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はじめのいっぽ

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日々雑感を記録します

写真家 ・・田本研造・・

「市民カレッジ」といいますと私の場合は「現代史」ですが、今回は少し違った分野の講座を受講しました。
その理由? 特別なことはありません。9月の札幌は気候が良く過ごしやすい日々です。暑さをやり過ごしたこの時期にまた勉強でもしてみようかと講座を物色していて目に留まったのがこの講座でした。
「箱館開国伝・日本を拓いた男たち~北海道から全国へ発信~」
です。
講座の紹介文には次のように書かれていました。
「忘れられがちな郷土の歴史を見直し、現在までの歴史的なつながりを再発見します。
 幕末、ペリー来航から明治維新までの十数年、箱館は日本の重要な貿易港として位置付けられていました。また、人も文化もこの期間に集中し、エネルギーがみなぎる都市でした。
 いきいきと輝いていた箱館の歴史的な位置づけを見直し、異国の文化を貪欲に吸収しようとしていた人々の姿を学んでいきます。
その中から、既成概念にとらわれずに、新しいものを受け入れて発展してきた北海道人気質を検証していきます。」

講師は仕事の合間に個人的な興味から、生まれ育った”箱館”にかかわりのある人物・歴史を研究している某テレビ局のプロデューサーを職業とする方です。この講座はシリーズで開講されていて、今回は2回目とのことでした。(私は、初めての受講です。この後も継続して開講される予定です。)
講師は仕事柄、道内各地(勿論、海外へも)に足を運ぶのですが、行くところどころで「この町・村は歴史がないから」との地元の人々の声に接するといいます。
しかし、北海道においても、地味であっても地域に貢献した多くの人たちがいたことをここに取り上げその位置づけを浮き彫りにしていこうと言う講座です。それが今回は”箱館”と言うことです。今回は6回(6週間)で7人の人物がその対象となっています。

まず、登場人物ですが
ゴシケヴィッチ・・・初代ロシア領事
澤辺琢磨・・・・・・最初のハリストス正教徒(坂本竜馬の従兄弟)
新島襄・・・・・・・箱館から密航
ニコライ神父・・・・日本ハリストス教会を創建
木津幸吉、田本研造、横山松三郎・・・箱館が生んだ写真家
馴染みのない人物が多いと思います。
今回、整理するにあたって一人一人を紹介すべきなのかもしれませんが、私の勝手な都合で「田本研造」に絞ってご紹介します。



写真家 ・・田本研造・・_f0020352_14101247.jpg
 なぜ、田本研造か・・・
彼が木津幸吉や横山松三郎らとほぼ同じ時期に箱館において「写真」の技術の習得、伝承およびドキュメンタリー写真に取り組んだことがその後の「写真」の位置づけの面においても多大な貢献をしたからです。

 北海道における写真の礎を築いた一人が「木津幸吉」といえます。彼は、現在の新潟県新発田市の出身で、安政末、足袋の仕立て職人として箱館に来ましたが、外国人が持ち込んだ布地を仕立てたのがきっかけで、初代ロシア領事ゴシケヴィッチの知古を得、ゴシケヴィッチから写真の技法を学びます。その後、ペリーとともに来箱した写真技師ブラウンの指導受け1864年(元治元年)に箱館に写真場を開きます。その後上京する際にその写真場や機材を引き継いだのが「田本研造」です。

田本研造は、
現在の三重県熊野市の農家の出身で、医学を志して長崎に赴き医学などを学び西洋科学に触れます。(後に「音無榕山(おとなししょうざん)」と名乗る)この時に写真に必要な各種薬品の知識の基礎も身につけたといわれています。
1859年(安政6年)長崎奉行所の通詞とともに箱館に赴きます。開港したばかりの箱館では、各国領事館との交渉に箱館奉行所の通訳だけでは対応できず、幕府は長崎から熟練の通訳を箱館に転勤させその通訳に同行する機会を得ました。
ところが、しばらくして凍傷が原因で壊疽にかかり、ロシア医師ゼレンスキーの手術を受け右足を切断します。これを機に手術を担当したゼレンスキーから写真の手ほどきを受け、写真師としての活動を始め、木津幸吉、横山松三郎らとともに研究を重ね、風景も撮るようになっていきます。
1869年(明治2年)に現末広町に写真館を構えます。(この年、木津幸吉は上京し、浅草に写真館を開業)この写真館は、採光用のガラス窓のついた本格的なもので、後にここから多数の写真師を輩出していきます。
幕府が滅び、蝦夷地が北海道と改称され、新政府による開拓が始まります。1871年(明治4年)開拓使の要請で小樽、札幌での開拓の進行状況を写真に記録します。(足が不自由なので、弟子井田侾吉を同行)
翌年には、函館出張開拓使庁から東京へ158枚の写真が送られ、政府に北海道開拓事業の進捗状況を伝えています。これが日本のドキュメンタリー写真の始まりであるとともに政府が写真を利用するようになった始まりであるとも言われています。
1873年(明治6年)のウイーン万国博覧会には、明治政府は日本から膨大な物産を送り出したことは言うまでもありませんが、従来の万博と大きく異なったのは写真への依存が高まったということです。輸送不可能なものを写真で見せようとしたことです。そして、これらの写真もいわゆる写真家といわれるプロから買い上げるというのではなく、一部は撮影の段階から政府が組織的にかかわる事業であったことが注目されます。当時の写真は、現在の銀塩、デジタルにはその精度において比べものにはならないとはいえ、現存する当時の写真の鮮明さは驚くべくものです。
研造は、朝早く起き、いろり端で好きなタバコを喫することが日課になっていましたが、この日(1912年(大正元年)10月21日)の朝はその姿を見ることがなく、既に亡くなっていたといいます。大往生でした。享年81歳。
研造が撮影した写真は現在も高く評価され、中でも北海道開拓使時代の記録写真は日本写真史上において現在も高く評価されています。足が不自由であったこともあってか、建造は一度も郷里の熊野へは帰ることはなかった。
<札幌豊平橋之旧景> 田本研造
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<アイヌ像> 横山松三郎
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<函館港における御召艦明治丸と随伴艦> 田本研造 か?
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by m-morio | 2008-11-02 14:34 | 市民カレッジ

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