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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

この2~3年間、身の回りでいろいろなことがありました。
健康上の問題、身内の諸事情などです。
そんなこんなでブログの更新が長期間滞りました。
やっと落ち着いてきましたのでボチボチとアップを開始ます。
いつものように、思いつくままの駄文ですがご覧いただければ幸いです。
10月から再スタートします。
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# by m-morio | 2015-09-28 19:06 | 日々雑感
▽今年も年賀状のお年玉当選番号の発表がありました。
この抽選には当たらなくなりました。
最下位でもいいから・・・と念じながら番号をチェックします。
ひと昔前は、商品も豪華でその数も多かったと記憶しています。切手シートを何枚も頂いた。
今年は1枚。
まあ、当たっただけで良しとしましょうか。

▽喜寿を迎えるような年齢になりますと、「喪中」のお知らせが11月から沢山?届きます。
時には、12月半ばに入ってから・・・ということもあります。
良く見ると、12月に身内に不幸があったとの知らせです。
このようなこともありますので年賀状を投函するのは24日頃と決めています。
このお知らせも年を重ねるにつれその内容に微妙な変化があります。
親御さんよりも兄弟姉妹の訃報がその大半を占めるようになりました。
年をとったなあ・・・と感じる一瞬です。

▽賀状は何時ものように、「形ばかりの年賀」(ゴメンナサイ!)と「近況を認めた賀状」に大別されます。

千葉にお住まいの先輩からは、毎年菜園の様子が届きます。
ご本人と奥様の趣味にも触れられながらの近況は、いつも心待ちにして読ませていただいています。

元同僚は、ここ数年連続して全道展(絵画)の入選作品をハガキ一杯にプリントして届けてくれます。ただ、困ったことにその抽象的な表現を十分に理解できないのが残念ですが。

弁護士のK先生は、現役時代顧問弁護士として大変お世話になった方。
賀状には、何時も世相に触れられた言葉が添えられています。
先生も既に傘寿を超えられたはず。事務所も3名体制になったとのこと。

高校時代の同級生からは、いつも難解な言葉を散りばめた賀状が届きます。
よくまあこんな表現が思いつくものだと感心しています。
「懐かしいモノクロ映像の溶暗するごとく・・・」という書き出しで・・。
何となく理解はしても、新年早々こんな難しい表現に出くわすのも少々困ったものです。
今度会った時に「小言」を言っておこう!
・・・・奈良県在住のためなかなか会う機会が無いので、実現した際にはこのことは忘却の彼方かもしれませんが。

▽振り返って、我が賀状は・・・。
いつも二種類作ります。一つは家内のためのものです。こちらには、趣味の陶芸の作品を貼り付けます。
そしてもう一つは私の知人等あてのものです。
形式としては、上部に写真を一枚配置。
勿論、自分の作品ですが、体力の衰えで新作が少なくなっています。
下部に近況を。そして、余白に一言自筆で。
・・・というのが最近定着しています。
受け取られた方にポイと横に置かれることなく、少しでも目を通していただけるように腐心するのですが、
なかなか満足のいくものはできませんね。
暇に任せて、一月もの間、もんもんとした割には・・・です。

▽今年も、「今年限りにします」との添え書きがついた賀状が届きました。
以前にもこの種のあいさつを受け取りました。ほぼ80歳位の方々でした。
残念ながら、それから1~2年後に訃報が・・・。
家族からは、「お父さんが 選別 されたのかもね」と言われています。
あり得ることでしょう。10年も20年もの間会う機会がない方々ですから。
そこで一句
「添え書きにこれで終わりと幕を引く」 (「どうしん川柳」より)

来年は出せるかどうかわかりません これが最後かも・・とあったのは 今年93歳になる伯母からの賀状でした。

▽体調は!?
賀状に「当面の目標・・”東京五輪”と”はやぶさ2の帰還”を見届けること」と認めましたが、
本音は10年先を見据えています。
多病息災 です。

無理せず、花の写真を撮ったり、パークゴルフを楽しんだり、年に1回は孫に会いに行く程度のことを目指します。

そうそう
孫の たっくん のお母さんが昨年末に自宅で雑貨店をオープンしました。
週3日間のみの営業という店です。
京都四条通から少し入った場所にある京町家を手直ししての開業です。
「sumao」という店。
http://sumao.info/
興味がおありでしたら覗いてみてください。
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# by m-morio | 2015-01-19 09:51 | 日々雑感
随分長い間 たっくん の話題が途切れてしまいました。

たっくん は 元気一杯です。

ここ3年ほどは、地域のミニ・バスケットチームに所属し、日々練習に、試合に熱中しました。
水泳もテニスもやめて、ひたすらバスケ漬けの毎日でした。
お父さん、お母さんも クラブのお世話や 応援に大忙しでした。
地方遠征もありました。

その たっくん も 小学校を卒業です。

良い思い出であり、仲間達と過ごす日々が如何に大切かを、身を以て感じていることだろうと じいじ は 思っています。

たっくん は 人に好かれる子です。

彼が 京町家に住んでいることは 以前に触れました。
ここに良く人が集まります。
お泊り会と称して4~5人が泊まっていくことは度々です。

特に大勢集まるのが、クリスマス会です。
この会は、彼が企画して自宅で催します。
ほぼクラス全員(といっても20人程度ですが)が集まるのですが、なぜかしら総勢50人近くにもなったことがあったとか。
クラス全員、その兄弟姉妹、そしてお手伝いのお母さん方、さらに担任の先生一家・・・
写真で見ると壮観です。

“人が集まる家”って良いなぁ・・・と思います。

そんな彼も、春から中学生です。
正月に我が家に遊びに来たとき、一緒に風呂に入りながらいろいろな話をしました。
中学に行ってもバスケは続けると言っています。
こんどは”部活動”ということになるのでしょう。

体力的にはちょっと大変だろう・・・と じいじ は 余計な心配をしています。
でも、ミニバスケを始めたときの練習風景を観ましたが、パスさえも心許なかった彼が、今は良く走りチームの貴重な存在になっている様子を動画で見るたびに、ジーンときます。

付け加えておきたいのが、お父さんの存在です。
練習試合の審判を引き受けて子供たちと一緒にコートを走り回っているのは立派。
(資格をもっていないので、練習試合のみですが)
そんな姿を目の前で見ている彼は、きっと晴れがましい気持ちでいるのだろうと想像しています。

中学の3年間はあっという間に過ぎることでしょう。
そのあとは、高校・大学の受験が控えています。
今のうちに、しっかりと体力をつけてくれればと願っています。

じいじ は 彼が成人するのを目に焼き付けるまでは頑張りたいとの思いがありますが、
今の健康状態ではその可能性は ? です。

たっくん 頑張れ!

↓ お父さんの審判の様子
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# by m-morio | 2014-03-17 18:53 | たっくん
今回の受講で私の興味を引いた国がある。
「リベリア」と「ルワンダ」。
その二つの国について簡単に触れて締めくくりとする。

▽リベリア共和国(リベリア)は、特殊な経緯によって建国された。
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即ち、アメリカで解放された黒人奴隷によって建国されたのである。
この建国に力を貸したのが「アメリカ植民地教会」であった。
リベリアの建国は1847年であるが、植民地協会が解放奴隷をモンロビア(現在の首都)に入植させたのは、これから25年も遡る1822年のことであった。
その数、推定で2万人未満ではないかといわれ、この国の人口の1%にも満たなかった。

これらの入植者(自らをアメリコ・ライベリアンと呼んだ)は、直近までアメリカのプランテーションで、賎民として、権利など一つも持たない奴隷として生きてきた。
ほとんど読み書きが出来ず、手には何の職もない。かれらの祖先は、かつてアフリカで拉致され、アメリカに運ばれ、奴隷市場で売られた。

その彼らが、ついこの間まで奴隷だった者たちが、再びアフリカに戻ってきたのである。
植民地教会からは、“自立しなさい” “自ら運命を切り開きなさい” と解放された彼らは、これからどう振舞うのか? 何をすべきなのか? 戸惑うばかりだった。
なぜか? アメリコ・ライベリアンが経験で知っている社会は奴隷制しかない。
従って、新天地に到着して最初にとった行動は、どうようの社会を再現することだった。
キリスト教徒で、英語を自由に操り、アフリカ式の生活スタイルと価値観を持った昨日まで奴隷だった彼らは突然主人となり、そして奴隷は現地の人々だった。
言い換えるならば、彼らの移住は、もともとそこに住んでいたアフリカ人にとっては形を変えた植民地支配であった。

リベリアは、奴隷自身が奴隷制度を引き継いだ。
アメリコ・ライベリアンは、自分たちのみが市民権を有する国民だと宣言した。

こうして二つの社会が出来上がった。
もともとの住民には市民権を与えずに、政治から排除した。
彼らに生存権は与えたが、それも定められた部族居住区でのみだった。
このアメリコ・ライベリアンによる国家運営に対して、土着のアフリカ人の不満は限界に達する。
20世紀半ばころにはリベリア政府に対する反乱が起きだした。
1979年、政府の一方的な施策に抗議して民間人が蜂起。
これをきっかけにリベリアは混乱の度合いを増し、1980年にドエ曹長(クラーン人)が率いる軍のクーデターが起きた。
彼らは、ドルバート大統領をはじめとする旧支配層を大量に処刑して、アメリコ・ライベリアンの支配が根絶された。
その後、国家元首となったドエ大統領も殺害(1990年)され、内戦が続く。
断続的に内戦が勃発していたが、2003年4月頃から政府と反政府勢力との間で戦闘が激化。
同年8月、和平合意が締結され、同10月に移行政府発足。
2006年、アフリカ初の民選女性大統領(ジョンソン・サーリーフ)が誕生。
2011年には、総選挙が実施されサーリーフ大統領が再選された。

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# by m-morio | 2014-03-09 15:30 | 市民カレッジ
Ⅱ アフリカの現状

1 全世界の約5分の1、日本の約80倍という広大な面積を有するアフリカ大陸。
広大な土地に54か国がひしめく状況が、企業のアフリカ進出を難しくしている一因といわれる。
最近のアフリカ大陸内部の動向を眺めてみよう。

 従来のアフリカへの投資は、旧宗主国の英、仏、ポルトガル、ベルギーなどが中心だった。
しかし、近年はBRICSなど新興国が主役の座を占めつつある。
その中でも、特に中国企業の進出が目覚ましい。
54か国のうち英語を公用語とする国が22か国、フランス語も21か国(重複を含む)。
欧州各国による植民地政策華やかなりし頃、海軍が強かった英国が海沿いを抑え、陸軍の強い仏国が陸続きに支配圏を広げた。
かくして、米英の投資は英語圏に、仏国の投資は仏語圏へと向かった。こうした動向は、大陸における隣国同士であっても貿易や交流が途絶し、アフリカ全域の発展を阻む一因となったとされる。
このような過去の経験からすると、現在の言語圏と関係ない中国の投資は国境を越えたアフリカの融合を促す可能性があるといえるのだろう。ブラジルやインドも競り合う。
ただ、これらの新興国は、旧宗主国のように文化、教育を通じた深いつながりがないのが弱点ともいわれる。

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# by m-morio | 2014-03-09 13:55 | 市民カレッジ
2 20世紀以降のアフリカ大陸

▽独立と内部紛争

自由と尊厳を奪われたアフリカに、20世紀半ば、独立の波が押し寄せる。
19世紀以降、アフリカ各地は植民地となった。白人が黒人から土地を奪って低賃金で働かせ、税金を徴収するような搾取が行われた。
19世紀後半には、こうした理不尽な政策に対して抵抗運動が起こっていた。
これらの運動のほとんどが鎮圧されたが、後の独立運動の原動力になっていった。
また、インドやアジア諸国が次々と独立したことも、アフリカの独立意識を後押しした。
 
このような機運を受け、アフリカ諸国は、1957年のガーナを皮切りに、次々と自由を手にしていく。
特に1960年には17カ国が独立を果たし、「アフリカの年」と言われた。

黒人が主権を獲得し、新しい時代がやってきたかに見えたが、アフリカは、この後もさらに苦難の道を歩むことになる。
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独立を果たしたアフリカ諸国だったが、その後数々の紛争が勃発。
中でもナイジェリアでは、「ビアフラ戦争」が起こった。
ナイジェリアは、「イボ」「ハウサ フラニ」「ヨルバ」という三大勢力と、大小250以上の民族で構成されていた。独立後、イボ人の住む地域で石油が発見され、工業化と経済発展が進む。そしてイボ人は、「ビアフラ共和国」 (注)としての分離独立を宣言する。しかし、これを認めないナイジェリア連邦政府との間に内戦が始まる。
さらに大国による軍事援助が行われ、フランスはビアフラを、イギリス・ソ連は連邦政府を支援する。
(注) ビアフラ共和国・・1967年にナイジェリアの南東部に置かれていた東部州が独立宣言したことに伴い樹立されたイボ族を主体とした政権・国家。1967年5月30日から1970年1月15日まで存続した。
大国の代理戦争となったことで、戦争は長期化。
連邦政府による包囲で食糧・物資の供給を絶たれたビアフラは、飢餓に苦しむ。犠牲者200万人のうち、150万人が餓死者と言われる。
当時、世界中でこの戦争が報道され、アフリカ=飢餓・紛争というイメージが世界に広がった原因の一つとなった。
この内戦は、アフリカ共通の根深い苦しみを代弁していた。
植民地時代に列強の都合で引かれた国境線が、部族・民族の間に利害対立を招き、同一の歴史や文化を共有する「国民」が形成されなかったのである。

▽アパルトヘイト
 南アフリカには、大きな別の問題があった。
アパルトヘイトは、1991年までアフリカで行われていた人種に基づく差別政策。
世界中から非難を浴び、国連をして「人道に対する犯罪」とまで言わしめた差別政策が、今からわずか23年前まで続いていた。
政治に参加する権利や職業を選ぶ自由は白人のみに認められ、住む場所も歩く場所も人種によって区別された。異なる人種同士の結婚も・・・。
1948年には、アパルトヘイトが法制化され、差別は強まっていく。
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こうした激しい差別に黒人たちが立ち上がる。
反アパルトヘイト運動の中心に立ったのが、ネルソン・マンデラだった。
マンデラは、1962年に逮捕、投獄。黒人たちの抵抗運動は、マンデラの釈放要求を軸に激しさを増し、度重なる暴動やストライキが行われた。
加えて、世界中から経済制裁を受けた南アフリカでは、アパルトヘイトの撤廃を迫られる。
1990年、マンデラは28年ぶりに釈放。彼は、黒人の支配でもなく白人の支配でもない、平等な国家建設を訴えた。
1991年、アパルトヘイトが全廃され、1994年には黒人を含めた全人種による選挙が初めて行われた。
この選挙で、ネルソン・マンデラを大統領とする、新生南アフリカが誕生した。

 そのマンデラ氏は2013年12月に亡くなった(95歳)が、現在の南アフリカは、政権の腐敗や格差の拡大で揺れている。

(つづく)
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# by m-morio | 2014-03-08 12:25 | 市民カレッジ
9年続いている 「現代史」 の講座を受講した。

今回のテーマ:

「アフリカの時代」は来るか‥‥21世紀を迎えたアフリカ大陸

その講義をまとめみた。

いつものように"受け売り" 。

以下の資料などを参考にした。
・講義の配布資料
・日本経済新聞
・リシャルト・カプシチンスキ著 「黒檀 世界文学全集Ⅲ-02」 河出書房新社
・松本仁一著 「アフリカ・レポート」 岩波新書
・宮本正興 松田素二 編 「新書 アフリカ史」 講談社現代新書
その他

比較的馴染みの薄い地域なので、現在のアフリカ大陸の全図を。
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なんとも広大な大陸である。

この大陸で何が起き、何が問題なのか解きほぐしていきたい。

Ⅰ アフリカ史
1 16~19世紀のアフリカ大陸
大航海時代(注)に入り世界がつながりつつあった頃、ヨーロッパ諸国はアフリカ大陸へもその触手を伸ばし、豊な資源を求めるようになる。
しかも、資源と同時に「人間」までもが商品として大陸から連れ出されてしまった。
(注) 15世紀半ばから17世紀半ばまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸、アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出
16世紀以降、アフリカ大陸は、人・物・土地など全てにおいてヨーロッパ諸国に搾取されることになる。

▽奴隷貿易
アフリカ大陸は、15世紀頃まで、交易によって各地がそれぞれに栄えていた。
15世紀半ばになると多くのヨーロッパ諸国が足を踏み入れ、各地に砦や交易所が築かれた。
特に西岸部は、特産品にちなんで「黄金海岸」「胡椒海岸」「象牙海岸」などという名が付けられた。
中には、「奴隷海岸」という場所も存在した。
アフリカでも以前から、戦争の捕虜や犯罪者が、奴隷として売買されることがあったようだが、ヨーロッパ諸国がアフリカで行った奴隷の取引は、桁違いの規模だった。
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この奴隷貿易は、16世紀、ポルトガルとスペインを初めとしてオランダ、イギリス、フランスなどが西インド諸島や南北アメリカ大陸でヨーロッパ市場向けの広大な農園経営に乗り出し、大量の労働力が必要となった。地元の労働力には限界があった。
そこで浮上したのがアフリカから奴隷を移入するという考えであった。
ヨーロッパでも特に、イギリスは、自国で生産した武器や火薬をアフリカで売り、アフリカ人はそれを使って奴隷を確保した。
奴隷は南北アメリカ大陸や、カリブ海の島々などの植民地へ運ばれ、労働力となった。
このようにして成立した三角貿易が、イギリスに富をもたらし、産業革命を可能にしたといわれている。
しかし、奴隷貿易の裏側の実態は酷いものだった。奴隷運搬船には多くの奴隷が、身動きが出来ないほど積み込まれ、船内は悪臭に満ちていた。病気も蔓延し、病に罹った者や死んだ者は、次々と海へ捨てられた。綿畑や鉱山では、鞭打たれ、拷問が当然のように行われた。
奴隷貿易は「西洋の筋肉になった」と表現されることがあるが、筋肉を提供したアフリカは、骨と皮だけになった。
奴隷貿易は、アフリカを苦しめながら、ヨーロッパ諸国を近代化へ導いた。
18世紀のヨーロッパに広まった自由や平等を主張する啓蒙思想は、奴隷制という非人道的な制度を廃止へと向かわせた。

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# by m-morio | 2014-03-07 13:35 | 市民カレッジ