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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

パレスチナ問題 ・・・パレスチナ分割 と イスラエル建国

1918年11月 第一次世界大戦が終結(ドイツの敗退)。
先に触れましたように、イギリスはいろいろな約束をしました(イギリスの三枚舌外交などといわれます)。
まず、イギリスが選択したのは、フランスとの約束です。
そうです、中東を分割統治するというものです。

一方、アラブはイギリスとの約束を信じて、1920年にシリアとイラクの独立を宣言します。
ところが、イギリスもフランスもこれを認めなかったのです。シリアはフランスが、イラクはイギリスが委任統治すると決定しました。
怒ったアラブは反乱を起こしますがすぐに鎮圧されてしまいます。
しかし、このままではおさまらないだろうと判断したイギリスは妥協することによって、シリアから、レバノン、パレスチナ、トランスヨルダンが分割されました。
また、ヨルダン川の東西にまたがる部分をパレスチナとして委任統治しようとしていたイギリスは、1921年ヨルダン川の西だけをパレスチナと決め、そしてあの「バルフォア宣言」の該当地をこの部分に狭めてしまいました。
シオニスト内部ではこの提案に賛否両論があったものの、
1922年9月、イギリスによる委任統治が始まります。

このようにヨーロッパの大国の都合の良い思惑で線引きされた国境によって、パレスチナ問題という解決の糸口が見えない問題が生み出されてきます。
アラブ人にとっては、自分達の土地にやってきた見知らぬ外国人によって、お隣さんと喧嘩をするというはめになっていくのです。

イギリスによる委任統治が始まると、ユダヤ人移民はパレスチナへ怒涛のように押し寄せたといいます。
ユダヤ人はイギリスの後ろ盾を受けて入植してきました。
彼らがパレスチナ住民と摩擦を起こすことは、イギリスにとって都合のいいことだったのです。
なぜか、アラブは未だ独立を求める意識が強くてあまり望ましい存在でなかったからです。
内部消耗作戦だったのでしょう。
結果として、パレスチナ人は、イギリス政府への抗議運動を開始します。この運動は次第にユダヤ人入植者にも矛先を向け、さらにユダヤ人に土地を売るパレスチナ人やアラブの地主にも広がっていきます。
パレスチナ民衆の 反英・反シオニズム運動は、より激しいものになっていくとともに、
パレスチナにおけるユダヤ人の人口は1929年には15.6万人にまで増加しています。

1929年には、パレスチナ人とユダヤ人の大規模な衝突が起こり、
さらには1936年、当時パレスチナ人は港、鉄道、郵便など全ての公共事業で働いていましたが、その彼らが独立を求めて反英ゼネストを行います。その結果、パレスチナは麻痺状態に陥りその闘争は3年間続き、イギリスの統治力は失われていきます。
進退窮まったイギリスは、パレスチナ分割案を出したり、パレスチナ全域に一つの国家を作るという案も出しますがこれも双方の合意を得られず、かえってシオニスト運動の中での反英活動が活発化し、テロも頻発するようになっていきます。

1939年 第二次世界大戦が勃発。
イギリスとともにナチスと戦ったユダヤ人は、イギリスの勝利とともにパレスチナでの力をもつようになります。
しかも、ナチスによるユダヤ人大量虐殺が明るみに出ると、世界中の国々が、ユダヤ人が国を持つ権利を認めるようになってきます。
この間に、アメリカのシオニストたちは、世界シオニスト運動として「全パレスチナをユダヤ国家として独立させることを宣言」し、移民と土地取得の自由を求めていきます。
これがアメリカのシオニストの決定であることは極めて重要なことです。ユダヤ人が、自分達の後ろ盾を、イギリスからアメリカに乗り換え始めたことを意味しています。

の後、ユダヤ人のテロ組織によるイギリス攻撃が激化し、イギリスはいろいろな対策を打ち出すも決定打もなく、結局問題の解決能力がないことを認め、これを国連に委ねることにしたのです。1947年2月のことです。

1947年11月29日 国連は「パレスチナ分割」案を採択します。パレスチナ問題 ・・・パレスチナ分割 と イスラエル建国_f0020352_15332844.jpg図は国連の分割案によって線引きされた様子です
しかし、その内容は圧倒的にユダヤ人に有利なものでした。当時、パレスチナの土地の6%しか所有していなかったユダヤ人に56%を与えるというものであった上に、ユダヤ人に当てられた場所は、水資源があって農耕などにむいている場所だったからです。
そこにはアメリカの強烈な後押しがあったのです。

にもかかわらず、シオニストはこれでも満足せずに、1948年5月その国境を明示しないまま「イスラエル国家の樹立を宣言」してしまいます。

これに怒った周辺のアラブ諸国が抗議、反撃に出たことで第一次中東戦争が勃発します。
なお、国連の案は
56%がユダヤ国家、
43%がアラブ国家、
残りの1%にあたる「聖地エルサレム」は国際管理地区
とするという内容でした。

ちなみに、独立時、イスラエルのユダヤ人の人口は65万人でした。
by m-morio | 2006-08-17 14:24 | 市民カレッジ

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