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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

台湾については時たま新聞報道を眼にします・・・
最近は陳水扁総統の罷免問題とか、夫人の不正だとか程度ですが。。
台湾が抱えている最大の問題は中国との関係ですね。
台湾は独立したいのかどうか(60%の人が、現状維持を望んでいるようですが・・)、もし独立を主張しても中国は全く認める気はないだろう、場合によっては武力行使も辞さない・・・などと言われています。
一方では、中台間の経済交流は益々増大していると言います。

昨夜、この台湾問題の講義を聴講しました。この問題には日米が大きく係っている様子を知りました。話は、1943年のカイロ宣言、1945年のポツタ゜ム宣言にまで遡り、衰えた頭脳では話についていくことさえ難しかったです・・・。

講師は、教育大学の助教授の中国人の方でした。私としては中国人の方の話をおよそ2時間に渡って聞くというのははじめての経験でした。勿論日本語で講義されるのですが、独特のアクセントのせいでしょうか部分的には聞き取りにくい箇所もありました。
かなり早口だったということもありますが。。。

講師は、自分でも言っていましたが、相等理屈っぽい性格のようで受講者からの質問に対し、カナダのケベック州(カナダ最大の州で、一頃独立の気運が高まりました)の例を引き合いに出して口角泡を飛ばして理路整然とまくしたて、あたかも学会の論争の場?と勘違いする雰囲気に・・。質問者も当惑した表情! なんだか先生に叱られているようで・・・と不愉快そう。

・・ま それはそれとしまして、かなり専門的な解釈による講義だった(多少日本の対応に批判的なのかな・・・と感じるところも)のですが、
最後に触れられたことに・・
ああーこの先生もそんなことを考えているのか・・と思ったことがあります。 

それは、民族の独立ということに関して言えば、長期的にはEU(欧州連合)が参考になる。欧州諸国は、国境の行き来も自由になってきている。いずれ自分達は「ヨーロッパ人」であるという意識・主体性が芽生えてくるだろう。

アジアにおいても、例えば「アジア連合」というものが(遠い)将来成立するとするならば、われわれも「アジア人」という意識が生まれるかも・・・
となれば国家の統一ということの概念にも変化が生じてくるだろう。
とのご意見。
この考え方は、以前に書いた「大地の咆哮」の著者も同じことを書いていたことを思い出しました。

                         今秋 の 紅桜公園 で・・
                                     なんの実だろう?
台湾_f0020352_1084062.jpg

# by m-morio | 2006-11-10 10:20 | 中国のこと
06.10.05 市民カレッジ 講義を基に・・・・・。

「東ティモール民主共和国」は、面積は岩手県とほぼ同じ大きさで人口92万人程度の国です。言語は、テトゥン語およびポルトガル語、宗教はキリスト教(大半がカトリック)が99%です。
                                             地図をご参照。「受け売り・・現代史Ⅴ」 東ティモール_f0020352_12284480.gif
「受け売り・・現代史Ⅴ」 東ティモール_f0020352_12291346.gif
例によって、国旗も。。。
2002年5月20日に独立を宣言した際に、インドネシアからの独立運動に使用したフレテリンの旗をそのまま国旗として制定したもの。黒は植民地時代の暗黒を、黄色の部分は国家独立のための戦いを、赤は民族闘争で流された貴重な血の犠牲を、白色は平和を、星の形は未来への希望を象徴しているといいます。

歴史を追ってみますと、                                           16世紀前半  ポルトガルが東ティモールに白檀を求めて来航。
17世紀半ば  オランダ、西ティモールを占領。
1701年     ポルトガル、ティモール全島を領有。
1859年     ポルトガルとオランダの間でそれぞれ東西ティモールを分割。
1942年     日本軍、ティモール全島を領有。
1945年     第2次世界大戦終了後、ポルトガルによる東ティモールの支配が復活(この年、インドネシア独立。オランダ領だった西ティモールもインドネシアの一部となる)。
1974年     ポルトガル本国でクーデターが発生したのを機に、東ティモールで独立の動きが強まる。
1975年     独立派(フレテリン等)と反独立派の対立激化。フレテリンが東ティモールの独立を宣言した後、インドネシア軍が東ティモールに侵攻し制圧。
1976年     インドネシア政府、東ティモールを第27番目の州として併合を宣言。
1998年     5月スハルト・インドネシア大統領が退陣、ハビビ副大統領が大統領 に就任。インドネシアは、東ティモールの独立容認へ方針転換。
2000年 5月20日 東ティモール民主共和国独立
      9月27日 国連加盟

という経過を辿っていますが、この間紛争が耐えることがありませんでした。
平坦な道を歩んだわけでない東ティモールの独立を概観しますが、
その前にハッキリさせておかなければならないのは、
東ティモール問題というのは
・民族間闘争でもなければ
・宗教の違いによる抗争でもありません。

一言で表現するならば、力による支配との闘いだったといえるかもしれません。
まず、民族のことですが、人種の違いから独立を求めていたわけではありません。人種的には、西ティモールと東ティモールに明確な違いがあるわけではありません。

では、宗教は?
確かにインドネシアはイスラム教東ティモールはカトリックが殆どですが、インドネシアとの宗教の違いを指して宗教的な対立だと強調されることもあります。
しかし、インドネシアには宗教省というのがあってすべての国民を主な5つの宗教から一つを選んで自分の宗教として登録することになっています。
東ティモールの人々の大多数がカトリックを選んだのは、旧宗主国のポルトガルの影響もありますがカトリック教会が東ティモールの人たちをインドネシアによる人権侵害から守る役割を果たしていたことが大きな要因といえます。

次に、力よる支配の様子を・・・

暗黒時代 その1  ポルトガルの支配とティモール島の分割
東ティモールは、インドネシア諸島の東端にあるティモール島の東半分にあります。地理的には島のすぐ南側がオーストラリアです。この東ティモールは、もともと400年にわたって、ポルトガルの植民地でした。どうして、こここがポルトガルの植民地だったのでしょうか。15世紀後半はヨーロッパは「大航海時代」と呼ばれ、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどが次々と海外に進出し新しい航路や大陸を発見し、植民地を築いていきます。東ティモールもこのころポルトガルの植民地になったのです。ポルトガルは、ティモール島に生えていた白檀を求めてやってきました。その後、進出してきたオランダとの植民地争奪戦の結果、ティモール島は東半分がポルトガル領、西半分がオランダ領となり、1904年、両国は条約を結び、ティモールを東西に分ける国境線が確定しました。これらのことは、地元住民の意向に関係なくヨーロッパの国同士が勝手に領土を決めてしまったのです。この際、ポルトガルはこの東ティモールを直接支配するのではなく間接的に支配します。現地を支配する国王を通じて支配したのです。この時代は、税金の取立てなどをめぐって住民の反乱も相次ぎ、そのたびにポルトガルが弾圧するという「最初の暗黒時代」といえるでしょう。

暗黒時代 その2  日本軍の侵攻
1941年太平洋戦争が始まりました。日本軍は、開戦当初東南アジアを南下します。これに危機感を持ったのがオーストラリアでした。オーストラリアはオランダと共同作戦をとり、東ティモールに軍隊を進めたのです。太平洋戦争ではオーストラリアもオランダも敵国だったのです。オーストラリアとしては、もし日本軍がティモール島を占領した場合にはそこを基地として攻め込んでくるのではという心配をしました。1942年、日本軍はインドネシアも東ティモールも、一気に占領してしまいます。東ティモールの支配がポルトガルから日本に移ると、長年のポルトガル支配に対する住民の不満が爆発し、住民によるポルトガル人襲撃事件が相次ぎ、ポルトガルは、日本軍に保護を求める状態になりました。日本軍は、ゲリラ部隊と戦いながら、一方で住民を強制労働を強いました。二万人もの日本軍が駐留したので食料も不足し、住民の中には飢えで死ぬ人も出ました。これが「第二の暗黒時代」でした。

暗黒時代 その3 インドネシアの侵攻
1945年、日本は敗戦。西ティモールを含めたインドネシアはオランダから1949年に完全に独立しましたが、東ティモールは再びポルトガルの支配となりました。しかし、1974年、ポルトガル本国で政変が起こり、400年に及んだポルトガル支配が終了しました。東ティモールはこの機会をとらえて独立に向って動き出します。
一方、西ティモールを領土としているインドネシアは、ポルトガルが引き上げたのを狙って東ティモールを領土に組み込もうと動き出していました。
東ティモールでは独立に向けて
・独立派
・親ポルトガル派
・親インドネシア派の三つの政党ができました。
この中で、ポルトガルの植民地支配に反対してきた人々が結成した「東ティモール独立革命戦線」(フレテリン)は多くの支持を集め、他の政党との抗争も制圧して1975年11月に「東ティモール民主共和国」の独立を宣言します。
ところが、翌月、インドネシア軍が東ティモールに侵攻します。
このとき多数の住民が無差別に殺されました。インドネシアは、ティモール島全体を自国の領土にしてしまったのです。このときの大統領が、独裁者スハルトでした。
この事態を受けて、国連はインドネシア軍の即時撤退を要求する決議をしました。このとき、日本はアメリカとともにインドネシアを支持する立場をとって決議案に反対しました。即ち、インドネシアの侵攻を支持したのです。 その当時の事情は、インドネシアは、原油や液化天然ガスの輸入する国で経済への影響を優先させたのです。1976年、インドネシアは、国連の撤退要求を無視し東ティモールをインドネシア第27番目の州にしたのです。これが「第三の暗黒時代」です。

独立へ向けて
インドネシアの支配が続く中で、フレテリンは山岳地帯に逃げで闘争を続けます。いったんは壊滅状態になりますが、1980年代には復活してきます。
再生させたのが初代大統領になったシャナナ・グスマンでした。
東ティモールの独立運動は、カトリック教会が支援しました。カトリック教会は、ポルトガルがこの地にもたらしたものです。インドネシア全体では90%以上がイスラム教ですが、東ティモールの住民の99%がカトリック教徒です。

サンタクルス事件
1991年11月、東ティモールの首都ディリのサンタクルス墓地で、インドネシア軍による大虐殺が起きました。
インドネシア軍によって殺された地元青年の追悼式が行われていました。葬儀には数千人の人々が集まり、墓地の前には独立を求める横断幕を掲げました。この葬儀に政府軍が発砲するという行動に出たのです。この事件を契機に、世界の目は、インドネシアに対して厳しくなっていきます。

住民投票へ
事態が決定的に動いたのは、1998年5月でした。スハルト大統領が退陣し、後任のハビビ大統領は東ティモールの住民の意見を聞くための「住民投票」を認めるのです。1999年、東ティモールに大幅な自治権を与えるという政府案に対する住民投票が実施されました。結果は、投票率98.6%という高率で、78.5%が自治権を与えるという政府案に反対しました。つまり「自治権を与えられるだけではなく、独立したい」という意思表示をしたのです。  
「住民の圧倒的多数が独立に賛成」という結果が判明すると、独立反対派が、賛成派を襲撃するという暴挙にでます。あらゆる建物、住宅に火をつけ、住民を殺害しました。

国連の傘の下で
この惨状に国連が軍隊を派遣して治安の維持にあたり、インドネシア軍が撤退してやっと独立反対派による襲撃が終わったのです。1999年10月、東ティモールの独立が決まった後、新しい国家建設のため、国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)が設立されました。国づくりを国連が応援したということです。言い換えると、国連の傘の下で新しい国家を作っていくことになったということです。段階を経て2002年4月大統領選挙が行われ、シャナナ・グスマンが初代大統領に就任しました。このような苦難の道を歩んで21世紀最初の国が誕生したのです。

独立はしたけれど
苦難の末、やっと独立はしましたが、東ティモールの前途は多難です。
長い間支配を受けていたため自らが国を治める術も分からないないのです。
インドネシアから派遣されていた学校の先生や警察官が引き揚げてしまい、改めて先生や警察官を育てているのです。そのためには資金が必要なのですが、東ティモールの失業率はなんと80%に近く、仕事についていないから収入がない、よって税金の収入もない、だから公務員の給料も払えないので政府は仕事をできないのです。
とにかくゼロからの出発でした。それでも自分達の国を持つということは東ティモールの人々にとっては「人間の尊厳」に係る問題なのでしょう。
今、世界では多くの闘争が起きています。独立を目指すというものも多いのです、それぞれの根本に根ざすのは正にこの「人間の尊厳」なのでしょう。
独立し、荒廃した国土を再建するうえで東ティモールの建国がうまく進むことは、後に続く国家に希望と勇気をあたえることになると思われます。

最近の動向
政情が悪化しています。グスマン大統領は、混乱の責任はアルカティリ首相にあるとしてその辞任を要求し、市民1万人によるデモも行われ、首相が辞任を拒否するならば大統領が辞任する・・・とまで発言(後で撤回)しました。結果として首相は辞任します。今年の6月のことです。
しかし、治安悪化が続き、国連は平和維持活動(PKO)再開に動き出していますが、元兵士の反乱もあって事態は緊迫しています。
# by m-morio | 2006-11-05 13:06 | 市民カレッジ
最近は、運動不足解消のため、プールでの水中ウオーキングでセッセと歩くことが多いのですが、今日は晴天で風も弱かったので車で40分ほどのところにある西岡公園まで出かけ2時間ほどゆっくりと散策してきました。
本当に気持ちのいいひと時でした。
この公園は、教室でも時々訪れる場所なのですが今年は教室も欠席ばかりですからひょっとしたら今年はじめてかも。。。

もともとは水源池で、旧陸軍の水道施設として月寒川を堰き止めて造られたもので,昭和46年にその役目を終えたのだそうです。
現在は水辺の公園として広く親しまれています。ミズバショウが群生する湿原の中には木道があり,エゾハルゼミ,エゾアカガエル,エゾサンショウウオなどの姿も見られます。また,トンボや野鳥の種類も多く生息しています。

そんな公園を105ミリのマクロと20ミリを持って散歩しました。
落葉がクッション代わりになって快適です。ススキが逆光に輝き、ツルアジサイもすっかり様子を変えていました。
珍しい鳥にもあいましたよ。
年に何回か現れるのだそうですが”ウミウ”が一羽ポツネンと鎮座しているんです。二羽いるのだそうですが、今日は一羽のみ・・・。私はこの公園で初めて眼にしました。

そんなのんびりした公園に 演習の機関銃の音が絶え間なく聞こえるのは興ざめではありますが。。。

                             紅葉も終わりですが、よーく探すとまだまだ・・・
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                             ウミウ です
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                             何をしているか わかりますか
                             たけ箒では間に合わないんです・・・風で落葉を吹き飛ばして寄せ集めています
西岡公園_f0020352_19262529.jpg

# by m-morio | 2006-11-02 19:29 | 日々雑感
ずっーと気になっていた新聞記事があります。
06.10.07付けの報道です。
チェチェン 再び_f0020352_914452.jpg

ロシアの新聞記者アンナ・ポリトコフスカヤさんがモスクワ市内の自宅で射殺されたという事件を報じています。
ポリトコフスカヤさんは、チェチェン共和国の多くの市民がロシアの軍隊や治安機関による捜査や作戦過程で行方不明になったとする記事などを発表し続けていました。
その活動に対して、ロシア連邦ジャーナリスト同盟から「ロシア黄金のベン賞」(2000年)、アムネティ・インターナショナル英国支部から「世界人権報道賞」(2001年)を受け、あの2002年、モスクワの劇場占拠事件では、武装グループから仲介役に指名され交渉にあたったという経歴を持った記者でした。

雑事にかまけて彼女の著書「チェチェン やめられない戦争」を手にする時間が無かったのですが、やっと図書館から借用してきました。
チェチェン 再び_f0020352_9164372.jpg
プロローグに
「自分はモスクワの新聞「ノーヴァヤ・ガゼーダ」の特派員で取材のため派遣された。戦争特派員ではない。ごく普通の市民だから派遣されたのだ。つまり戦争に巻き込まれてしまったチェチェンの村や街の人々の体験をもっともよく理解できるだろうとのことからだった。1999年夏から毎月チェチェンに通った。チェチェンの全土をくまなく歩き回った。そして多くの悲しみを眼にしてきた。その最たるものはこの2年半に私が取材してきた人たちの多くが、今はもう死んでしまったということだ。この戦争(第二次チェチェン戦争のこと)はそれほどひどいものだ。」
と書いています。

ポリトコフスカヤさんが眼にしたのは何だったのでしょうか。
その状況は著書にこと細かく記されています。

ロシア軍の目標は、イスラム教徒のゲリラの完全なる一掃です。しかし、対ゲリラ戦争は極めて困難です。とりわけ、ゲリラが活動する地域の住民がゲリラを支援していると、よそ者の軍隊には、ゲリラと住民の区別がつかなくなります。その結果、住民に対する虐殺事件が続発することになります。チェチェン側の死者のほとんどが、ロシア軍による無差別爆弾の犠牲者といわれています。さらに「ゲリラ掃討作戦」という名のもとに、住民が突然自宅から連行され、そのまま行方不明になったり、死体で発見されたりする事態が頻発しています。チェチェンゲリラの情報を集めるためにロシア軍の兵士が、一般市民を拷問することは日常茶判事となっているといいます。

こうした日常を取材していたのがポリトコフスカヤさんだったのです。彼女はロシア人です。取材の厳しさが行間に現れています。チェチェンの年配者はともかくとして少年少女はロシア人を見ただけで、敵意むき出しにし一言も喋らなくなったことも度々だとか・・。顔をあわせた瞬間、脱兎のごとく走り去る。彼女は、一瞬少年が隠している銃を取りに走ったのでは?その銃で撃たれるかも・・と思ったと言います。
やっと重い口を開いてくれた(ロシア語を話せるが話さない少年の言葉を、母親の通訳で)少年の口から吐き出された言葉・・・・・・・・・

プーチンは、なぜアメリカのテロ犠牲者には黙祷を捧げようと言ったのに、何の罪もなく殺されていくチェチェン人については何も言わないの? 

どうして、原子力潜水艦「クルクス」の乗組員が死んでいくといって、国全体が震撼させられたのに、この村から逃げ出した人々が畑で何日間も銃殺され続けてもあなた方は黙っていたのか
・・・ということだった。
「僕を撃ち殺そうとしたんだ!わかるだろう!」
「どうしてそんなことになるのか知りたいんだ」 

         私も知りたい・・・と彼女。

2002年10月のモスクワで発生した劇場占拠事件は、チェチェン問題が依然解決していないことを世界に知らせた事件でした。
長年、ソ連・ロシアによって抑圧されてきたチェチェンの人々の、ロシアに対する怨念は根強く、血を血で洗う紛争が続いています。
チェチェンがロシアにとって経済的にも政治的にも重要な場所であるがために、ロシアは妥協する気は無いのでしょう。
力での制圧しか考えていないのでしょう。

関連の記録 は チェチェン を!
# by m-morio | 2006-11-01 09:42 | 市民カレッジ
昨日の 北大のポプラ で倒れたポプラが楽器に変身して・・・・・と書きました。
時間が無くて調べられませんでしたので、今日そのことに触れておきます。

台風で倒れたポプラの木を乾燥させ、楽器に仕上げるのに2年間の時間を要しましたが今年の9月8日(台風の日です)に「チェンバロ」という楽器に生まれ変わり、初演奏がチェンバリスト 水永牧子さんによって北海道大学のクラーク会館で披露されました。
ポプラが生き返って チェンバロ に_f0020352_21203020.jpg


その様子は「北大時報」に掲載されていましたので参考にしてください。
また、演奏者の水永さんのもそのことをブログに書かれています。
# by m-morio | 2006-10-30 21:27 | 日々雑感

by m-morio