友は「大学設立に奮闘中」とか。
「転職してもうひと頑張り」というのもある。
時は流れる。
亡くなった人に哀悼の意を表するとともに、幸いにも生を長らえている私らはしっかりと生きていかねばならない。
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by m-morio | 2016-01-19 18:23 | 日々雑感
 術後1か月を経過したところで医師から視力調整の眼鏡を調達するための処方箋が渡された。
この「1か月」が早いのかどうか?
クリニックによっては「3か月」というところもあるようだ。
個人差もあるとは聞くのだが・・・

 私にとってはこの「1か月」は長かった。
2回の(両目の)手術とその後の経過観察でこの一月の通院回数9回。
装着したレンズが「遠方重視」のため、裸眼では新聞などの活字を読むのは難しい。
手元にある従来の眼鏡で急場をしのいだが、長年裸眼でも何とか読めたものが見えなくなったので不便この上ない。

年内に眼鏡が仕上がった。
遠近両用と近々両用だ。
この近々両用というのは、読書時とパソコン対策では微妙に差がでることへの対応。

やっとゆっくりと新聞を読めるという普通のことに満足している。
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by m-morio | 2016-01-08 16:03 | 日々雑感
あけましておめでとうございます。

慌ただしい大晦日も除夜の鐘を境にして、少し退屈な正月へと摩り替わっていく。
たった一晩で昨日を去年と呼び、今日を新年と言う。
不思議といえば不思議な気分である。
人はそうして一つ一つ区切りをつけながら生きていくものらしい。

・・・と勿体をつけた物言いは私らしくない。

今年の賀状には、前年に引き続き「多病息災」の文字入れた。

年を取れば、あちこち がた がきて当たり前だろう。
つまり、年寄りは、どこか具合が悪いのが正常といっていいのかもしれない。
身体のいろいろな部分が正常でなくなってくる。
「老い」は後戻りができない一方通行だ。
それに反して「病」は回復の希望が持てると信じられがちである。

しかし、老化がらみのことだから物事は期待どおりにはならない。
少しでも苦痛が和らぎ、病状が軽くなれば満足すべきなのに、
年寄りは、欲が深く、もっともっとと期待する。

「老い」と上手に付き合うということは、受け止め方の問題なのだろう。

どうも私は、「できなくなったこと」にこだわりすぎるらしい。

「もう・・・しかできない」
ではなく
「まだ・・・もできる」

と考えるべきなのだ。

こんな意味のことを目にした記憶がある。

「抜けた歯を惜しまず 残った歯を喜び、抜けた髪を憂えず未だ生えている髪を数える」

この精神が「老人」には大事なようだ。

今年 一年 この精神で 前向きに生きよう・・・と新年に想う。
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by m-morio | 2016-01-02 13:56 | 日々雑感