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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

受け売り 現代史 ラテンアメリカ 2

4 人口構成の違い
 ラテンアメリカは、アステカ・マヤ・インカなどの文明地帯には、安定した農村社会と密集した人口があり、また金銀などの鉱物資源が早くから発見されたため、スペイン人の征服後、彼らの労働力による生産体系が急速に成立した。
この点、自営農民や商人が主体となって白人社会をつくり、先住民の存在を排除したアメリカ合衆国の場合とまったく事情が違っていた。

また、アメリカ合衆国の場合は、ヨーロッパ人、先住民、アフリカ人によって人口構成の基礎が作られたが、合衆国の場合は、各民族集団間の”隔離”が特色であった。

一方のラテンアメリカでは、これら三者間に著しい血の混合が起こり、白人(スペイン人)と先住民の混血(メスティーソ)、白人と黒人の混血(ムラート)、先住民と黒人の混血(サンボ)などの集団が多数発生している点が注目される。
注)社会構造については下図を参照
受け売り  現代史 ラテンアメリカ 2_f0020352_2024954.jpg


5 植民地の形成
 征服の期間が過ぎると、スペイン、ポルトガルによる植民地経営が実施されていく。
まず、スペイン王室は新大陸の植民地社会を、人種別身分社会の枠組みで厳しく管理しようとした。
しかし、その目的は必ずしも達成されなかった。

確かに人種を差別する階層社会が植民地に形成されたが、一方では非常に早くから混血が進み、多様な組み合わせからなる新しい混血人種が誕生したからである。

しかし、16世紀後半になると、植民地統治体制が出来上がり、スペイン女性の移住者も増加し、スペイン人を頂点とする厳しい人種別身分社会が形成されていったものの、植民地で産まれた混血の数は、時代を経るに従いネズミ算式に増加していった。

白人絶対主義の「血統の純正」の原則も、植民地時代の末期になると実際には限られた支配層にだけ残っていたのである。
なお、この混血に関してはポルトガル領においても全く同様の推移をした。

6 奴隷制度
 ポルトガルは、アフリカの黒人奴隷を、既に新大陸到達以前からヨーロッパに導入していた。
従って、これらの奴隷はスペイン人の新大陸到達の初期から新大陸に連れてこられていた。

スペインはポルトガルが運んでくる黒人奴隷の最大の顧客であった。
そのため新大陸の征服と植民地経営には、初期から黒人奴隷がスペイン人とともに参加していた。

特に、先住民は征服者たちから虐待されその人口を激減させていたこともあって、インディオの労働力に代わるものとして黒人奴隷の導入は植民地開発に必須なものとなっていた。

さらにブラジルやカリブ海域では砂糖プランテーションの発達によって黒人奴隷への需要が増し、植民地時代を通じて膨大な数のアフリカ黒人奴隷が導入された。
受け売り  現代史 ラテンアメリカ 2_f0020352_2061236.jpg

 過酷な労働と奴隷所有者の残忍な扱いなどから逃亡を企てて失敗すると、奴隷は厳しく処罰された。それでも多くの奴隷が逃亡し、追手の及ばない奥地へ逃れた。
一方、奴隷の身分から解放される方法はどの地域にもあった。

人情に厚い主人に出会って解放されたもの
主人の子どもを生んで解放されたもの
結婚して家庭をもったものもいた
 植民地時代末期の1785年にスペインは、陰謀を密告したり、白人の命を助けたり、あるいは長期間忠実に奴隷として働いた場合を条件として、自由を認める勅令を公布している。

植民地時代を通じて多様な地域社会を形成した広大なラテンアメリカでは、奴隷制のあり方も地域によってさまざまであった。
 この奴隷制度は、ラテンアメリカ諸国の多くは独立を機に廃止していくが、最も廃止が遅れたのはブラジルであった。(1888年)

(続く)
by m-morio | 2011-04-07 20:09 | 市民カレッジ

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